見出し画像

スカートの百鬼夜行

 私は、人を殺しかけたことがあった、かもしれない。成功していれば、それは私が知っている中で、最もロマンチックな方法だった。

 昔からそうだったが、不機嫌になるとわかりやすく表情や態度に出す夫がいつも通り無言になり、出勤の準備をしている。早く行ってくれと願いながら、テレビから流れる近所の連続不審死のニュースを聞き流す。それは死因不明の遺体が連続して数体見つかった、というもので、はじめのうちは恐ろしいニュースだと身震いし、たいそう気にしながら生活していたが、そんなことも他のことで精神が追い詰められてくるとどうでも良くなってくるのだった。
 結婚して3年、付き合っている頃を入れると8年一緒にいる彼の性格は織り込み済みのつもりでやっとのこと結婚に持ち込んだが、やはり心のどこかに妥協の二文字が浮かんで消えないような結婚はするべきではなかったのではないか、という疑問の言葉が、はじめの頃はガラスのような薄く透明な質感だったのに、日毎にくっきりと今ではまるで小学生の頃に発表に使った模造紙くらいの大きさと圧迫感で目の前に迫っているような気がしてきつつあった。互いに素直になれていないのはわかるが、何かあったときにこちらがどんなに冷静に話し合いをして現状を解決しようと持ちかけても、彼は私が悪いと責めることしかしなかった。近頃は彼がずっと嫌がっていたので結婚をきっかけに辞めたタバコが、吸いたくて吸いたくて仕方がない。
 ニュースを聞き流しながら、この不審な事件に彼か私のどちらかが巻き込まれる想像をした。カミナリが落ちたように突然、この生活が引き裂かれ中断するならばどんなに楽になるだろう、私が変質者に殺されれば彼はさすがに泣いてくれるだろうか、私とのうまくいかなくなった生活を後悔してくれるだろうか、などと妄想を繰り広げると一時的に気持ちが楽になったような気がするのだった。

 ある日仕事帰りのコンビニで、同じヨガ教室に通う怜子さんにバッタリ会った。彼女は私より一つ上で既婚者、以前からなんとなく気が合うと思っていたがじっくり話したことはなかった。お互いの夫の帰りが遅いとわかり、ファミレスで夕飯を一緒に食べよう、という話になった。
 ファミレスでお互いの話をするうち、やはり気が合うことがわかって、次第に自分の心のドアが開いていくのを感じる。相性の良い人とは男女問わず、警戒心が一気に吹き飛ぶタイミングが見えるような経験があるが、怜子さんはまさにそんな相手だった。おまけに怜子さんは何事にも動じず、良い意味でドライな反応を見せつつ、淡々と相槌を打ってくれる。その相槌もまさに私が欲していた温度感とタイミングで返ってきて、熱すぎもせず、冷たすぎることもないその温度感に私はぐるぐると気持ち良くなっていった。やがて最近夫婦仲がうまく行っていないことをポツポツと漏らし始めたら、次第に坂道を転げるようなスピード感で日頃の不満は肥大化し、自家中毒のように憎しみが増大し、熱を持ち、気づけば愚痴は止まらず、最終的には涙が溢れ出てきた。自分がこんなに辛かったなんて、気づかなかった。怜子さんは涙を流す私をしんと見つめ、辛かったのね、と言った。そして私がひとしきり泣き終わり、少し落ち着いた頃を見計らって、少しだけテーブルに身を乗り出し、さっきまでと同じニュアンスで、淡々と近所の連続不審死の話をしだしたのだ。
「信じてくれっていっても難しいと思うんだけど、あの不審死には私が一枚噛んでいて、周りの女性たちととある計画を進めているところなの。いわゆる呪いみたいなもので、その呪いを対象者に近くで見せるとその対象者は死んでしまうのよ。」と怜子さんはさっき店員に料理の注文をした時と同じくらいになんの感情も感じさせない言い方で言った。私は一瞬面食らったが、この怜子さんが言うならばそれはきっと本当なのだ、とすっと受け入れる気持ちになった。詳しく教えてください、と伝えると彼女はすっとスマートフォンの画面を見せてきて、そこには百鬼夜行の絵巻の画像が映し出されていた。そしてその絵を私に見せながら大真面目に、
「次の実行日は12月12日の0時でね、前日の23時までに、窓際に一張羅のスカートかワンピースを掛けておいて。窓は少しだけ開けておいてね。なるべく旦那さんとの大切な思い出のものが好ましい。その夜に、その服たちは近所を行進するのよ、この絵みたいに、百鬼夜行するの。それでその行進を、旦那に近くで見せることができたら、成功。彼は死ぬよ。」と続けた。どうしてそんなことが、と聞いたら
「友達ができたの。」とだけ言って怜子さんはニコッと微笑んだ。こんなことを受け入れる気持ちになっているなんて、長らくのストレスで私もおかしくなっているのかもしれない。でも、窓際にスカートを掛けておくだけでそんなことが叶うならば、試してみても良いのではないだろうか。どうせ何もなかったらそれで良いし、もし…もし何か起きても、私が手を下すことは何もないのだから。私たちは諸注意をいくつか確認しあい、ファミレスを後にした。最後になぜスカートかワンピースなの、と聞いたら
「そのほうが綺麗だからね。」と返ってきた。

 言われた通りに11日の23時少し前に、寝室の窓際にお気に入りのスカートを掛けた。彼との初めての旅行で着た、シルクサテンで、ドレープのたっぷり入った美しいスカート。淡いレモンイエローで、上品にもカジュアルにも着られる、うんとお気に入りの、私のスカート。もし本当に夜の街を行進するなら、この色は、生地は、きっと映えるだろう。伊豆の旅行は、楽しかったな。もうあんな気持ちになることは絶対にないんだろうな。23:40になったら、彼にコンビニに行ってもらおう。急に生理がきたが、生理用品が切れてしまって、どうしても困っているがお腹が痛くて行けない、と伝えるために今朝から腹痛の演技をしておいた。最近関係がうまくいっていないが、流石に放っておくことはないんじゃないか、と望みをかけた。今から殺そうと試みるのに、優しさに望みをかけるなんて。おかしな話だ。しかしなにふりかまっていられない。

 どきどきと鼓動が早まるのを悟られぬようにそっと窓を開け23:32にトイレに立ち、ひとまず便座にじっと座る。持ち込んだスマホの画面が手汗でぬるぬるになりながら、23:36になったのを確認してから、緊張のあまり予定より少し早めに、彼にコンビニに行ってくれないか、と伝えた。異変を気取られないために、トイレから出ずに。ややあってから、彼は、嫌だ、と答えた。そんなの自分のせいじゃん、トイレットペーパーでもなんでも敷いて、自分で行ってよ。今日も疲れて、早く寝たいんだから。コンビニなんて行ったら、眩しくて目が冴えちゃうよ。

 ぶっつん、と私の中で明確に何かが切れた。ちょうどDr.Martensのブーツの靴紐くらいの太さ、硬さのものが、頭なのか心なのか、とにかく自分の内部で弾け切れた感覚をありありと感じた。はじめは息がはあはあと苦しくなり、手と膝が小さく震えた。こいつは殺すまでもない、別れりゃ良い話だ、と思い至れるまで冷静になった頃、スマホの画面は23:57になっていた。その頃には震えはもう止まっていた。
 約30分もトイレにいた私を少しは不思議に思ったのか、夫はリビングのソファから、こちらは見ずにお腹痛いの?と聞いてきた。私はその言葉を無視して引き出しに隠してあったタバコを取り出した。

 ベランダに出て下を見て、息を飲んだ。飲んだ息と共に12月のキンとした空気が一気に肺になだれ込んできたが、なぜか一瞬生ぬるさも感じた。
 本当にスカートが百鬼夜行をしていた。怜子さんはやっぱり嘘つきじゃなかったんだわ。何枚もの美しいスカートやワンピース、あとは少し男物のスラックスなども混じっているような気がするが、とにかくたくさんの服たちが、ゆらゆら、ひらひらと宙に浮かびたゆたっている。東から西へ、マンションの下の公園をゆっくりと横切る夜行。それぞれの美しい思い出を纏った私たちの一張羅。絞ったら滴るくらいの恨みと呪いも背負わされた、私たちの美しいお洋服たち。私のレモンイエローのスカートはどの服よりも、美しくたなびいていた。良いもん見たな、と思いながらスマホを見たら、0:02を示していた。それからやっぱりあのスカートにして正解だったな、と思いつつ私はベランダの手すりにもたげ、タバコに火をつけた。夫はいきなり深夜にベランダに出た私を不審に思って注目していたようだったが、喫煙に気づき、驚きのあまり物凄い勢いで立ち上がり、こちらを見続けながら絶句している。何か怒鳴る寸前の震えも察したが夜も深いので近所を気にして、ギリギリとどまっているようだ。ベランダの下で起きていることには気づいていない。
「ああ、確かに、きれいだな。」私は手すりに肘を乗せたまま、美しい女たちのスカートの百鬼夜行を眺めながら久々のタバコの煙を思いっきり吸い、うっとりと吐き出してから、言った。

(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?