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「人生大学・苦労学部」

「上方演芸発祥の地 てんのじ村」

大阪のJR今宮駅で降りて、天王寺駅に向かって4分ほど歩くと、高さ5~6メートルもある「上方演芸発祥の地 てんのじ村記念碑」という記念碑がある。まさに記念碑に書かれている通り、ここに上方の芸人が集まって生活し、戦前戦後の厳しい時代を生き延び、やがて上方芸能の華を開かせたと言われている。私は、天王寺駅から一駅、二駅離れたところにある公立高校に通っていたのだが、今宮駅、天王寺駅、あるいは通天閣界隈の歓楽街は、私たち無頼派の高校生にとって放課後にブラブラするのに格好の場だった。
この辺りに、「てんのじ村」と呼ばれた上方芸人のコミューンがあったのは知っていたが、私たちが高校生の時は、「てんのじ村」界隈はまだまだ現役の芸人や、その筋の人、歓楽街に生きる人、日雇いの肉体労働者が入り混じってしのぎを削っていた町で、そこだけは生半可な覚悟で冷やかして回れる場所ではなかった。

日曜日の朝には、テレビで「浪花節」を聴く父の姿があった

私が高校生の頃は、まだ「浪花節」もそこそこの人気があった時代で、日曜日にはNHKで浪花節の番組を放映していた。この「浪花節」は、上方では「浪花節」だが、関東では「浪曲」と呼ばれていてた。私の親父は下手の横好きの典型で、湯船に入ってよく浪花節を歌っていたが、正直にいうとかなり下手だった。それでも浪花節が好きで、日曜日などに浪花節のテレビ番組があると一人テレビの前に住まって熱心に聞いていた。この頃、テレビの園芸番組では、落語、漫才、曲芸、手品、浪曲、講談、漫談などが混載されていた。当時の私の印象では、演芸番組に何でも混載するような状態になると、これは演芸そのものの衰退を象徴しているような感じがした。この頃私が好きだったのは、今でも「てんのじ村」に住んでいそうな高齢の漫才師たちの漫才だった。詳しい漫才のやり取りは全く覚えていないが、相方に学歴を問われた初老の漫才師が、「人生大学、苦労学部」だと答えて、客席はどっと沸くという展開だったように思う。これは、まさに学歴社会の渦中に生きざるをえなくて、その中でも少しも卑屈にならずに、堂々と学歴社会に物申したという天晴な芸人魂だと思ったものだった。

「てんのじ村」に追悼の念を込めて

「人生大学・苦労学部」は、誰の漫才のネタかは覚えていない。おそらく人生幸朗・生恵幸子師匠辺りの漫才だったかと思うが、証拠はないし確信もない。しかし、私は総じてこの時代の漫才が好きだった。好きだと言ってもこの時代の漫才のセンスが面白く、私の笑いのツボにはまっているということではない。面白くて彼らのCDをコレクションしていることもない。私が好きだと思うのは、むしろこの時代遅れ感が面白く感じられたのだと思う。少し角度を変えて言えば、「てんのじ村」や、人生幸朗・生恵幸子、砂川捨丸・中村春代、平和ラッパなどといった多くの大御所たちへの私からのささやかなトリビュートになればと思う。


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