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初めての

2016年7月、私は当時勤務し始めた医療系会社の研修のため、北京の地に降り立った。その時は「北京に行けと言われたから来た」だけで、中国語は全く話せなかったし、中国に対して興味はなかった。首都空港から亮馬橋までの道すがらの高層ビルに、驚きを隠せなかった。そんなで始まった10日間の研修は、私の中に唯一無二の中国の印象を残すこととなる。初日、ホテルからオフィスに向かう途中に飛び込んできたのは道端で囲碁に興じるおじいさんや椅子に座ってぼーっとしているおばあちゃんだった。

(ここオフィス街だぞ…?!)

中国に興味のない(当時)20代の日本人女性、初日を上回る衝撃を受けたのであった。

研修は英語で行われ、途中から参加した中国人の同僚達とも英語でコミュニケーションをとっていた。同僚たちは皆、外国人である私に優しかった。研修を終えるには2つのテストに受かることが必須条件だった。私は1つのテストで合格点に達しなかった。「明日再試験、受からなかったら受かるまでやるから」私は徹夜を覚悟した。
部屋で勉強していた時、仲良くなった同僚から「今から満点で合格した子がレクチャーしてくれるって!」とウィチャットが届いた。教科書を抱え、一目散にホテルのロビーに向かった。私と誘ってくれた同僚以外にも数人の同僚が集まった。お世辞にも簡単なテストではなかったので、単刀直入に「どうして満点で合格出来たの?」と聞いてみた。

「ネットで過去問、ダウンロードした」

生真面目だけが売りの(当時)20代の日本人女性
(マジかよ、世間渡るの、上手すぎるだろ…。)

しかし彼はきちんと内容を理解し、一つ一つの答えの理由を教えてくれた。彼は私達に教える義理などないはずだが、ありがたがられたいようでもなく、淡々と教えてくれた。私はその時、答えだけに丸をつけて、彼の話す内容をメモしていなかった。そんな私の様子を見ていた別の同僚が私にこう言った。

「何で答えだけ丸してるの?理由が大事でしょ、同じ問題が出るとは限らないし。」
その言葉に「確かに」と思った。私は彼の言う説明を書きとっていった。

次の日のテスト。前日と同じ問題だった。皆満点で合格した。

再テストの日は帰国前日だった。私と仲良くなった同僚は、皆でご飯を食べた後クラブでお酒を飲みながら楽しみ、次の日は二日酔いの身体を引きずりながら帰路についた。
中国は「日本で言われるような悪い国ではないな」と思うようになった。でも英語が全く通じず、電子マネーも使えなかったので不便さを感じた。その時は積極的に関わろうとは思わなかった。

その後、私は再度中国行きの機会を手にした。日本国際協力機構の青年海外協力隊事業に合格し、看護師として北京市にある中日友好病院に派遣されることとなった。その時私はプリンセスクルーズの看護師も内定をもらっていた。信頼のおける海外に住んでいる友人に相談した。「中国は隣の国なのに、まだまだ知らないことがいっぱいあるんじゃない?2年なら、中国に行って生活してみたら?」

2018年7月25日、私は再度北京に戻ってきた。
青年海外協力隊の派遣前訓練で2ヶ月強中国語を猛勉強したが、多くの人が経験するように、北京に降り立った当初、中国語は壊滅的に聞き取れなかった。私の中国語は聞き取ってもらえず、言語コミュニケーションの高い壁が見えた。しかし、多くの中国の人々が私の中国語を聞き取ろうと、ボディランゲージで意図を汲み取ろうとしているのは分かった。2016年の時にはなかった発見、私はなんだかとても嬉しかった。
2週間の現地語学訓練の後、私は中日友好病院国際部で本格的に活動することとなった。日本語がペラペラの看護師の大先輩陳さんの助けもあり、派遣されてから中日友好病院について知ることが沢山あった。中日友好病院国際部は中国の中でもトップ50に入る有名な病院である。日本との関わり、病院のレベル、知名度の高さ。こんなに凄い病院で、中国語も話せない日本から来た普通の看護師が、何か出来るのか?北京に着いた当初は、そんな日々を送っていた。そんな悩んでいる私に対し同僚たちは非常に寛容で、いつでも優しかった。「困ったらいつでも連絡してね」「ここ、今度行こう!」「朝ごはん食べた?」「中国語、進歩したね!」は日常会話だった。ぬるま湯のような心地よさを感じずにはいられなかった。
そんな中で、中日友好病院について知って欲しい、中国の人々の素朴な暖かさを知って欲しいと思い、SNSを通して「中国にいる日本人から見た中国」を知ってもらう活動を始めた。

そして今に至る。(端折りすぎ)

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