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虚心坦懐に人と社会を知ることから生まれる一歩。

社会人にデザインの知見を、という想いで講師と学生が共になって日々の学びを深めているXデザイン学校。実際に学びの場にいる方々の声を届けていく、クラスルームインタビュー。第6回目はユーザーリサーチコースで講師を務める伊賀聡一郎さんです。

伊賀聡一郎さん
エクスパーク合同会社代表(CEO)。(株)リコー、リコー経済社会研究所、米国パロアルト研究所 (PARC)日本代表を経て、エクスパーク合同会社設立。D.A.ノーマン氏による著書の翻訳など多数。北陸先端科学技術大学院大学客員教授、産業技術大学院大学非常勤講師、東京女子大学非常勤講師など。博士(政策・メディア)。テクノロジー中心のイノベーションと、エスノグラフィを基軸とした人間中心のイノベーションの両面で幅広い経験を持たれています。

どんなキャリアを歩まれてきましたか?

私自身のバックグラウンドは、ヒューマンコンピューターインタラクション、人と機械のインタラクションを考えていきましょうという研究分野です。元々は技術寄りで、技術やシステムとしてどんなメリットのあるものを世の中に作れるだろう?ということを考えていくのが起点です。そういう技術を考えるにあたって、それを展開していく対象となる人の理解が必要になってくると。そのための考え方や研究といった人の側の研究もいろいろなアプローチがあるわけですが、その中でもエスノグラフィー、いわゆる民族誌学ですね、相手側のフィールドに入っていって、そこでの言葉から理解をし、活動を理解し、(理解といってももちろん第三者の目線でしかないかもしれないけれど)理解を試みて、そのエッセンスを元に新しいものを考えていくというところで、人の側の理解と技術の理解、双方の理解を通じて新しい価値を考えていけないかというのが、私自身の土台でありライフワークのひとつになっています。

前職でパロアルト研究所(PARC)というアメリカの研究所にいまして、エスノグラフィーを基点としたいろいろな研究をサービスとして提供するような形で仕事をしていました。このパロアルト研究所というのは、元々ゼロックス、いわゆるコピー機の会社の研究所だったんですが、研究所の歴史としては非常に長くて、1970年に設立されていろんな技術を発明してきた研究所なんですね。例えば、レーザープリンティングの原理を発明したり、パーソナルコンピューティング、つまりキーボードとディスプレイとマウスとグラフィカルユーザーインターフェースで我々が今日目にするパーソナルコンピューターの原型にあたる技術の多くを発明してきたり、あるいはユビキタスコンピューティング、我々がモバイルデバイスを手にしたり、環境の中にコンピューターが遍在していくようなコンピューティングスタイルを発明するなど、今我々を取り巻くITの多くの技術を発明してきた研究所なんです。その中で技術的な発明だけでなく、人文科学系の研究者も積極的に採用して、人の理解とテクノロジーの理解を掛け合わせるという意味において非常にパイオニア的な研究所になると思います。

デザイン思考のIDEOを生んだシリコンバレーですね。

IDEOが牽引したようなテクノロジーとデザインの融合は、このシリコンバレーから生まれてきたと私は理解していて、例えばパロアルト研究所で発明されたALTOというパーソナルコンピューティングの原型に当たるコンピューターを設計していくにあたって、デザイナーを採用して、技術的に作るだけではなくて、人との接点をどうきちっと考えていくのか、例えばマウスというものはどうあるべきかとかですね、パーソナルコンピューティングっていうのは、元々アランケイという人間がビジョンとして提唱しているんですが、その大元にはどんな年齢の子どもでも使えるようなコンピューターであるべきだっていう考え方があります。じゃあそういうコンピューターを考えていくにあたって、デザイナーという存在を入れながら考えていくっていうプロセスが出来上がってきて、そういうところからテクノロジーとデザイ ンというのが注目されてきたし、デザインが重要視されて世界からそういうデザインの要素を持った人間がだんだんと集まってくるというトレンドを生んだきっかけになると思います。

Xデザイン学校で教えられることになった経緯を教えてください。

今現在はエクスパーク合同会社という会社を自分で設立して、前述したような人間側の理解と技術側の理解双方を通じたイノベーションを支援していくコンサルティングや、トレーニングのプログラムを 展開するような仕事をしているのですが、その流れでXデザイン学校でお話をさせてもらう機会があり、エスノグラフィーという、対象の中に入っていき、その対象となる人や社会を理解してくるという研究に携わる人間ということで、ユーザーリサーチのコースを受け持つことになりました。今年が2年目で非常にコンパクトなコースになっていますが、全部で4回のオンラインレクチャー+各自グループや個人で外に出てのフィールドワークという構成で、期間としては3〜4カ月、月に一回ぐらいのペースでオンラインワークショップを実施していく形になっています。

技術と人を繋ぎたいからこそ、人を知りたい。

元々技術側におられながら人文側へとシフトされた理由は何ですか?

私自身の原体験として技術ってなぜなかなか世の中に広まっていかないのだろう?という問いがあって。私の父は“面発光レーザー”(略してVCSEL)を1977年に発明した研究者なんですが、通常の半導体レーザーは基板に対して平行方向に光を発するのですが、VCSELは垂直方向に光を出せるという新しく非常に優れた特性を持つレーザーです。でも、なかなか世の中に広まらない、応用がなかなか進まないというのがあって、それを子どもながらに家の中で研究者としての葛藤を見ている中で、こういう面白い現象が起こせるような技術がなぜ世の中に出ないのかな?っていうのをつくづく感じていたんです。そういう技術をどうやって意味のあるカタチや面白いカタチで人の側に見せていけばいいのかという考えで、コンピューターグラフィックスやユーザーインターフェースのような技術が面白いなと、そういう技術があれば優れた技術をより展開していくきっかけができるんじゃないか、と若い頃思っていて、それがきっかけで基礎技術を応用技術としてユーザーインターフェースやインタラクションやデザインというカタチで広めていけないか?と思っていました。

理系/文系という区切りは自分の中には全くないのですが、そういう技術的に何かを表現していくには表現の基になる部分、自分なりに何を?っていうのを考えていく、思い付くという部分がありますが、それは表現する時にはどこかで外部との接点を考えなければいけないわけです。そうやってアイデアを見せる、使ってもらうってことが起こる。そうすると外へ影響を与えることになる。その影響というのはどこかで観測しなければいけないわけですが、観測するといった時に人ってどんな振る舞いをするのかとか、どんな反応するのかとか、思ったようにはなってないなとか、それを理解していくには、「人」の側を見ないと、と思いました。外部で観測するだけではなく、その人の目線で何が見えているのかな?という理解を試みなければというところで、エスノグラフィーのようなアプローチが必要だと考え、自分の中にそういう専門性を取り込まなければいけないと考えていったという流れですね。

エスノグラフィーとはどういうものですか?

エスノグラフィーの前にまずリサーチとデザインで整理しなければいけないのかなと思っていて、なぜXデザイン学校でユーザーリサーチなのかを考えることにも通じるのですが、デザインの語源を考える  と、DesignのDeの部分には否定的な意味があります。相手方をまず否定する、その上で新しいsign、新しい記号でそこに影響を与えるという語源的な意味合いがある。つまり、相手に影響を与えて変えるという能動的な要素がデザインです。一方でリサーチというのは、知る、調査する、理解する、という意味合いです。いわゆる自然科学的な意味合いとして、宇宙ってどうなってるのかとか、地球ってどうなってる、人間ってどうなってる、細胞ってどうなってる、化学の現象ってどうなってるっていうのを突き詰めていくのがリサーチ。とするなら、それは何か対象に影響を与えるという前に、その対象・相手を理解しなければいけない。率直に対象がどうなってる?現象が何なのか?というのを理解しようという行為がリサーチなのだと思います。で、その対象が「ユーザー」であるのがユーザーリサーチと呼ぶ由縁になる。そういう意味でデザインという行為はどこかで社会的に何か価値を与える意味では必要になってくるわけです。つまり、何か物事を生み出す、社会をより良いカタチにするには何か影響を与えなければいけないというのが、このデザインという行為であると思います。その対象となる社会であったり、人であったりというのが一体何なのか、どうなっているのかというのを謙虚に理解する、理解しようと努めるというのがユーザーリサーチであり、その考え方や手段のひとつがエスノグラフィ/エスノグラフィのビジネス応用という位置付けになります。外にある要素を自分の中に取り込む、取り込もうと試みるというのがリサーチという行為で、そこに何か自分なりの要素を入れ込んで、外に新たな影響を与えていくのがデザインという行為なんだと思うんですね。よってユーザーリサーチという行為によって、自分の中に外のエッセンスを取り込んで、その取り込んだものと自身との間での葛藤を踏まえてデザインという行為で外に出して影響を与えていこうという流れとなります。私の考えているユーザーリサーチというのはそういうもので、このコースでお伝えしたいのは、まず外にあるものを、自分の中にエッセンスとしてどう入れるのか?って、それをどう表現するかっていう一歩手前ぐらいまでをコースとしてカバーしたいと思っています。

虚心坦懐に、対象を真から理解するということ。

ユーザーリサーチはマーケティングリサーチと違うものなのですか?

企業にはざっくりと中と外の世界、つまり、お客さんやユーザーという「外」の人たちがいる世界と、ある種の文化や組織を持った企業の「中」の世界がありますね。加えて、例えば経営学者ピーター・ドラッカーの言葉を借りるならば、企業の基本的な機能とはマーケティングとイノベーションであり、簡単に言うと、人が何を欲するのかを理解する機能とそれに驚きのカタチで答える機能だと。で、そういう広義のマーケティングとイノベーションという機能があった時に「マーケティングリサーチ」での調査というのは何かというと、既にその組織の中で生み出されたものをどうやって社会にうまく広く実装していくかってために行っていると。つまり社内のイノベーションの世界から、外の世界を垣間見てどうやってその出力を大きくしていくことができるのか考えるために行っているのが狭義のマーケティングリサーチだと言えます。一方ユーザーリサーチでの調査というのは、まずプロダクトとかサービスありきではなく大きな問いがあり、外の世界を内にどうやって取り込むのか?という点にチャレンジがあると思っていて、そういうディシプリンを通じて外の世界のエッセンスを内側に取り込むんだと。ただ、そこではいわゆる人間の構造でいうと白血球のような、外部のばい菌を殺そうとするような、異質なものを自分の中に取り込めるのか?という葛藤が起こるわけですね。でも、そういう中で、外のエッセンスをうまく表現して、マーケティングの人を理解しようという世界から、それを驚きのカタチ、つまり技術によってそれを問うていく世界に言葉を転換してあげるというのが、まずデザインの要素として必要になってくる。で、自分の中のイノベーション側にある技術と外のエッセンスをうまく掛け合わせることができたら、それがある種プロダクトとかサービスというカタチで種が生まれるので、それをどうやって広く展開していくことができるかっていう時に広告の力を使ったり、そこでは改めて、こういうものがありますよって時に、人がいる、ものがある、どうやって、この人の視線の先にそれがあるんだっていうのを見せたらいいのかって考えていく調査が必要になってくる。だから同じ人を理解するといっても、プロダクトやサービスありきではなく、そもそもその人がどんな生き方をして、どんなものを見て、どんな生活をして、価値観やゴールを持っている、あるいは持ってない、などを理解するという行為と、あるプロダクトやサービスやその原型をその人に見てもらったり聞いてもらって、何なのかなっていうのを考えていくというのは、同じ調査っていう言葉で言われても、ニュアンスが少し違うのかなというふうに私は理解しています。

ユーザーリサーチというと特定のユーザーを想起しがちですが、もう少し大きな視座なんですね。

“これを使う”というユーザーより、“潜在的な”という意味合いを込めてユーザーと呼びたいなと思います。もちろん虚心坦懐に対象を理解するとはいえ企業ですので、何らかの大きな戦略やゆくゆく出すであろうプロダクトの大まかなアウトラインはあると思うんですが、その細かい特性とか、こんな形 のプロダクトだとか、こんなフローを持ったサービスっていうのが、キメキメでできているのではなくて、まだ何か、こういうことをしたらこの人たちはどうなるのかなというある種の問いや実験的な意味合いが必要な時に、この潜在的なユーザーに対するリサーチが求められるのかなとは思っています。

このXデザイン学校のユーザーリサーチコースの話で言うと、あえてデザインというエッセンスは入れないようにしたいと思っています。プロダクトやサービスデザインの話は入りません。私もいろいろな仕事で携わる企業が新しいことにチャレンジする時に、一体何をしたらいいのかすらわからないってことがあるんですね。もちろん解くべき課題はあって、例えばこの業態、何かの店舗群の売り上げが良くないと。いろいろやってきたけどよく分からない、どうにかしたいと。でも、そのお客さんというものもわかっているようで、わかっていないわけです。つまり、カチカチカウンターのようなもので何曜日何時に何人来るということはたくさんデータを持っているわけですが、では、どんなことを考えてそこに人が来ていて、実際そこで何を喋ってどんな思いをして、帰った後に何をしているのか?というのは、必ずしもそういう現場を運営している人たちもわかっているようでわからない部分が多いわけです。つまり、定量と定性という2つに分けるとするなら、両方必要ではあるんですけれども、そういう定性的な領域というもの、量ではなくて、じゃああの人は今、これから何をして、どういう思いで何をしてる、何を感じて活動を終えて、その場を離れて何をするのかな?っていうのを知ろうとする、そこから得たインサイト、その人が何を見て何を感じたのかっていうインサイトをもとに何か価値提供に転換できないかなってところがデザインの入り口になってくる。そのデザインの入り口まで誘うというのが、このユーザーリサーチコースの狙いです。

一体この人たちは何なのかな、何を見てるのかな。

具体的に授業はどんな内容になるのですか?

コースは基本的なレクチャーとフィールドワークを交えたワークショップ形式で進めます。フィールドワークの課題では非常にアバウトな問いかけをします。何とか業界というのがありますと。で、店舗の状況がまずいと。お客さんをわかってないと。お客さんをわかって来てください、というのがお題になります。アバウトには見えますが、現実的にビジネスの世界でもすごくそういうところが問題になっていて、企業というのはそんな悩みを表に出すと何もしていないように思われるので、理論武装するわけですね。定量データを持ってきて、たくさん知ってるんだ、いろいろ調査してるんだと武装した上で、どうにか新しい手を打ちたいと言うんですが、根本的に言うと、そこにいる人たちの思いとか価値観とか活動というのをちゃんとわかっていないということが一番の課題になってくると思っていて、そこから何をしたらいいのかな?って問いを生むのが重要になってくると思っています。例えばカメラであったとして、カメラを使っている人を追っていても、改善案には繋がるかもしれないけれど、それはカメラという活動ではないんですね。その現場でその人たちがやろうとしていることっていうのは、カメラで撮りたいということではなくて、全然異なる活動の中に何かを記録してあげたいだとか、誰かに伝えたいであるとか、そういうエッセンスが眠っている。それをまず解釈せずにその外のエッセンスを内に持ち帰るというようなことが求められる。そこにまだソリューションやテクノロジーというのをまぶさずに、一体この人たちは何なのかな、何を見てるのかな、そのエッセンスを記述する、表現するというのが、ユーザーリサーチ/ユーザーリサーチャーの仕事だと思っています。

エスノグラフィーにおけるフィールドワークについて教えてください。

案内人がいて、観光地や地域の特殊な場所を見に行って、写真撮って楽しかったみたいな、狭義のフィールドワークも世の中にはありますが、エスノグラフィーというエッセンスを理解するには、複雑なフィールドの中でもがくことが必要になります。例えば、お店がフィールドだとします。そのフィールドに入っていった時に、そこではあらゆる複雑なことが起きているわけです。そこでは、何を見たらいいのかすらまずはわからない。でも、普段自分は客として現実世界に生きている。その自分と外で起こっているいろいろ複雑な事象の対比を、まず体験していただきたいと。その上で一体“どこで何を見ると何が切り取れるのか?”という自分なりのテーマを自分の目、頭の中に作っていく。しかし、そこにある種のバイアスがあるというのも重要になって、自分が例えばお店の食べ物ばかり目にしてしまうとしたら、食べ物しか今見てない自分に気づくという内なる声との対話も必要になってくるし、食べ物以外にも他にも必ずいろいろそこでは起きているので、どうやって視点を切り替えて外の現象をまた違った見方で見ていくのか?そうしたことの中でもがく。そういう思考がエスノグラフィー的なフィールドでの学びになればと思っています。

その現場で起こっていることを真に理解する学びなんですね。

はい。私が気になっているのは「ちゃんと」現場から学んでいない人が昨今目立つと思っていて。例えば大人に対する子どもでいうと、子どもって何かする時はともかく体や口が先に動くんです。何か面白そうなものがあればパッと手が出たり、「それ何?」って口が開いたりっていうのが先に来る。じゃ大人は何するかっていうとその行いの結末を予測できたりするので、子どもに対して危ないって注意したり、行儀が悪いって叱ったりするわけです。「ちゃんと」学ばなければというのは、プランは、もっと先に立てないと本当に意義のあることには繋がらないという意味です。何か先んじてきっちりプランを立てたところで、フィールドに入ってみると、そこでは全然違うことが起きるし、全然思っているのと違う人たちがいるわけです。例えば“20代女性”みたいなセグメントを切ってこの人たちに売ろうなんて「プラン」して現場に行く。すると、そういう人が現場では皆無だったり、そう思ってた人が全然違うことをしていたりする。すると「ここでは何も起こっていない」とか「その人はターゲットユーザーじゃない」みたいに切り捨ててしまう恐れがあるわけです。だからこそ正直に虚心坦懐に現場で何しているのかな?と関心を持ち、あ、こういうことが起きているのかもしれないという発見から、次第に緩やかな作業仮説/プランを立てていくというような流れにこそ意義があると思います。子どものような心でまず現場を見つつ、そこで得た確かな知識で少しずつ自分なりのプランを作っていくような、そんな現場からの学びをしていただくといいと思います。

一人の人が生きている、ことがすごい。

エスノグラフィーの面白さってどんなところですか?

世の中には「普通」の人と言われるような人は存在しません。その普通の中にもすごく際立っていたり、その人の中での特殊性だったり、その人を形作る何かがあると考えています。それを私が受け入れられるかどうかは私という器とその人という対象の関係性になってくるので、先述のように外にあるものを内に入れた時に違和感や嫌悪感を覚えたりって私の主観としてあり得ると思うんですが、そういう普通という状態は人の中にはないよねという前提から、どんな人でもそこに面白いことだったり、おかしなことだったり、その人にとっての日常というものの中に“へぇ”とか“ふーん”って思われるものもあるだろうし、そういうところを気づけるような視線ができたならば、それがある種のエスノグラフィーにおける面白さや醍醐味になってきたらいいなと思います。

そうやってすべてN=1と言い切ってしまうと、じゃあその人だけに売るものしかできないんじゃないか?みたいな話につながりやすいですが、今我々が生きているとするならば、その人が今生きているっていうのはすごいことですよね。この生存競争の中で、そのDNAを守り継いできたある一人の人っていうのは、途中で図らずも亡くなられたりされてきた方々が多い中で生きているわけで、すごいことだと思うんです。そこにはその人なりの部分とある種の特性の共通項みたいなものがあるかもしれない。そこに“何かあるかもしれない”というところにチャレンジするのが企業の問いだと思います。そこに答えが最初からあるわけではないと思いますが、その対象のエッセンスを知らずしてモノをそこに投げていく/広めていくというプロダクトアウト的アプローチも一つの考え方だけれども、対象となる人や社会の理解を試みて、その外側にあるエッセンスと内側にあるものの違和感を感じながらも何か接続していく行為というのが、ユーザーリサーチそしてデザインという行為によって価値を社会に展開していくという活動だと思っています。

リサーチにも定性と定量がありますよね。

定量が説得性あるというのもある種の数字の魔力で、その定量にもある種の粉を振った定量もあるし、ホントのしっかりした定量というのもある。いかに社会の中に広く展開するのかという時には定量的な調査も絶対的に必要になると思いますが、一体何をしたらいいんだろう?という、まだその対象となる人や社会をどう切り取ったらいいのかすら見えていない時は、仮説がそもそもない状態なんですよ。だから、まず仮説を発見しなければ、何を軸に測ったらいいのかすらわからないので、定性というアプローチは仮説を発見するという行為でもあるように思いますね。その上で何か軸が見えてきたら測るメトリックスが見えてくるので多い/少ないっていう話で次に測れるようになるんだと思います。

私にとって、デザインとは「内から外へ影響を及ぼす行為」。

伊賀さんにとってデザインとは何ですか?

デザインの定義というのは各々のポジションによって異なっていいと思うんですが、私にとってのデザインという意味では、何か内にできあがったものを他者であったり、外に伝えて影響を及ぼす行為だと思います。だからこそ、リサーチとデザインを分けているのも、リサーチして相手をわかっただけでは何も起こせないわけです。エスノグラフィーの研究者にも、相手をわかったけれど影響を及ぼしたくないって考え方の人もいるんですね。影響を及ぼしてしまうと、例えば何らかその地域に住んでいる人たちを変えてしまう行為になるので、できるだけそこは触りたくない、ありのままでいてほしいという思いで何かを変えるって行為をしたがらない研究者もいるんですが、私自身はよりいいカタチで社会が進むといいなと思っているので、そこにはある種のデザイン行為が必要になってくる。で、変えてしまう、そこには変えることのいい面も悪い面もあると思います、どんなシステムでも何か一ついじると何かが変わってしまうので、メリットもあればどこかで長期的にはデメリットも生んだりする。でも、それにチャレンジしなければ人間はきっと良くならないと思っているので、より良さそうな、どこをいじるといい方に行くのかな?っていうのを考えていく、そして、影響を及ぼすという営為がデザインかなと思います。

柔和な語り口で大変丁寧に大人のデザインの学びについて語っていただいた伊賀さん。子どものような心で対象を知ろうとすることの大事さをこそ、大人は見落としているのかもしれません。デザインのおもしろさは、やっぱり広くて深いです。