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技士生活を振り返って

多分今年度限りで転職する。
理由は色々あるが、BtoCに疲れた。機械いじりの得意分野で勝負したいが正直な気持ち。
思い出が残っているうちに記録として記しておく。

臨床工学技士を目指した理由

・母が看護師であり、漠然と医療業界に憧れを抱いていた。
・機械いじりが得意であり生かせると思ったから。(実際は違った。)
・就活に失敗しまくり、最後に教授のコネで透析系のクリニックへ

社会人スタート

「やっと実家を出れる!!これで誰にも縛られずにオタク生活できる!!」
凄く意気揚々と実家を出て行ったのを覚えている。
環境においても無線LAN→有線LANになれたのはストレスフリー。

本社の研修

この会社でキャリアを築いて行くしかないと覚悟を決めて臨んだ研修では、ナンパしてる人がいたり、話が致命的に面白くない人が多く落胆したのを覚えている。
新人研修で30~40人位集まって行ったが、人間的にリスペクト出来るのは2-3人程で、社会って薄い奴らばっかだな(正直者)と思っていた。
ただ中には講義の要点を凄く分かりやすくメモを取っている人もいたし、休憩時間にボードゲームやってるやべーやつがいたけど、思考能力がとても高く、話していて刺激になる人もいた。

現場において

実際に現場に出てからは自分の仕事の出来なさに落胆した。
配属施設はとても忙しく近隣においても「あの施設で働ければどこでも働ける」と言われる程厳しい施設だった。
先輩からのパワハラ、Ptからの暴力や暴言などのペイハラが横行しており、常にピリピリしたムードで仕事をしていた。

業務においても血管に針を刺す「穿刺」が圧倒的に下手糞であった。
穿刺失敗して患者家族からクレームが来たこともあった。
血圧低下、治療設定、その他トラブルなどを相談できる空気が無い→失敗する→信頼を無くす→相談出来ずさらにトラブルを起こす。の負の連鎖が見事に形成されていた。
あまりにも辛すぎて業務中に号泣してしまったこともあったが、3年以内に辞めたら経歴に傷が付くと思って、「一人前になるまでは辞めない。負けたことになってしまう。一人前になったらすぐ辞めてやる。」と思って何とか食らいつきながら働いていた。

失敗したら何で失敗した、怒られたのか、次はどう行動するかなどを手帳に事細かく記して一つ一つ着実にこなしていった。
泣きそうになった日は決まって吉野家の牛丼をお腹いっぱいまで食べると決意して心の拠り所にした。

異動宣告

そんな生活が一年近く続き突如別の施設への異動を告げられた。
新人と新人で人の交換をするらしい。
死に物狂いで頑張っていた自分にとってクビを宣告された気分だった。
「今までやってきた努力は報われなかったのか…」
そう思いながら患者へ一人ずつ別れの挨拶をしていった。
あまり会話をしなかった患者がとても別れを惜しんでくれたり、たくさんお話をしたのに別れが素っ気ない患者もいた。
中には一緒に異動先の施設へ付いていくとまで言ってくださる患者もいた。
別れ方があまりにも多種多様で面白かった。

異動してから

異動直後、心の整理がついておらず、環境の変化にも追いつけなかったことから最初のうちは何度か失敗を重ねた。しかしある一定の期間から仕事のコツを掴み始め、仕事で怒られることも減り、確かな成功体験を得るようになってきた。
パワハラやペイハラがほぼ無くなり、困ったことがあったらまず相談をすることが大事ということにようやく気付いた。
後に知ったが、異動先に所属していた新人があまりにも使えず、上司がお手上げ状態になり、新人の交換をしたと聞いた時は少し自信に繋がった。


また暇になったら備忘録として書こうかね(鼻ほじ)



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