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萩市でびっくりしたこと_1(松蔭先生編)

山口県の萩市を訪れた。
2度目だが初めてに近い。
1度目は2014年萩往還マラニック140kmに参加した時だ。
瑠璃光寺を出発して防府市まで走り、再び瑠璃光寺に戻ってきて、夜中に萩往還路を進む。
萩市に着いたのは朝5時くらいだった。
それから萩市内をぐるりと走り、再び往還路を通って瑠璃光寺に戻るマラソンレースだ。

今回訪れて、あの時のコースは名所旧跡のすぐ近くを通るように考えられていたんだなぁと感心したが、疲れ果てた頭と身体には、どんな美しい景色もただのコースにしか見えなかった。
しかし、景色を見ると忘れていたと思っていた当時のことが鮮やかにフラッシュバックした。
その懐かしさも含めて良い旅だった。

最初に訪れたのは明倫学舎。

藩校明倫館の跡地に建っていた小学校を改装しており、ビジターセンターと書いてあった。
それならば萩博物館よりもこっちが先と考えたのだ。
したらばここが素晴らしかった。
本館と2号館をじっくり観たら2時間以上かかってしまった。
地質学的な萩の成り立ちから、吉田松陰先生を中心にした長州征伐、薩長同盟、大政奉還までの話、特に松陰先生周辺の解説が大変充実していた。

そして、ここは客よりも多いのでは?と思うほど説明員の方が多い。
ご年齢的にはリタイア世代と思うが、皆さん、積極的に話しかけ、色んな質問に答えてくれる。
展示物を見るだけよりも遥かに理解が深まる。
これが楽しくて長居してしまったのだ。

高杉晋作は親から「吉田松陰は危険思想の持ち主」と通うことを反対されていたので、夜中にこっそり通っていたという。
松下村塾に寝泊まりして勉強する者もいたし、松蔭先生以外の塾生からも学ぶことができたようだ。
当然、松陰先生は松下村塾で寝起きする。
時には夜中でも起きて指導したそうだ。

そして地図で塾生の住居位置を見て衝撃を受けたのだが、松下村塾から半径2kmくらいに集中している。
伊藤博文なんて200mも離れていない。
藩校である明倫館は、中・上級武士の師弟だけが学ぶことを許されたエリート養成施設だったのに対し、松下村塾は寺子屋だったのだ。
近所の子供たちが松蔭先生の噂を聞いて、話を聴きに来る。
話が面白いから通うようになる。
そのようにしてほぼ十代の塾生が学んだ期間は1-2年程度で、松蔭先生は28-29歳。
たったこれだけの経験で、松本村周辺に住んでいた下級武士や農民の子供が、明治維新の主役になったのだ。
真に優れた教育は、想像できないほど巨大なレバレッジが効く。
松蔭先生とはどんな人だったのか、興味を持たずにはいられない。

なお、藩校である明倫館の実績もスゴい。
そもそも松陰先生が9歳から助手として指導し(天才過ぎる!)、12歳からは正式な先生として勤めていた(その後追放)。
ここから長州五傑(最近は長州ファイブとも)と呼ばれる傑物が生まれている。
この5人は長州藩から今の価値で1人当り1億円ほどの資金で、産業革命を起こした国、イギリスへ密航している。
密航なのでバレたら処刑される可能性がある上、洋上では水夫としてこき使われたので事故で死ぬかもしれなかった。
実際、リスク分散の観点から、上海から先は2つの船に分かれている。
当時、彼らは25歳前後だが、その覚悟は凄まじい。
その後の彼らは...。

井上馨・・・渋沢栄一の上司。初代外務大臣。鹿鳴館を作った。三井物産を作った。
遠藤謹助・・・外国人の技術を借りねば造幣できなかった我が国で、日本人だけでの造幣を成し遂げた。造幣局を作った。
山尾庸三・・・工部省(現NTT)を作った。工部大学校(現東京大学工学部)を作った。
伊藤博文・・・唯一の松下村塾出身。初代内閣総理大臣&4回総理に就く。最年少総理(44歳)。
井上勝・・・我が国の鉄道を作った。小岩井農場を作った。

一人残らず近代日本の礎を作ることになる。
長州藩の教育とは一体、どんなものだったのか?と考えてしまう。
その扇の要が松蔭先生なのだ。

明倫学舎を出て、次に向かったのは松陰神社。
松蔭先生に対する好奇心が激しく湧き上がってきたので、それ以外の訪問先は考えられなかった。

松下屯塾と書いてあるのでガイドさんに訊くと「元々は松下村塾だったが、作り直した際、書道の先生で衆議院議員をやっていたエラい人が、中国語では村のことを屯と書くんだと言ってこう書いた」とのこと。
いつの時代もいるよねー、そういう蛇足というか、無用に自分の色を出そうとする人。

ここにもボランティアガイドの方がおられ、お願いできますか?と訊くと、にこやかにご対応くださった。
こういうガイドの方の知見はとてもありがたくて、例えば「明治維新胎動之地」の石碑の文字は山口県出身の内閣総理大臣、佐藤栄作の書だとか、鳥居の文字は兄の岸信介だとか。
あちこちにハーケンクロイツっぽい家紋が掲げてあるので、これは吉田家の家紋ですか?と訊くと「これは五瓜に卍(ごかにまんじ)という吉田家の家紋です」と教えてくださったりした。
ちなみにハーケンクロイツは右卍、五瓜に卍は左卍なので厳密には違うし、そもそも歴史はこちらのほうが古い。

明倫学舎で基礎知識をインストール済みなので、質問攻めになってしまったがたくさん教えてくださって「皆さん短めにしてくれと言われるのですが、あなたたちのように丁寧に聴いてくださる方はいないので、特別にここも解説しましょう」と追加説明までしてくださった。
また「宝物殿には松蔭先生の遺書も展示されているから、ご興味があれば」と教えてくださった。
え?留魂録のホンモノが?
と驚き、宝物殿にも訪れた。

松陰先生の人となりを知るには、ここが一番充実していたように思う。
ペリーの黒船に乗り込んで「私をアメリカに連れて行ってくれ!」と頼んだ時、断られたその足で自首したとか(ペリーが「あの男は大切にせよ」と口添えしてくれて減刑)。
そもそも参考人として江戸で取り調べを受けただけなのに、これはいい機会だ!と、国を憂うがあまり幕府の執行部を襲撃する計画があったなどと聞かれてもないことを語り、結果として死刑になるとか、知行合一を極めた人物だったことがわかる。

最初は僕たちも歴史上の人物を呼ぶ時の常として、吉田松陰と呼んでいた。
藤原不比等とか、平清盛とか、織田信長とか、そういう感覚だ。
しかし、明倫学舎のスタッフも、松蔭神社のガイドの方も、必ず松蔭先生と仰る。
まるで生きている人に対するような、親しみと敬意が感じられた。
僕たちも彼の生き様に触れ、地元の人達の熱い想いに触れるうち、自然と松蔭先生と呼ぶようになった。

初日は明倫学舎と松蔭神社だけで4時間以上かかってしまったので、宿に入ることにした。

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