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萩市でびっくりしたこと_2(毛利家の歴史編)

2日目、朝食を食べてチェックアウトし、萩城跡指月公園へ行ってみることにした。
宿が武家屋敷群の中にあり、周囲を散歩してみたかったので、宿に車を置かせてもらって、徒歩で訪れた。

武家屋敷群の中の生活道

宿の周辺の生活道がこれなのだから、なんて豊かなのだろう!と驚くしかない。
石垣には溶岩石が多く使われていた。

萩城跡指月公園に着くと立派な石垣が現れ、内堀を渡る時に天守閣の跡地が見えた。
左端の出っ張った石垣を積んだ場所にかつて天守閣があり、後ろに見えるのが指月山だ。
さすがにお城の石垣は溶岩石ではなく、花崗岩が使われていた。

左手のちょっとだけ高くなった石垣の上に天守閣があった
本丸部分が広々とした公園になっている

本丸の部分に入ると、松がたくさん植えられていて、広々として、朝の空気が清々しくて、とっても気持がいい。
殿様に最も近い人達がここで暮らしていたのだなぁと感じられる。
井戸があったはずと思って探したら、石で蓋をした遺構が残されていた。

園内には花江茶亭という、江戸時代に建てられた茶室が今も残っていた。
茶室の前は作庭の跡が見受けられ、ここで外部の人をもてなしたり、密談をしたりしたんだろうなと思いを馳せた。

竹製の樋が今も残っていた!

ここにはちょっと変わった松が植えられていて、アカマツの変種、タギョウショウ(多行松)と書いてあった。
幹が根元あたりから分かれていて、扇状に広がった枝がとても美しい。
明倫学舎の入口辺りにも植えてあったので、萩を象徴する松なのかもしれない。

樹形がとても美しい

また、毛利元就からの歴代藩主を祀った志都岐山(しづきやま)神社の手前にはソメイヨシノの変種、ミドリヨシノという桜の木があった。
6月なのでソメイヨシノとの違いは感じられなかったが、花は純白で異なるようだ。

萩城跡指月公園の全体を見ると、天守閣が奥まったところではなく、本丸の前線のような場所に設置されていることから、おそらく真の天守閣は指月山山頂だったんだろうと感じた。
時間がなくて指月山登山は次回にしたが、別の施設で昔の模型図を見ることができて、やはりそうだったのだと納得した。

写真の中心から少し左に寄ったところにあるのが天守閣

つまり、萩城とは平城と山城の複合型で、いよいよ危なくなったら指月山山頂の砦に入って戦うよう設計されている。
指月山の裏手は海なので、さらに守りやすい。
実によく考えられた、攻めにくく守りやすい城だ。
この城を作ったのは毛利輝元で、毛利元就の孫になる。
つまり、広島城を作ったのと同じ殿様だ。

さて、ここからは僕の想像になる。
豊臣政権で五大老を務めた毛利輝元だが、関ケ原の戦いで総大将に就いたため、徳川政権では当然冷遇され、中国山地を超えなければ西国街道に出られない、長州藩に減封された。
のちに萩城に移り、没後は子孫が殿様として長州藩を治めた。
西国街道に抜けるための道が、萩往還路だ。
そして歴史は流れ、長州藩になって13代目の当主、毛利敬親が現れる。
この殿様は有能な家臣を重用し、若い才能を庇護し、長州藩を豊かにした。
彼は殿様でありながら松陰先生に弟子の礼をとり、山鹿流兵学を学んでいる。
その後も松陰先生の才能を愛し、庇護し続けた。
松蔭先生から国を憂いる書簡を大量に受け取っていたし、アヘン戦争で中国がイギリスに負けて植民地になったことを知っていた。
次は日本に攻めてくるだろうし、その際は萩に上陸するかもしれないという危機感を抱いただろう。
この危機感を基に蓄えた資金で長州五傑をイギリスに派遣したし、煮え切らない幕府と喧嘩もした。

そして、松陰先生が亡くなった後、先生を敬愛する者たちが中心になって明治維新を成し遂げる。
つまり、徳川政権の成立によって毛利家は冷遇されたが、260年後、毛利家の庇護の下で教育を受けた者たちが徳川政権を終わらせたのだ。
なんという歴史の皮肉だろうか!

そして、元部下である木戸孝允が毛利敬親に版籍奉還(藩の土地と人民を朝廷に返す)をお願いに行くと、あっさり承諾するばかりか「こういう改革をやる時は時期を見誤るな」と助言までしている。
版籍奉還後は50歳で家督を譲って隠居し、2年後には亡くなってしまう。
なんとも飄々として私心がない人物ではないか。
毛利敬親のような殿様がいたからこそ、長州藩から傑物が大勢生まれたのではないか?と僕は想像するのだ。

萩城跡指月公園を散策した後は、松蔭先生のお墓参りをして、生家の跡地を訪れたりした。
松蔭先生のお墓の周りには塾生たちがたくさん眠っていて、最後まで愛された方だったんだなぁと痛感した。
宗教的なものか、当時の風習なのか、どの墓も戒名ではなく、俗名が掘られていたので大変わかりやすかった(高杉晋作だけ違った)。
僕も自分の墓は(なくてもいいが)俗名が良いと思っているので好ましく感じた。

松陰先生は東京で処刑されたので、ここに埋葬されたのは遺髪のみ。
遺体は東京の松蔭神社に祀られたらしいので、上京時に機会を作って訪れたい。

この後は萩往還マラニックで走った笠山に行き(100kmを過ぎてよくこんなところを走ったものだ)、反射炉を見て、買物をして広島に戻った。
結局、時間がなくて萩博物館には行けなかったが、宿題として敢えて残したので再訪が楽しみだ。

萩市でびっくりしたこと_1(松蔭先生編)
萩市でびっくりしたこと_3(飲み食い買物編)

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