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ハーレイ・クインみたいになりたい

映画『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』をみました。主人公は、言わずもがな、DCを代表するヒーロー・バットマンの宿敵ジョーカー(以下、J)の恋人であるハーレイ・クイン。ネタバレが嫌な方は、予告編より以下は観賞後に読むことをオススメします。

ストーリーについて大雑把に説明すると、破天荒でルール無用の快楽主義者だったハーレイが、Jとの破局後に待ちうける困難やら面倒事を乗り越えていくうちに、いつの間にか人助けをしていく、という展開です。

時々つっこんでくる唐突なハーレイのモノローグや、いきなり巻き戻っていく時系列など、いっけんドタバタでルール破りの悪者なハーレイ・クインらしい無茶苦茶さ。ですが、そうかと思いきや映画全体を通してみると、彼女の行動にはある種の「必然性」を感じさせられました。その必然性とは、「自分の意思によって生きていくこと」の絶対的な正しさです。

Jと別れて気づいた、ハーレイ自身の主体性

ハーレイは、Jと別れたあと「これまでに恨みを買っていた様々な人物」に追われはじめます。そこで、いかに「ゴッサムシティでナンバーワンの狂人」であるJに「自分が守られてきたか」を、否が応でも思い知らされます。

それまで、いかに勝手気ままに誰かを傷つけたり、弄んできたかは、彼女自身の(至って反省色ゼロの)モノローグによって語られていきます。ですが、彼女にとってこれまで買ってきた恨み辛みは、行動を反省するものでもなんでもなく、シンプルに「なんか今すごい追われてて困る、サンドイッチくらい好きに食べさせてよ」という現状の悩みでしかありません。善悪についての回顧や、Jに対する悔恨などは一切ないのです。大好きなサンドイッチを楽しむ時間を奪われてしまうことが、彼女にとって、最大の問題ということが分かります。

ここで誤解したくないのが、彼女は決して「ワル可愛で馬鹿な女の子」の象徴ではない、ということ。ハーレイは元々、心理学を学び精神医としてのキャリアを気づいてきたインテリです。そんな彼女が、Jとの恋愛を通してルール無用のバッドガールに転身し、別れてヘコみつつ、めっちゃ命狙われてるけど今食べたいサンドイッチに思いを馳せているのです。つまり、彼女の言動を読み解いていくと、彼女にとって人生の優先順位が自分自身の意思にあるということが、明確に示されています。

彼女が「自分の意思が大事」だと気づく、とても象徴的なシーンがあります。それは、精神科医だった彼女がJと手をとりハーレイ・クインという悪役に変身した思い出の地を、自ら爆破する場面。それまで「私はJと別れたけど、別に悲しんだりしてないわ」と泥酔&号泣しながら自分に言い聞かせていたハーレイが、Jへの気持ちを断ち切ろうと決心する瞬間でもあります。それまで、Jのために身を尽くし、人生の優先順位を掲げていた彼女にとって、まさに華麗なる「覚醒」のタイミングでした。

それから、朝食のサンドイッチもまともに食べられないほど、超危険人物たちに命を狙われまくるハーレイ。まさに絶体絶命のピンチに陥った時、「人助け」によって自分の命が助かることに気付き、ギリギリで窮地をしのいでいきます。ハーレイは結果として人助けをしちゃうのですが、大義名分や正義があるわけではありません。「ヤバイ、自分どうにかしないと死ぬ」という判断から行動しています。だからこそ、彼女は相手に対し英雄としての見返りをまったく求めません。栄光や正義には目もくれず、「ただ自分が楽しい、素敵と思った方向」に歩み続けていきます。彼女にとって、「正しい/間違い」「正義/悪」などの基準は、あまり重要ではないのです。

この「自分の意思」という判断基準を持つことが、私や今の社会・人々にとってどれほど大事であるかを、この映画は伝えようとしているのではないでしょうか。

終わりのないポリコレの限界と、絶対正義のもろさ

ポリコレが浸透し、正義が絶対的な正しさとして扱われる現代。これまで、人々は解決すべき差別問題に対し、ポリティカル・コレクトネスを掲げて抑圧からの解放を目指してきました。#MeTooで告発されたハーヴェイ・ワインスタインの件のように、解決に導かれるケースもあれば、終わりのみえない責任追及や過激派の台頭など、ポリコレそのものに限界がみえているのが現状であるといえます。

ポリコレは「体制vs反体制」「搾取vs抑圧者」など、基本的には二項対立の図式ですが、これによってコミュニティが分断されたり、かえって当事者同士の溝が深まったりすることもあります。また、自分たち自身で作り上げたルールがどんどんシビアになっていくことで、息苦しさや面白くなさが徐々に積み上がってしまう、という傾向もあるでしょう。

特に、フェミニズムはよい例です。女性が権利を主張することは、明らかに正しい行為であるにも関わらず、なかには「フェミナチ」ともいえるような、過激な存在や男性嫌悪ともとれるアクションがあることもまた事実です。さらに、攻撃を受けたと感じる男性の誤解によって、なかなか解決が導かれないケースもしばしばあるでしょう。

新『チャーリーズ・エンジェル』で感じてしまった違和感

ここで、ほぼ同時期に上映されているリブート版『チャーリーズ・エンジェル』を、『ハーレイ・クイン』と比較してみます。新生チャーリーズ・エンジェルは女性のエンパワメントが前面に押し出されており、現代のポリコレ的な潮流に忠実な作品でした。私はクリステン・スチュアートの起用や人種を考慮したキャラ配置、また「世界各地にエージェントがいる」という設定に興奮しっぱなしでしたが(もしかしたらスカウトしてもらえる?!と思った)、ひとつ少し違和感を覚えるシーンがありました。

そのシーンとは、敵(男性)の部屋に忍び込みスパイする中で、彼の歯ブラシをこっそりトイレでゆすいでしまうというもの。そのアクション自体はパンク的で、女性の反骨精神を描こうとしたのかもしれませんが、チャーリーズエンジェルたちが「正義」を謳っているがゆえに、私にとっては矛盾を覚えました。女性が活躍しようとすることとは、果たして「男性を辱めること」なのでしょうか? ここに、自分の意思よりも優先して「正義」という大義を背負っている行動範囲のもろさを感じました。

いっぽう、ハーレイの場合、そもそも「正義」とか「マイノリティの救済」などの大義名分がないため、平気で人を殺してペットのハイエナの餌にしてしまうし、警察をぶん殴ったりもしてしまいます。でも、彼女にとって敵とみなす対象は必ずしも「男性」ではないし、「悪」でもありません。彼女は、自分の行動したい通りに、行動していているだけなのです。結果として、人種や年齢を超えた仲間たちと協力して敵を倒さなきゃいけなくなっただけで、「シスターフッド」や「絆」も、一仕事片付けた後のタコスパーティから生まれるピュアな現象です。あくまで彼女は、自由で自分らしく、自分にとって正しい(もしくは必要にかられて)行動していくわけです。

また、とあるTwitterでハーレイ・クインについて、「いい女の子は天国に行けるが、悪い女の子はどこにでも行けるの丁寧な映像化だ」という指摘を見つけました。私は、これに対しても違和感を感じています。つまり、ハーレイは完全に悪い女の子なのか? ということ。確かにやっていることはハチャメチャだけど、敵を倒し人助けをしたこともまた事実です。つまり、「グッドガールとかビッチとか、そもそも区分けすることになんの意味があるのか?」という、既成概念を華麗に破壊するアンチテーゼでもあると思うのです。

誰かに依存しないことは、最大級の価値

最後に、ハーレイが(協力せざるを得なかった)仲間に、「恨みを晴らしても、心理学的には解決していないのよ」と語りかける象徴的なシーンがあります。実は博識なハーレイがこの言葉を向けた相手は、家族を皆殺しにされ復讐を夢見て生きてきたキャラクターで、彼女はすべてのリベンジを果たした状態でした。ハーレイが放ったそのセリフは、彼女自身がJとの関係を完全に吹っ切れた合図としても捉えられるし、ポリコレなど二項対立に対するメッセージとすら思えます。彼女は決してJを恨んで復讐したりしないし、ただ自分の好きなように生きていくだけ、ということを無意識に理解しているのではないでしょうか。

ハーレイみたいに自由に飛び回っていたい

ハーレイみたいに、自分の心に素直に、そして誰かの「善悪」の判断に踊らされずに、生きていけたなら。大好きなサンドイッチでめちゃくちゃ幸せを感じて、ちょっと遊ばれた好きな男の子には中指を立てて思い出を爆破させて、それでスッキリおしまい。そんな、自由自在に飛んでいく鳥のように私も生きていたい。それって誰にも侵されることのない、最強の世界なのではないでしょうか。そうやって、映画の原題「BIRDS OF PREY(祈りの鳥たち)」とかけちゃったりしてね。

私も、自分の意思に忠実でいたいし、社会的な常識に囚われすぎたくないから、今日は会社帰りに抹茶とイチゴで迷ったハーゲンダッツをどっちも買っちゃった。めちゃくちゃ得意げである。

Image:  (C) Warner Bros. Entertainment Inc. TM and (C) DC Comics.
Source: @Press, ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY, YouTube