看護ケアの倫理学(’09) 服部 健司 (群馬大学大学院医学研究科教授)

2回 医療における倫理的原則
「ヒポクラテスの誓い」を嚆矢とするローカル色強く師弟継承的な誓約は、時代下るとともに同業職能集団の自己規定的な内視へと発展してきた。現代にいたって、そこに医療を受ける側の人々の権利という視点が導入されることとなった。医療従事者ばかりでなく、市民、法学者・司法者や行政者、そして倫理学者が望ましい医療のあり方を模索し、これまで実に様々な倫理的な綱領、宣言、原則が提出されてきた。しかしこれらすべてが矛盾なく調和しているわけではないし、医療従事者が個々のケースにそれらをただ機械的に適用することで倫理問題を必ず解消できると期待することはできない。そこで倫理的原則の厳選・適用範囲・制約を探っていく必要がある。


第3回 医療倫理学と看護倫理学
医療倫理の「医療」を医師法に定められた医業を指すとみると、医療倫理は医師の振舞い方をめぐる規範としてとても狭く理解されることになる。他方、「医療」を広くとらえるならば、医療倫理は看護倫理をも包含するものとみなされる。その場合、看護倫理に特異的な要素というものは何なのだろうか。他の医療職種にとっての倫理と看護倫理とが決定的に違う点はあるのだろうか。それらが衝突し合うことはないのだろうか。看護師は看護倫理のみを問い求め、考えておりさえすれば十分なのだろうか。こうした問いに答えるためには、医療と看護との関係、倫理と倫理学の意味やはたらきといった基本的な事柄に立ち返って考えてみる必要がある。 


倫理と道徳ってどう違うんですか?
中国の古典の意味そのままで言葉は使われてはいない。
道徳も倫理も同じところに辿り着く。 
そのひとの倫理感なり、道徳観なりを反映したものにすぎない。
それよりも大切なのは、倫理と倫理学との違い。
倫理とは絶対的なものなのか?
倫理とは川を転がる石のように変わっていくもの。
時代や国やその人の環境によって変わっていく。

哲学と倫理学との違い
広義の哲学が扱うもの「真・善・美」
・真←本当のもの、不変なものを追及
・美学←どうして人間は美しいと感じるのか?
・倫理学←善いものについて考える学問

倫理学は大きな哲学の一部を占めている。

倫理学が道徳・哲学と呼ばれるのはこのため。
別の倫理の有り様は在りやしないか。倫理を学問の対象として検討。倫理を、距離をとって批判的にやや斜めからみる。これが倫理学。

決まりきった教えをひたすら守っていきましょーという、そういう営みではない。


【倫理と倫理学の基本的なところをおさえる】

ニーチェ 「ツァラッストラ」
ツァラッストラ→もともとはゾロアスター教の、ゾロアスターこと。
それをドイツ語に置き換えるとツァラッストラという音になる。
ニーチェはキリスト教が誕生する以前の遥か昔のツァラッストラというひとを主人公として物語を書いています。

ツァラッストラが10年間山の中で修行を積んで時期がいよいよきて、時が熟してー
ツァラッストラが人々のところに教えを垂れに行く。こういう場面。

第一部のなかの「千と一の目標について」最初の部分
吉沢伝三郎訳 ちくま学芸文庫から引用

“ツァラッストラは多数の国土と多数の民族とを見た。
かくて、彼は多数の民族それぞれにとっての善悪を発見したのだ。

まずもって評価しなくては、民族は生存することができないであろう。
だが、民族が自己保存をはかりたければ、隣の民族が評価するように評価してはならない。


ある民族にとって善とされた多くのことが、他のある民族にとっては、嘲笑や誹謗の対象とされた。 
隣同士の民族が互いに相手を理解したことは決してなかった。

各民族にとって困難なもの、それが称賛されるべきものなのだ。
不可欠にして困難なもの、それが善と呼ばれる。”


こんなふうに書き出されております。「千と一の目標について」。
主人公のツァラッストラがあちこち旅をして回ると多くの民族が多くの国を作っているのを見たと。そして、その民族はそれぞれの民族にとっての良い悪いの基準というものをつくっていた。’というわけですね。)そして、民族が保存する。保存される。生き延びる。民族が民族として生き延びるためには、別の価値基準の評価をしなければいけない。別の仕方で善悪というものを判断していかなければならない。基準を変えなければならない。そんなことで、独自の評価基準というものを培ってきた。
と、こういうわけですね。

どうでしょうか?
これはどういうことを言っているのでしょうか?

もし民族が、隣り合った民族が同じような価値基準をもち善悪を共有していたとすると、どうでしょう?

隣の国と隣の国は同化してしまいますね。そして、どちらかの国がどちらかの国に同化されて吸収されてしまうでしょう。ですから、敢えて差異を設け、違いを設けていかなければならない。それが民族の延長というんでしょうか、民族が生き延びるために必要なことだ。と、こう言っているわけです。

そんなわけで、隣同士の民族がお互いを理解し、そして相手の価値観を認めたことなんかないんだ。

というわけです。

さて、これがひとつですが、もうひとつ、今、読み上げられたところで語られていたこと。それは何かというと、その各民族にとって善いこと、善と呼ばれること。それは何かというと、その民族にとって困難なもの、それなんだ。それを善と呼んだんだ。と。
つまり理想的なもの、なかなか適わないもの、それに向かって努力しなければならないもの、つまり容易く手に入れることができないもの。そういうが善と呼ばれているんだ。
とこういうわけなのですね。

なんで、このニーチェを取り上げてみたかというと、もう一回繰り返しますが、
倫理というのは、いろいろなところでいろいろな仕方でこう形作られていた。それぞれの論理があり、理由があって、バラバラな事柄が正しいこととか間違ったこととして定められていたと。そのことをニーチェがどのように表していたかを確認してみたかったからなわけです。

医療倫理学 メディカルエフィクス
医療倫理学二つの見方についての説明と歴史的背景と
(割愛)

狭い方 職業倫理としての医療倫理 医師の品格、行為規範、医の倫理
医師というのは古代から職業集団
人格的資質、徳、こういった自己規制

専門職能集団が何らかの制裁を加えて、所謂自浄機能
前に自分たちで自分たちを律する
いちばん最初の原型
ローカル色の強い
ヒポクラテスの誓い

ヒポクラテスのモデルに押しつけられた役割
医学部長が首を捻ってしまうこともある。膀胱結石の手術はそんなことを誓ったりしています。コスト自然経過をしっかり観察して予後診断
手を出して恨まれない。信用を得るため。半分は処世術
種々の
大規模なものに発展してきた。最初は人格、道徳、マナー、エチケット
このような医師が自ら意思をさだめる1948
3医の倫理に聖職である、気高く

日本では相は26年に
医師は医師会に
医師でないものに医業の
不徳の行為である。

この昭和ユーモアの精神がちょっと見られなくなっています。
この原因はどのあたりに根ざしているのでしょうか?権利能力を承認してくれた
これは当たり前だという
現在医師には業務独占のもとで駆使すること。ではないにしても裁量が認められていること。
こんな社会からの付託に対する
自分に与えられた専門職能者として職業倫理というものが

ヨーロッパの歴史を見てみますと

神学部、法学部、医学部は上級三学部と称されていました。

上級三学部が下級
とちがっているのは国家の後ろ盾を得た専門職能集団
プロフェッショナリズムが法的にいってまだ免許の確立
自分たちの品格と行為にかんする規範を自分自身で定め
自分自身に課してきました。そこには専門職能者としての自負というものが自信というものが誇りというものが大きく働いていた
自分自身に定め自分自身に課すというのは自律といっていいかもしれません。
このようなあり方が無用になるというようなことはないと思います。

狭い意味での医療倫理ないしは、「医の倫理」とそうやって医療倫理学
専ら医師の任務だとみなして

自分の品性や気品を顧みることで医療はのぞましいものになっていくでしょうか?子息的
自己閉塞的
専門性
自分自身の特権性、卓越性、優越性
医師には一般の人々よりも高い道徳性が求められるといった語りが繰り出される。
高徳、高潔であるということが可能
そしてその徳の高さによって医療の解決するのでしょうか?

さて、患者の自己決定権が叫ばれはじめたのはいつからでしょうか?
同意がない医療は裁判が
1957年には、合理的な決定であるためには
しっかりとした医師の説明、開示が必要なんだ。
市民法学畑の人、行政の畑の人、そして、倫理学者が
倫理学者が
その過程には消費者の権利意識の検討が大きく働いているようです。
他のサービスや商品と
できることなら良質なサービス

嘗てのケネディ大統領が議会に提出した

保障されるべき四つの権利
安全を情報を
意見を聞いてもらえる権利
1960年代末から
ウーマン・リブ、セクシャルヘルス&ライツ
性の健康と権利
生殖の自由
リプロダクティブフリーダム
被告人が
プライバシー権といったものがここに合流するわけです。
わりを食ってきたひとの権利回復というのが共通項ですね。
1972年のアメリカ病院協会
患者の権利章典に結実していきます。
医療の中での患者の権利の保障
1970年代というのはひとつ大きな変化の時代だった。
オーケンの調査
1961年でシカゴで行った意識調査88%の医師ががん告知には反対だったわけですね。ところが1977年に同じ調査票を用いたノバックの調べによると98%の医師ががんの病名告知に賛成しているわけです。


大体おそらく、1970年前後にこの大きな医療倫理の在り方の変化の境目、潮目があったという風に読み取れるわけです。
≪まとめ≫
医療倫理や医療倫理学というものはこの時代、医師による医師のための医のための医の倫理
というものから多くの市民や法学畑のひと、行政、多くの人たちが関わることによってより大きなものに変っていったということです。
それが広い意味での、勝った意味での医療倫理学ではないかと考えています。

ここで狭い意味での医師の行為規範を定めた医の倫理、職業倫理からより大きなものとしての医療倫理への転換がある。ということを申し述べておきたいわけです。

医療というのは医療者だけがいれば成り立つものではわけではないですね。
必ず医療を提供する側と医療を受ける側との間で行われるわけで、尚且つ、もちろんその行為というのは医学という経験科学的な知見に基づいて行われるわけですけれども、
社会の中で行われる行為だという意味で言ったら、
この医療の倫理問題というのは、いってみれば社会問題でもあるというわけです。

医療というのは社会的な行為であり、医療倫理というのは、単に医師の在り方を考えるだけのものではなく社会の在り方を考えるということにつながるというわけですね。
だから、医療倫理をすごく狭く、医師の職業倫理としての「医の倫理」に還元してしまうということで、問題の解決を図ろうという動きはこの辺で無くなっていったわけです。

もし医師一人が頑張れば、医師がとても善い人になれは、医療の倫理の問題が片付くんじゃないかと考える立場の人がいるとすれば、それは、この医療というもの全体、医療の舞台全体を見渡せてないということになるかも知れません。

医師というのは、医療を授ける側の単なる一人でしかない。One of themでしかない。というわけです。だから、医療倫理というものを、そのものを改めてこの舞台の上に据え直して、捉え直しておく必要があるのではないかと考えるわけです。

ここで私なりに「医療倫理学」というものを再定義してみたいと思うんですけれども、
私のアイディアはこんな感じです。

「医療の場」という、いわば非日常的でこの限界状況的な、そんな状態の中で私たち人間、つまり患者や家族や医療従事者や医療関係者、社会の人々が、いかに振る舞うべきか、振る舞うことが許されるのかについてのこと考えることを通して、あるべき医療の在り方、そして人間とは何者なんだという問いに向かう作業である。こう見てみたいわけです。だから、医療倫理や医療倫理学は専ら医師を含め医療者だけが背負うべき、そんな小さい課題ではなのではないのでないか?
というわけです。

さらに突っ込んで言ってしまえば、患者は医療者に一体どこまで、どんなことまで求めることが許されるのか?ということも医療倫理学は扱わなければいけない。こう思うわけですね。

さて、ここで
看護倫理に看護倫理学に眼を転じてみたいと思うわけです。

看護倫理・看護倫理学というのは何を目指しているのでしょうか?看護倫理は看護師のナースの倫理と理解することができるかも知れません。これと先ほどの医療倫理・医療倫理学との関係を考えてみたいと思うわけですね。

では、この看護倫理学というものは、果たして看護に独自なものとして、特有なものとして
あるのでしょうか?

この問題を考えていくうえで、ひとつ、参考にしたい論文があります。
沼崎一郎さんという方がお書きになった論文で

☆インパクション (105) - ピルから見える世界 (単行本)
〈孕ませる性〉の自己責任─中絶・避妊から問う男の性倫理 沼崎一郎(1997)

とても面白い論文ですので、これを少し引用してみたいと思います。

この論文の中で、沼崎一郎さんは、男性の生殖責任を主題にするんですね。どういう場目でその問題を問うかというと、「人工妊娠中絶」というようなことが、医療倫理学のテーマとなるわけですが、そのテーマの中でどういうわけだか男性というものの責任が問われることがないままきているのではないか?

こんなところに沼崎さんは目をつけるわけですね。

従来の「人工妊娠中絶」が善いか悪いかというような論争の中で、この男性というものがクローズアップされない。光を当てられることなくきてしまったということが、沼崎さんにとっては問題だ。というわけですね。

つまり産むか産まないか、決めるのは、女性なんだ。産む側の女性なんだという立場の主張が片方にあり、そして、もう片方、生まれてくることになっているその胎児の「命」というものを考えなければいけない。その生存権。そんなものを大事にしなければならないだろうという、こういう主張があるわけですね。

ここでは胎児の生きる権利と、それから女性の産む側の、女性の産む・産まないの自己決定権の戦いといいますか対決といいますか、そんな構図でずっとこの問題は扱われてきた。と。

こういうわけですね。
もし、男性がこのような中で出てくるとすれば、どんな形なのか?

沼崎さんが書いている部分を少し読んでみたいと思います。

男性が問題にされるとすればそれは胎児の父としてであり、産ませるか産ませないか。産ませるとしたら、生まれた子に対してどう対応すべきか、という形で、即ち、妊娠と出産を支配し管理する家父長としての男性の関与と責任しか問題にされてこなかった。
「責任とるから産んでくれ」と男が言う時、
彼の言う責任とは、妊娠した女性との「結婚」か、或いは生まれてくる子どもの「認知」でしかない。

男の責任とは社会的・法的に父となることであり、父として母子を経済的に扶助することでしかないのだ。男の責任を追及とすると女性は応々にして出産を強要され、子どもとともに母として既存の家父長的な社会秩序に組み込まれてしまう危険性が大きいのである。だから、リプロダクティブフリーダムや女性の自己決定権を戦ってきたフェミニストは敢えて男を問題化することには懐疑的であり、否定的であった。性と生殖を男性権力者による支配と管理から奪い返すための闘争において既存の家父長制の部脈でしか思考できない男たちに妊娠と出産における男性の関与と責任を問うことは、かえって男たちの余計な口出しを招くだけだとフェミニストたちが考えたのも不思議ではない。

っていうわけですね。

こうやって、中絶の是非の問題を含めてさまざまな医療倫理の問題を男抜きにして、考えようと。そういう流れが作られてしまった。というわけですね。

(さて、もう少しこの論文、先がありますので、それも少しだけ読ませてください。)

この論文のタイトルは〈孕ませる性〉の自己責任なんですが、この論文が載っている雑誌は
「ピルから見える世界」という特集号を組んでいるんですね。この論文はその中の一つです。

それなので、この論文、最後のあたりでピルのことを書いています。

もしも完全に安全で確実な避妊効果のあるピルが開発されたとすれば、そして、全ての女性がピルを服用して主体的に自らの妊娠能力をコントロールするとすれば、私が主張してきた男性の暴力性が解消され望まない妊娠も中絶の心配もなくなり、問題は全て解決するように思える。
そうなれば男は孕ませる性ではなくなり、中絶否認に関する男の自己責任もなくなるように思える。

本当にそうだろうか?
(こういうわけですね。)

夢のピルが発明され、あらゆる女性がピルを服用して妊娠を自己コントロールする世界というのは、寧ろ性と生殖における男性支配の完成形と言えそうである。
そこでは万一、ピルを飲み忘れ、間違って妊娠してまった場合には、女性だけが一方的に避妊責任を問われかねないからである。防げるはずのものを防げなかったのは、女性の責任だ!となるからだ。
しかし、これは所謂、被害者批判の論理に他ならない。
痴漢に襲われたのはノースリーブを着ていた女が悪い!
レイプされたのは抵抗しなかった女の責任!
という論理と同じである。

こう来るわけですね。

沼崎さんのこの論文をわたしたちのこの医療倫理と看護倫理の中に引き入れてみるとどうでしょうか?

もし看護師が、どうせ医師たちは鈍感でケアもできなければアドボケートもできない。それができるのはナースだけだと考えて、倫理や感受性、患者の見方といった位置取りを自分のもの、独自のものとしてとってしまうとしたら、いったいどういうことになるかということです。医師を当てにせずナースの方々が、倫理を抱え込み、或いは囲い込みをした。とすると、益々医師たちはケアや倫理、そういったものからそっぽを向いてしまうのではないのでしょうか?それが善い・望ましい医療につながるでしょうか?


もうひとつ、さいごに簡単に紹介しておきたい論文があります。それはフルフォードという精神科の医師が書いた1993年の論文。

☆精神科倫理は医療倫理の中の醜いアヒルの子か
フルフォード(1993)

というタイトルの論文です。
この中でフルフォードは次のようなことを言っているんですね。

インフォームドコンセントというものを看板に掲げているような現代風の医療倫理のなかで精神科の医療倫理というのは特殊にならざるを得ない。なぜかというと、インフォームドコンセントの前提となるような合理的な判断能力が常にその患者本人に備わっているとみることができるとは限らない。(というわけですね。)
だからこそ、インフォームドコンセントを主軸にした一般的な医療倫理学というのは、精神科の医療倫理、精神科倫理というものをいわば邪険に扱ってきたんだ。(とこういうわけです。)
ところが、このような邪険に扱うような医療倫理がどこまで正しいのか?
(フルフォードは切り返すわけです。)
寧ろ、精神科の倫理というものが成長して成熟していったときには、全ての医療倫理を包み込むような、より大きな倫理が可能になるのではないのか?言ってみれば、邪険にされていた精神科倫理というものは醜いアヒルの子であって成長すると白鳥になるんだ。他の分野も全て巻き込むような、他の分野にも通用するような、より豊かな医療倫理を提供できるのではないか?

こういう論文だったわけです。


看護倫理学というものがもし、あるとしたならば、ナースによるナースのための看護の倫理という狭い枠に収まっていたとしたら、もったいない。物足りない。
医師が医師による医師のため医の倫理に2500年間とらわれた歴史。その歴史を他山の石として学んでいただきたい。そして、後追いをしていただきたくないと思います。
看護やナースが医学や医師によって不当に低い評価を受けてきた、抑圧を受けてきた歴史、それは女性が男性から、患者が医療者から、植民地に生きる人々が他国の支配者たちから抑圧を受けてきたのと重なるところがあります。

であればこそ権利回復を願い、そしてアイデンティティの確立と自立を図り自己規定による独自な規範を模索しようとする、そうした流れというのはアリだと思います。でも、それだけではもったいない。

ナースの皆さんには看護倫理学を白鳥にしていただきたいと思っています。

ここで先ほどのニーチェの「千と一の目標について」の終わりのところを読んでみます。

“これまでに千の目標が存在した。というのは、千の民族が存在したからである。
ただ、千の首に投げかけるべき鎖がまだ欠けている。一つの目標が欠けているのだ。
人類はまだ目標をもっていない。だが、さぁ私に言え、私の兄弟たちよ。人類にはまだ目標が欠けているのであれば、同様にまた欠けているのではないか?まだ、人類そのものが。”

これを今日のテーマに結び付けて考えてみましょう。

医師の倫理やナースの倫理がバラバラのままであってはいけない。
何故なら、「望ましい医療への問い」という大きな問いが空白のままだからです。
この科目の科目名をもう一度見直してみたいと思います。
「看護ケアの倫理学」とあって、看護倫理学となっていないところに私は意味深さを感じています。これから先、この科目には12回の講義が用意されています。看護ケア、アドボカシーといった重要な問題群を考えていくことになると思います。

看護の現場から看護の感性によって発掘され、練り上げられた倫理学的な考察が単なる職業倫理という狭い枠に留まってしまうのではなく、望ましい医療の在り方を模索するうえでの貴重な礎になることを心から期待しています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?