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インターネットに対してなんの知識もなかった小学3年生が自殺未遂をした話

わたし

あれは、私が9歳のときであった。

あのときの私は、栗色の髪を腰まで伸ばし、日光アレルギーの人間特有の青白い肌、そして血色の良い真っ赤な頬をしていた。

髪の毛を抜き、丸め、球体を作り、瓶に貯める。
そんな「儀式」を毎日行っていたことを除いては、いたって普通の子供であった。

しかし、9歳の子供にしては排他的な性格で、厭世的な気持ちでいっぱいであったように思う。

それは恐らく、精神科医やカウンセラーですら目を丸めるほどに内向的な性格と、アスペルガーの父親と高IQの母親を持ったために授かった高い知能が原因だったのだろう。

私は言葉を発するのが遅かったが、初めての言葉「てって洗う」を発してからは、話し始めると止まらない幼児だったそうだ。

医師は、慎重で内向的な性格も相まって、伝えたいことが上手く伝わらないうちは言葉を貯めることに徹していたのではないかとの見解を示した。

まだ、人間関係の複雑さや人間の心と身体の不一致な動きを知る前までは、「自分の気持ちを相手に伝える」という行為をするだけで済んでいた私の幼少期。

それも終わりを迎え、私は幼稚園に入園するはずだった。

私は入園を頑なに拒否した。

母が無理やりいくつかの幼稚園や保育園の体験入園に私を連れていくと、ストレス性の蕁麻疹や嘔吐を引き起こす程、私は集団生活を拒否したらしい。

結局、幼稚園には 1年遅れた4歳から入園することとなった。

5歳の頃には、物事の善し悪しや相手の気持ちがわかるようになり、それと共に人間関係での衝突が増えていった。

私はとにかく嘘つきだった。

嫌いな食べ物を食べたと言い張り、カエルを殺してしまったことを隠し、死体を砂場に隠蔽した。
友達に盗まれたキーホルダーは私が「あげた」もの という全くもって自分の保身にすらならない嘘までついた。

嘘が「よくないこと」であるという認識をしていながらも、本心を話すことを恐れ、嘘をつき続けた私は、小学校に入学してからはさらに自分の気持ちにも嘘をつくようになり、とうとう
「みんなに気をつかえる優しい子」
と言われるようにまでなってしまっていた。

幼稚園からいただいたドリルを真面目に解いていたらしい私は、小学校に入ってからも周囲より少しできる子でい続けた。

「気をつかえる」私は、学級委員にも選ばれた。
本当は、保身のために周囲の人間を観察するようになっただけだったのだが。

しかし、私は確かに優しい人間であった。

自分と関わっている人間全員を、無条件に信じることができたからだ。
良くも悪くも、私はすぐに人を信じ、受け入れてしまう性格であった。

両親に、あの子は意地悪だから信用するなと言われた人でさえ、心の奥では何故かその人を赦していた。
そのせいで、親戚にレイプされた時でさえ、12歳まで、私は、彼らは本当に可哀想で、優しくて、私を気にかけてくれる人達なのだ、と。

人を無条件に愛していた。


家庭

私は、父と母と姉を家族として認識している。

父は会社員で、母は専業主婦。

私が小学3年生の頃は、みんな仲良しで、姉妹仲も良好であった。

家族で同じ寝室で眠り、リビングで生活する。

それが私の家庭の普通だった。

小学校に入学し、クラスメイトの家庭環境を把握し始めた私がまず父と母に求めたのは、自分一人のスペースだった。

自分だけの部屋が欲しい。
難しいのなら、物置部屋のすみっこで勉強したり本を読んだりしたい。
一人の時間が欲しい。

父と母は、首を横に振った。

母は、私を目の届く範囲内に置いておきたかったらしい。

それはきっと、私がときどき破滅的な行動をとることを知っていたからなのかもしれない。

結局、小学3年生まで自分だけのスペース、姉妹で使えるスペースが与えられることはなかった。

母と同じ布団の中で眠り、家に帰ると母がいて、夕飯を作る母の目の前で宿題をし、読書をし、夕飯を食べ、母と風呂に入り、母に髪を乾かされ、歯を磨き、眠って、起きて、学校に行き… その生活の繰り返しだった。

母は私が9歳になるくらいの頃から、占いを楽しむサークルのような集まりによく出向いていた。

その頻度が月3回になった頃、その占いを利用したカルト団体に目をつけられた。

やっている占い自体はごく一般的な占いだったこともあり、母はその団体に入ってしまった。

集まりは昼の時間帯が多かったたため、私はその内容を知ることが出来なかった。

私自身の生活は、何ひとつ変わらなかった。

母が、私を天使に愛された子だと言った。

私は何も分からず、自分が特別な存在である事を喜んだ。

とある休日の夜、私と姉を、母が団体の食事会に連れていった。

会場では老若男女、さまざまな人々が談笑し、食事をとり、酒を飲み、座っていた。

お子様ランチに喜んだ私は、すぐにご馳走にありついた。

2杯目のオレンジジュースを飲み干す頃、周囲の大人達がわあっと声をあげた。

人々の視線の先には、白髪混じりの長髪にひらひらした服を着た50-60代の男性がいた。

会長、会長、と囁かれるその言葉に満足気な顔を浮かべた男性は、一人一人と言葉を交わしながら会場を回っていた。

私たちのところにまできた彼は、

「はじめまして」

と笑った。

外交的でおおらかな姉は、彼の物腰のやわらかさに安心したようで、にこにことしていた。

私は何も言えず、ただそこに固まっていた。

やがて、彼と母がなにか言葉を交わし、最後に彼は私の頭を撫でて言った。

「大人しそうだけど、いい目だね」

怖かった。

母と誰かが、まさかお会い出来るなんて、と話していた。

会えてよかったね、と、母は言った。

そのまま、私は吐いた。

お子様ランチのデザートに、アレルギーの食材が入っていたらしい。

私がその日得たものは、ゲロにまみれた国旗ようじだけだった。


窓からの飛躍

1月。

9歳の誕生日を迎えた私は、焦っていた。

きっかけは、同じクラスの衒学的な同級生に、テストの点数を馬鹿にされたことだった。

「50点!?俺なんて85点だよ!!」

彼は私にそう言った。

彼が私に見せびらかしたテストの答案は、小学校でよくやるカラーテスト。

後に、私の点数が50点と記載されていた紙は、50点満点の全国模試の結果通知であったことを知った。

今まで誰かと学力を比べたことがなかった私は、自分はこの子の半分くらいしかできないんだ、と落ち込んだ。

しかもその子は、その事が起こる数日前に授業で行ったグループワークで大泣きし、使い物にならないと思っていた子だった。

それもあって、自尊心が乱された。

今まで、勉強も、人生も、基盤は自分でしかなかった私が、初めて人との差に悩んだ出来事だった。

それからは、今まで気に止めていなかった周囲の言葉が、やけに刺さるようになった。


名前は日本人なのに、どうして髪の毛は明るいの?

ほっぺが真っ赤で、りんごみたい。

髪の毛ながいよね、貞子だ!

それよりも、赤毛だから、魔女じゃない?

裏界さんは、先生のためにいろいろしてくれて助かる。

まだ遊び盛りなのに、言葉が達者で怖いのよね。

どうして雪は、お友達と遊びたいって言わないの?
──みんな、お友達なんだもの。

やだ、現実的、ですって、聞いた?

うずもれて、なんて、そういう表現、先生は好きじゃないな。

左利きは頭がいいって言いますもの、おたくの娘さんなんて───

この子は天使に愛されているから、連れていかれて仕舞わないように、守ってあげなくちゃいけないんだ。

君を太陽のようにあたたかく見守っているよ。

ねえ、ママと一緒に覚えない?みんなに自慢しようよ。

雪ばっかり、みんなに褒められて、ずるい。

こんなにできた子、逆にどこか問題が──

ほら、元気で笑顔な雪ちゃんじゃなきゃ。


わからなくなった。

今まで保身のために嘘をついてきて、嘘をついている時の性格が、周囲から見た私になった。

その性格が私のイメージとして定着してしまった。

こうじゃなくちゃだめなんだ。

どうすればいいの?

私は、自分の気持ちを言葉で伝えることが出来た。

しかし、自分の気持ちを正しい言葉で理解することは、まだできなかった。

逃げたい▶︎その場から離れる

離れる▶︎お母さんとずっと一緒だから、できない、自分の部屋も居場所もない

家から出る▶︎1人でお散歩は危ないから許して貰えない

ここから逃げるには?▶︎お母さんからバレないように、窓から逃げる

逃げて、その後は?

私は自分のめんどうが見れない。

私は自分に子供ができたら、面倒が見られなくなったら殺しちゃうかも。
※小学三年生の考えです

じゃあ、死ぬしかない。

じさつ。

9歳の少女にとって、それは、自分の行動のせいで死んでしまったこと、それだけの認識だった。

自分で首を吊ったから、死んだ。

自分で飛び降りたから、死んだ。

私は家の勉強机から布団に飛び込んで、バンジージャンプの真似事をよくしていた。

それと同じ感覚だった。

住んでいるアパートの非常階段を登って、3階の上の屋上に出た。

屋上の端にあった出っ張った部分にさらに登ろうと、はしごに足をかけた。

それくらいの時に、初めて怖いと思った。

はしごを登りきる頃には、私の足は風で折れてしまいそうなほどに弱々しく震えていた。

いまやめたら、どうなるんだろう。

怖い気持ちは消えるけれど、逃げることはできない。
不安で、悔しい気持ちが消えることはない。

微温的な状況に戻るだけだ。

やっぱり、ぜんぶ終わらせた方が、逃げられるから。

バンジージャンプと同じくらいの感覚で、楽しく宙を舞った。

ふわあっと、全身の血があたたかくなったように感じて、そのまま私は走馬灯を見た。

感覚からして、10時間程の感覚だった。

見ている間は、ただ情報が頭を走り抜けていくだけで、なんの感情も湧かなかった。

世界一短くて長い、穏やかな時間であった。

そのまま私は、意識を失った。


凍傷

次に目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。

結果として未遂に終わった自殺。

私は全てがばれたものとばかり思っていた。

それとともに、死のうとした理由、そして謝罪の言葉をぐるぐると考えていた。

母も父も姉も、泣いていた。

私は雪国のアパートの軒下、住民たちが雪かきをして、雪下ろしをして、その雪を集約していた場所に落下したそうだ。

そのせいか全身打撲と仙骨にひびが入った以外に怪我はなかった。

発見までは30分ほど、別の住民が帰宅時に発見した。

足や背中、手などほぼ全身が凍傷になっており、発見が遅れていたらそのまま死んでいたらしい。

私は窓から誤って転落した、ということになっていた。

自殺しようとしたなどとても言い出せず、またその理由も自分でもよく思い出せなかったために、私は窓の近くの大きなつららを取ろうとして窓から滑り落ちた、不注意な少女になった。

母からは叱られ、抱きしめられ、父からは撫でられ、姉からはお手紙をもらった。

カルト団体の会長には、やはり天使から愛されているとお墨付きをもらった。余計だ。


その後

事件から2ヶ月ほど経って、私たちはアパートから引っ越すことになった。

やはり私が転落した場所に住み続けるのは心配だ、という親の気遣いだった。

新しい家に住んだら、子供部屋ができる、という両親の言葉に釣られ、わたしは引越しを快諾した。

市内の別の場所に、中古の家を買った。

何故か築50年以上の、断熱材の入っていない、傾いた木造家屋だった。

700万円したらしい。どうして。

その後小学四年生になった私は、転校先でいじめにあい、中学2年生にはまた自殺未遂をする。

それはまた別の話で。





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