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銭湯に世界を変えてもらおう(少しだけ)

去年の秋から週に一回は必ず銭湯に行くようになった。

元々温泉は好きな方であったし、家の近くに銭湯があるとも知っていたが、大学一二年生の頃は意外と行く機会がなかった。アパートにはシャワーは付いていたし、「浴槽に浸かりたい」とは思っても「行くのが面倒くさい」と敬遠してしまっていた。

しかし去年の秋頃に久しぶりに近所の銭湯に足を運んでみた。その銭湯は歴史が古く、地元に長く愛されているのが伺える。変な形の鍵が付いた靴箱、さびれたソファー、いつから貼られているのか分からないポスター、、、見るもの全てになんだか心が惹きつけられ、その銭湯には2回ほどしか行ったことが無かったのに何故か「懐かしい」。

浴場に行ってみると、沢山の地元の方々が疲れを癒していた。自分も浸かってみると、体の芯から温まって気持ちが良かったのはもちろん、不思議と安堵感を覚えることが出来た。

二年前に来た時には感じえなかった感情である。この安堵感はどこからきているのか?恐らくだが「居場所として迎え入れてくれた感」があるからだと思う。

私は上京してから3年間同じ土地に住んだことで、少しは地域に愛着や帰属意識を持つようになったのかもしれない。そして今、地元の方々の憩いとなっている銭湯に赴いたことで銭湯も自分にとって「心地の良い居場所」であることに気付いた。足しげく通うようになってからは他のお客さんとコミュニケーションを取るようにもなった。

昔の地域の様子だったり、その人の個人的な話だったり、、、話したことはないが毎回会釈を交わす「会釈友達」も出来たりした。そんな何気ない瞬間が嬉しかったりする。

特に他の客と言葉を交わすことが無くとも、この銭湯はいつでも私を受け入れて、安心させてくれる。3年を経てそんな場所に出会えた事がとてもラッキーだったのではないだろうか。


「銭湯が居場所になる」個人的にこの言葉はこれからの社会でなんとなく輝きそうな気がしている。

SNSの急速な発達やコロナ禍を経て、社会における人間関係の形は変容しつつある。「広く浅い関係」が広まった今だからこそ「狭くて深い関係」に焦点が当たっているのではないだろうか?そこで注目されるのが「居場所としての銭湯」だと思う。

なぜ銭湯なのか?例えば「自分にも新しい居場所が欲しい」となった時に、サークルなどを探すことになるだろう。そのようなイベントに参加すればコミュニティに所属出来たり、友達が出来たりするかもしれない。しかし、コミュニティに所属するのが目標であるが故に「会話」や「積極性」が必要となり少しハードルが高く感じられる。

一方で銭湯は「コミュニティに所属」するために利用する場所ではないから、無理に他人と交流する必要もない。でも、常連でもそうでない人にも「ココは居場所だ」と思わせる魔法が銭湯にはある。

そんな銭湯みたいな「誰にでもオープンな居場所」が増えれば世界はもう少しだけいい場所になるのかもしれない。


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