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広島市はなぜ、お好み焼タウンになったのか?(前編)

「熱狂のお好み焼」にも書いたが、お好み焼は東京で生まれ、西日本を中心に各地で食べられるようになった。
それなのになぜ、広島市は全国に冠たるお好み焼タウンになったのか。
今回はそこにテーマを絞って書く。
なお、大阪市は全く事情が異なるので、別の機会に譲る。

戦前はお好み焼の一種である肉天をルーツとする洋食焼、一銭洋食などと呼ばれる料理が各地にあり、広島市だけ特別人気があった訳ではない。
小遣いを持った子供がいる大きな街なら、あちこちで食べられていた。
その後、第二次世界大戦に突入し、一気に食糧事情が悪くなる。
ターニングポイントは戦後だ。
国民たちが皆、飢えて食べるものがなかったので、政府はアメリカから輸入した小麦粉でカロリーを補った。
さらに、戦争に負けた反動に加え、GHQが普通に食べている食事があまりに旨く「米ばかり食べていたから負けた」という言説まで流布した。
それまでは主食=米で、それ以外は代用食だったが、その他の食料が少ないこともあり、小麦粉を積極的に食べるようになる。
このムーブメントがご当地ラーメンを生み、パン食の学校給食を生み、お好み焼を生んだ。

色々調査してわかったが、戦後すぐにお好み焼店が生まれたのは広島市だけではない。
その裏には、
1.金属類回収令によって鍋釜を供出しており、調理器具が少なかった。
2.終戦後は金属を囲っていた日本軍からの横流し品で、鍋釜を溶かした鉄板が入手しやすかった。

という事情がある。
鉄板の上で、小麦粉を溶いて焼く。
これは当時、最も手軽な食べ物商売の一つだったのだ。

広島市では、昭和23年(1948)に「天六(閉店)」の田辺ツルさん
昭和25年(1950)に「美笠屋(みっちゃん)」の井畝井三男さんと尾木さん(屋号不明)が開店している。
広島県内の他地域も同様だ。
三原市は、昭和20-24年(1945-49)頃に「さかい」。
尾道市は、昭和25年(1950)頃に「のぐち」。
福山市は、昭和25年(1950)に「村上食堂」、昭和27年(1952)に「小林(東桜町)」がそれぞれ開店している。

この状況は県外でも同じ。
昭和22年(1947)に神戸市「志ば多」。
昭和25年(1950)に京都市「山本(山本まんぼ)」、東京都月島「近どう本店」。
昭和26年(1951)に東京都日本橋「松浪」、熊本市「福田流ちょぼ焼(閉店)」。
昭和27年(1952)に高松市「ふみや」。
昭和28年(1953)に、横浜市「みかさ」、岡山市「ツルレイキ」。
が開店している。
探せばもっとたくさんあるだろう。
この時期、一銭洋食を食べた経験のある人が、終戦直後に鉄板と小麦粉で何を作るか?と考えた時、似たような料理を作るのは必然だったのだ。

この時点では、どの店も屋台レベルで規模に大きな差はない。
しかし広島市には他地域とは違う、特殊な要因が二つあった。
その一つが原爆だ。

原爆がなぜお好み焼と関係があるのか。
当時、家を継いで農業をやるのは長男で、次男、三男は外で働くのが普通。
農家は食料が比較的豊富だったとはいえ、家を継ぐ訳でもないのに実家でムダ飯を食うのは肩身が狭い。
原爆で吹き飛んだ街を再生するため、全国からそういう男性たちが仕事を求めて広島市内に入ってきたのだ。
この頃の男性は「男子厨房に入らず」なので自炊はしないし、今ほど中食は売られていない。
必然、外食するので外食産業が盛んになり「商売なら広島に来んさい(中国新聞1996年「焼け跡からのお好み焼き」)」という状況を生み出した。
彼ら県外出身者は客として店を支えただけではない。
新天地公園付近でお好み焼店を営む人たちも、県外出身者が中心だった。

つまり、原爆が直接の引き金になったのではなく、その復興がお好み焼という食文化を後押ししたのだ。
ちょうどここから神武景気が始まったのも功を奏した。
広島市のお好み焼が他都市に比べてボリュームがあり、デファクトスタンダードが麺入りになったのは、腹ペコの男たちを満足させる必要があったから。
他都市で同時期に創業した店はそれぞれ人気店になり、だからこそ現在まで続いているのだが、広島市のように文化レベルまで盛り上がるほど店の数が増えることはなかった。
広島市のように、多くの店を支える客が存在しなかったからだ。
なんという歴史の皮肉だろうか。

いや、ちょっと待て!
長崎市は?
長崎市にも原爆は落ちたが、お好み焼は全然有名になってないじゃないか!

と、考えた方は鋭い!

長崎市はちょっと特殊で、鎖国中の江戸時代から海外に開かれていたので、戦前からチャンポンなどの小麦(麺)と野菜を使った料理が普通に食べられていた。
その辺りの歴史を詳しく知りたい人は、塩崎省吾さんの長崎皿うどんの歴史的考察が素晴らしいので必読。

とはいえ、チャンポンなどを作るなら鍋釜は必須で、鉄板だけで作ることはできない。
当然、長崎市にもお好み焼店は生まれたようだが、お好み焼よりもずっと歴史が古く、小麦(麺)と野菜というほぼ同じ材料を使う料理が根強く愛されていた。
現在でもお好み焼店は約50店しかないのに、中国料理店は約200店ある。
お好み焼がブレイクしにくい素地であったこと加え、原爆という要因は同じでも、もう一つの要因がなかったためと考えられる。

この稿では原爆投下が一つの要因であることを解説した。
では、もう一つの要因は何か?
それは後編で明らかにする

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