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広島市はなぜ、お好み焼タウンになったのか?(後編)

前編では、原爆投下からの復興がお好み焼のニーズを押し上げ、県外から復興に関わる仕事をするために来た男たちを満足させるよう、ボリュームが増えていったことを解説した。

そしてこの波を捉え、大きなムーブメントに育てた人たちがいる。
それが二つ目の要因、井畝一族の活躍だ。

前編で紹介したように戦後、鉄板で小麦粉を焼く料理は、西日本の各地で始まっていた。
その頃、満州から引き揚げてきた井畝井三男さんは大阪を訪れ、一銭洋食の具を混ぜ込んで焼くような料理がお好み焼と呼ばれ、夜の繁華街で、大人たちに人気であることを目撃する。
満州では菓子店を営んでいたので商売勘は鋭い。
「これは広島でも当たる」と考え、昭和25年(1950)に繁華街である流川に夜の屋台を出した。
最初は井畝さんと、友人の尾木さんの二人だけだったが、予想通り繁盛した。

提供していたのは混ぜ焼きではなく、一銭洋食と同じ重ね焼き。
実際は一銭洋食と何ら変わらない料理だったが、中国のチェンピン(煎餅)を参考に生み出した「お好み焼」という新しい料理だと吹聴した。
広島市民が食べ慣れない混ぜ焼きよりも、一銭洋食で食べ慣れた重ね焼きのほうが売れると判断したというのが現実だろう。
尾木さんはその後、昭和29年(1954)に屋台を売って姿を消す。
その屋台を譲り受けた人が川原静子さんで「へんくつや」の創業者だ。

まず、夜の繁華街で大人相手にお好み焼が売れると考えた、井畝井三男さんの時代読みが素晴らしい。
さらに、繁盛している様子を見て、周囲の人たちが真似してやってもいいか?と言うと、どんどんやれと許可したのが偉い。
実際、名だたる老舗も転向組だ。
新天地公園にあった「善さん」はアイスクリームから、広島駅ビルの「麗ちゃん」は金魚すくいから、お好み村の「文ちゃん」は焼肉とラーメンから転向している。

自分の店だけでは捌ききれないという問題もあったのだろうが、懐が深くなければ模倣を許すという判断はできない。
商売敵が増えるという近視眼的思考に陥らなかったのが素晴らしい。
新天地公園付近でお好み焼屋台がクラスター化したのはそのためだ。
そして、この集団の一部が、我が国で最初のフードテーマパークともいわれる、お好み村の母体になる。
最初は屋台を溶接しただけの、巨大ジャングルジムのような形態で、そこへ平和学習で訪れる修学旅行生を受け入れたことから、知名度が向上した。
これもまた大きな貢献だ。
お好み村は観光客向けと断じる人が多いけれど、元々は広島市民のための店だったし、修学旅行生を受け入れてくれたことは、広島市発展の一助になった。
今は地元客より観光客のほうが多いかもしれないが、彼らの功績は素直に認めてほしいと思う。

井畝井三男さんは、自分でやるより人に指示を出すタイプだったようで、実際の店の切り盛りは長男の井畝満夫さんが中心だった。
そのため昭和28年(1953)、井畝満夫さんが満州時代の菓子店の屋号である「美笠屋」から、自分の愛称である「みっちゃん」に変えさせる。
屋台群で働く人の中では井畝満夫さんが最も若いため、意地悪する人が多かったようだ。
さらに父親との折り合いも良くなかったのだろう、一時期は広島を離れ、次女のます子さんと三女の二美子さんが切り盛りし、美人姉妹がやる店ということで、ザ・ピーナッツと呼ばれていた。
ザ・ピーナッツの人気は、昭和36年(1961)の「シャボン玉ホリデー」からなので、その頃だろう。

しかし、井畝満夫さんは広島に戻って来る。
そして昭和40年(1965)新しく建つ広島駅ビルにテナントとして入居するプロジェクトを立ち上げた。
当時、国鉄側からオファーがあったものの、屋台の店主たちは「駅ビルの4階に客は来ない」と乗り気ではなかった。
だが井畝満夫さんだけは直通エレベーターがあるから客は来ると読んで周囲を説得し、駅ビルに入居した。
その時から現在も続いているのが「麗ちゃん」や「紀伊國屋(現紀乃国屋ぶんちゃん)」だ。

そして、父の井畝井三男さんと、店を切り盛りしていた次女の井畝ます子さんと袂を分かつ。
彼らはそのまま新天地公園付近で屋台を続け、その後、店舗を構える。
それが現在の「新天地みっちゃん」だ。

当時「お好み焼なんかが駅ビルに入るだなんて失敗するに決まっている」と嘲笑されながら移転したが、これが英断だった。
昭和40年(1965)は東京オリンピックの翌年で、経済は伸び続け、広島市には大企業の支店が生まれていた。
広島市を訪れるビジネスマンは、玄関口である広島駅内のお好み焼店でランチを食べた。
自分が知っているお好み焼とは全く異なる作り方で、ソースも広島ならでは。
当然、話題になっただろう。
お好み焼が街の玄関口で、昼に食べられるようになったことは、お好み焼タウン化へ大きな一歩となった。

僕は福山市出身なので、大人になって初めて広島市のお好み焼を食べ、豚バラ肉を使い、モヤシが入ることに驚いた。
その時食べたのは駅ビルの「麗ちゃん」。
お好み村は当時でも夜営業が中心な上、雰囲気が蛮カラなので入りにくく、明るく開放的な駅ビルの店は入りやすかった。

井畝満夫さんの「みっちゃん」はその後、トラブルで駅ビルを出て、再び街中に店舗を構える。
ここでも人気店であり続けながら、オタフクソースと組み、お好み焼の先生として全国で焼き方の講習を行った。

そして、昭和50年(1975)、広島東洋カープが初めてリーグ優勝を果たす。
この時、優勝に沸き返る市民の姿をカメラが捉え、首都圏のテレビ局の人たちから見ると、変わったお好み焼を食べていることが「発見」される。
そして、広島市東区出身の大人気歌手、西城秀樹さんが広島のお好み焼は他都市とは違うのだと紹介した。
これにより、広島市=お好み焼タウンのイメージが完全に定着した。

現在、井畝一族は長男満夫さんが「みっちゃん総本店」
次男雅夫さんが「みっちゃんいせや」
長女昭枝さんが「みっちゃん太田屋」
次女まさ子さんが「新天地みっちゃん」
をそれぞれ営んでいる。
さらに、満夫さんの娘婿市居肇さんの「いっちゃん」
もこの一族の系譜に連なるだろう。

前編で紹介したように、原爆からの復興により、県外から若い男たちが流入し、お好み焼が売れる素地があった。
しかし、
・繁華街で夜に売れると見抜いて屋台を出し
・繁盛してからは、周囲の屋台の模倣を認め
・景気が回復すると駅ビルに移り、夜から昼メイン切り替え
・自ら先生役を務めて広島お好み焼を全国に広めた

これらは全て井畝一族によるものだ。

絶大な権力があったわけではないから、周囲の協力を得ながら実現したことではあるだろう。
しかし、井畝一族の存在がなければ、これらは実現していなかった可能性が高く、おそらく広島市はお好み焼タウンになっていない。
だから、井畝一族の活躍が二つ目の要因なのだ。

なお、この物語は広島市の新天地公園周辺から駅にかけての狭いエリアの出来事で、周辺の住宅街では一銭洋食を焼き続け、なんか戦後になったらお好み焼って呼び名が変わったねぇ、昭和40−50年代のお好み焼は繁盛したんよ、とか言いながら、淡々と営業し続けた店がたくさんあったことを付記しておく。
そういう店たちは住宅街からお好み焼タウンの形成を支えたけれど、井畝一族のようにダイナミックな活躍はなく、近年は静かな閉店が続いている。

広島市以外の、例えば呉市、三原市、尾道市、福山市では、広島市とは異なるお好み焼が食べられていて、同じように昭和40-50年代は大盛況だったが、現在は老舗が閉店し、店の総数も減りつつある。
唯一元気を保っているのは府中市くらいだ。

最後にまとめよう。
戦前の広島市は、お好み焼の前身である一銭洋食が食べられていたが、他都市と比べて、特に人気が高かった訳ではない。
原爆が投下され、終戦した後、街を再生するため、復興ビジネスが生まれた。
その仕事を目当てに全国から次男、三男たちが広島市に入り、お好み焼の主力客になった。
それだけでなく、自らお好み焼をビジネスにする者もいた。

このムーブメントを起し、育てたのが井畝一族で、周囲の屋台に模倣を認め、新しくなった駅ビルに出店し、夜の料理から昼の料理に転換させる。
そして広島東洋カープのリーグ初優勝のタイミングで、ユニークなローカルフードとして発見された。
その後、井畝満夫さんは広島お好み焼の先生として、全国で講習し、広島名物として完全に定着した。

この物語には大量の裏付けがあり、支流もあるのだが、それを細々と書いたら読みにくいので、全部なくして結論だけ書いた。

広島市がお好み焼タウンになったのは、一つだけのわかりやすい理由があったのではなく、複数の要因が折り重なった結果だとご理解いただけただろうか。
キーワードは原爆と井畝一族だったのだ。

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