陶器と甘酒と流水、あるいは最近のこと

さいきん、自分の日記はインターネットに公開しないでひっそりとノートに書いていた。ノートは自分の所属や仕事ぶりやおかれている環境を、誰かに表明する必要がない。ついでに誰かにとって読みやすいように書く必要もないし、誰かに読まれてどうしようという不安もない。絶対安全領域のなかで、つらつらと雑感をしたためる生活を送っていた。

こうしてnoteとかに書くとき、どうしても主題やテーマを準備する必要がある。この記事は何のテーマで、どんな気持ちで、どういう構成で、どんな結論に持っていくのか。そんなこと考えなくても記事を書けてしまう人はたくさんいるのだろうし、私のnoteなんて大した人数に読んでもらうわけでもないのに、私は何かを書く前に、結構頭の中でいろいろな準備をしてしまう。読んでもらうからには面白く、読んでもらうからには自分のキャラがクリアで伝わりやすく。読んでもらうからには何か感想や思いを持ってもらえるように。

準備といっても、手が動くわけでもない。頭の中でぐるぐる考え込んで、勝手に難しい気持ちになって、あーもうやめやめ!という感じでポイッと丸投げしてしまう。とてもなまけている。とってもナマケモノだ。

それで、今回また書いているのは、よしじゃあ再開しようと決意したわけでもなく、なんとなくnoteで久しぶりに書くかーというくらいの気持ちである。考えていることはたくさんあり、書きたいこともたくさんあるけど、とにかく脳味噌と両手が連動していない、生粋のナマケモノなので。

昨日、学生の友人とアナザーエナジー展に行った。入ってすぐ、展示室いっぱいのオブジェに圧倒される。フィリダ・バーロウの作品《アンダーカバー 2》は段ボールや布の切れ端など、比較的安価な素材の集合体だという。ビタミンカラーのオブジェはとにかくでかい。私の背丈から真正面に見えている、入り組んだ木材の黒い脚が好きだった。無数に連なる木の骨が「支えているよ〜っ」と言わんばかりに静かに佇んでいるのが、夏の林のなかにいるみたいだった。

私が好きだなあと思ったのは、韓国のキム・スンギによる《月》。多重露光で一晩動いていく月を撮影した12ヶ月分のモノクロ写真は、とても静謐で穏やかだった。写真撮影がOKなことを全然知らなくて、ほとんど写真を撮りそびれてしまったのが残念だ。巨大な3面スクリーンに映し出される映像作品を眺めながら、さいきん本屋で買ったミーヨンの『I was born ソウル・東京・パリ』を積読していることを思い出した。なんとなく私が思い浮かべている風景のイメージにそっくりだった。余韻が残っているうちに読まねば。

センガ・ネングディの作品群に友人と二人ではしゃぎつつ(踊ってもいいんだよ、と書いてあったのでもし酔っ払っていたら私は製紙工場の映像に合わせて本当に踊っていたかもしれない)、最後に現れた三島喜美代のセラミックな雑誌の束に再び圧倒された。彼女の作品は、アンディ・ウォーホルの手法をリスペクトしながら、大量生産消費と情報過多の社会が重厚に切り取られていた。本当は、実際にあの巨大な新聞の山に触れて、陶器特有の冷たさも感じたかった。ソリッドで重たい情報の集積が、そのまま私の目に見える形で出現していた。日刊の新聞ですらあんなふうにマッシブなわけで、だとしたらTwitter、あるいはYouTube、そのほかあらゆるSNSで秒単位に出現する情報のビッグバンは、なんて重たいんだ。考えただけで肩が凝ってしまう。

そうして誰かと展覧会に行くと、その後に感想をシェアできるのがいい。雨宿りで適当に入ったチェーン店で安いブリトーとチップスを食べながら、アナザーエナジー展について色々話す。なぜあの作品がメインビジュアルなのか、とか、キュレーションの順番とテーマ設定のバランスのこととか。ついでに、森美術館のセキュリティについても話す。友人は「アーティゾンも同じようにセキュリティがすごいんですよ」といっていた。MoMaとかメトロポリタンとか、テートモダンも凄そうだなと思って、また旅行に行きたくなってしまった。

その後、マン・レイの展示もみた。アナザーエナジーでフルに使った五感と頭が少し疲れていて、じっくり鑑賞していくというより、写真をみつつふんわりとnadiffを巡り、休憩がてらお茶を飲み、対象と主体の違いについて一頻り思うところを共有してすり合わせたところで、日が暮れる頃に友人と解散した。

普段、展覧会に行くと好きだなという作品は全部ポストカードを買っていくのだけれど、ポストカードのレパートリーはやっぱり絞られているように感じた。来館人数が潤沢に確保されていれば、もう少し惜しみなくポストカードもあっただろうなと思う。持ち運びには重いので、アナザーエナジー展の図録は後ほどオンラインで買うことにした。

毎週聞いてるラジオ色々で、さいきんダサさやキモさを検挙する話が、ほうぼうで出てくる。ちょっと切なくなる。ダサい人間の底知れない魅力を引き出したり、キモい人間の生きてていい場所だと思って私はラジオを聞いているから、までも、そりゃ人間だからみんなそういう感覚とか境界はあるよな、とか冷静に思う。何も気にしてないよってクールな顔で生きてる人も、どこかしらで恥ずかしい一面を持っていたり未熟な部分があって、それは自分自身が気づいていても気づいていなくても、直そうとしてもしなくても、人の目には不可避に写ってしまう。ほんで私も超あると思う。隠しきれないミーハーなところとか、好きなものの話をする時に相手に合いの手を打たせる隙も与えないところとか、気にしすぎるあまりに本当に気味の悪い言葉遣いや、歪んだ表情になるとか、意地でも負けたくない時に、人の意見を飲み込んだと思ったら全く意見を曲げていなかったりするとか。

でも、それはもうきっと仕方のないことなんだろうな。完璧に素敵な人間になりたい、優しくて強い、穏やかな人間になりたい、とか本当に寝る前にめっちゃ思うけど、どだいそんな人間もいないんだろうな。シンプルで穏やかで魅力的な人が、その心を覆うようにして内側に仕舞い込んだ、複雑な気遣いや優しさや心配事を持っていることを見ないフリするのは、あんまり良くないような気がする。

さいきん、甘酒を飲めるようになった。子どもの頃、酒粕の類が苦手だった。粕汁、粕漬け、わさび漬け、そして甘酒。それらが日常的に登場する渋い食卓というわけではなく、年に1回出るか、出ないの頻度でも、その逢瀬で私は奴らをお世辞にも愛することができなかった。でも、今年は疲れて夕飯が喉を通らない代わりに、ワンカップの甘酒をちびちび飲んでいる。日本酒が飲めるようになったからなのだろうか。それともさいきんセブンで売っているこのワンカップ甘酒が旨いからなのだろうか。ワンルームでワンカップ甘酒を飲んでる夏バテ気味の女を、あのパーソナリティは笑うだろうか。なんかやだな。ずっと応援してるのに!今更そんな線引きしないでよ!ビーサンでコインランドリー行ったっていいじゃない!菅田将暉が場末のラーメン食ってたっていいじゃない!もう!

とはいえ結局のところラジオがとても好きだ。ひとりで聞いていてもブァって笑えるし、笑った時に他のリスナーも笑っている感覚で共振する感じがあって好きだ。どれだけ腐しても、生真面目な尺によって半強制的に切り替わっていくテンションの無機質な抑揚が好きだ。さっきまでめちゃくちゃみんなで盛り上がっていたのに、突然「それではCMです」とメタに切り替わるあの感じも大好きだ。こちらの生活にぬるっと入ってきた人たちが「それではまた来週」とビジネスライクに締めてしまうのも好きだ。突然音が途切れて、ぐわんと現実の生活音に戻る時のさびしさが好きだ。そして次回が始まる1週間のうちに、先週のフリートークの半分も覚えていないくらいがちょうどいい。陶器のように重く硬い情報ではなく、水道を流れる水のような。かわいた心を適度に潤して、蛇口をひねればスッと止まってしまう。心にとどまり続けることもなく、たまに思い出したようにまた蛇口をひねる。それくらいのテキトーでくだらない気持ちで臨めるメディアだから、ラジオが好きだ。