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メメント・モリ 〜 社会で殉死したくないっす

自分とは何かと自問してみる。
容姿と記憶(人生史)とそのときの気分からできているもの。それが自分。
気分と体調は連動しているから、手持ちの生活習慣病が人よりちょっと多めの私は、平常の気分はけっして心地よいものではない。わりと平時からいらいら・そわそわ・おどおどしているほうだと思う。静寂ときれいな音楽が好きだ。

それこそ20歳や30歳ぐらいのころは、からかわれながらもナメられないように高みにのぼろうとしていた。40歳後半あたりから、何か政治的なものに巻き込まれてしまいがちの体質になった。それでいまはどう?と問われたなら…何か急激にエネルギーがなくなっていってるような感じがする。エネルギーがなくなっていったのはたぶん、経済的なことと連動している。

重いテーマで書くけれど、あまり重い話としてとらえないでいただきたい。
なるべく、軽い気持ちで読めるようにがんばるから。


死というものについてよく考える。いますぐ死のうってわけではないからご心配なく。〝メメント・モリ〟などとよばれるあれだ。

メメント・モリ: memento mori)は、ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」「人に訪れる死を忘ることなかれ」といった意味の警句。

Wikipedia より引用( https://ja.wikipedia.org/wiki/メメント・モリ  )

老齢になってなお不死身と思い続ける人が多いけれど…


人は不死身ではない。老若男女問わず、究極のゴールは死だ。
さらにいえば、死とは病と同じことなんかではない。

バブル前までは死というのはどこか厳粛で特別なイベントだったような気がするが、最近はここまで「他人の死」がカジュアルなものになってしまった。どこかの鉄道路線で人身事故が起これば、誰かの悲劇ではなく会社に遅れる自分の迷惑を憎々しげに語る。そのくせ、その語り口はどこか楽しそうでもある。人身事故が起こったとき、現場にスマホカメラを向ける人がいるとかいう話だけでぞっとしてしまう。

ある芸人は「死ねばいいのに」というフレーズで笑いをとる。悪いけど、他人の死で笑いをとる人のギャグなんてこれっぽちも笑えない。もっとも、自分の死で笑いをとることなんてできやしないわけだが。志村けんさんは悔しがっているだろう。

「死ねばいいのに」というフレーズで笑いをとる者、もしくはそのフレーズをいじめの手段として利用している者は、ぜひ本気で死(とりわけ自分自身の死)とはなにかについて向き合ってみることをお勧めする。他人に言い放ったその言葉を、自身の死として責任がとれるほどに死というものがカジュアルなものなのか。それを
考えてみよと言いたいのだ。老婆心ながら。

私には軽々越えられるハードルなんかではない。

社会はもはや、こんな私を守ってくれると思えない


まず、個人を大切に扱わなくなったのはビジネスのジャンルだと思っている。さらにいえばその前次元に、政治というジャンルでもあろう。あとは、それを我々に伝えるマスメディアだろうな。

この時代の会社経営が苦しいというのはわかるのだが、本当に従業員を大事にしない会社が増えた。労使はこれっぽちも対等なんかではない。この手の愚痴を言い出したら止まらなくなるので、ここではやめておく。ただ、利潤を目的とした共同体の仲間を大事にできないという輩には経営なんてやめていただきたい。というか、それを言ったら最後だろう。誰も経営なんてものをやらなくなるだろうな。

でも、この世には一定の割合でサイコパスがいる。経営は絶滅しない。

まだ、会社の入口で就職先が「大嘘つきで、確信的なハラスメントをはたらいてもおかしくない相手」だということがわかっただけまし — というなかれ。本当に現在の就職事情は過酷だ。ちょっと度を越していると感じている。

要するに、安く働く人ばかりを求める。
「安く働いてくれないんだったら、現場にいる人で回すからいいや」ってふうにして、結局は現場を疲弊させてしまう。どうかしてるよ。

そんな状況をうすうすわかっているくせに、税金の督促だけは厳しくなってきた(というか、督促状を受け取らなくてはならなくなったのはつい最近で、むかしどうだったかとの比べようがない)。卑怯なことにも督促を実行しているのは、公務員が税金で雇った下請け業者である。どうなっているんだ。

この状況で医療が発達してもなあ…


少なくとも私は、先進医療なんて使えない。そんなお金はないし、あったとしてもおそらく家内と娘たちが機嫌良くいまを楽しんでくれるほうがずっと本望だ。

魔がさして、それについて考えることがある。そして家内に保険金うんぬんのことを話すと、すごく嫌がられる。まあ当たり前か。
ただ … 私の収入がこの2年でパート並みになってしまって以後にこさえた借金が、果たしてこの先本当に返せるのかわからない。経済的合理性だけで語るなら、このあたりで私が死んだほうが、どう考えたっていちばん合理的なのだ(まだ死にませんから大丈夫です)。

さすがに今日明日で私の人生は終わりです、となると「ちょ、ちょっと待って!」ってふうになると思うが、年齢のことがいちばんの理由なのだが、この社会ではもう勝ち目はない。いっそ安楽死の制度がほしいくらいだ。いや、これは本気で思っている。医療は青天井に高度になんてならなくたっていい。

いま必要なのは、死というものへの心の準備


臭いものにはふた — という考え方で私の世代を育ててきた親世代。
私は取り立ててリベラルというわけではないが、東日本震災の原発騒動の対処がまさに「臭いものにはふた」だったことには、ひどく驚き呆れ返った。経済を大義名分とした政治家たちの本格的な開き直りは、あれをきっかけに横行しはじめたと思っている。

「わしのいうようにやればええんや!」「おかあさんのいうようにしなさい!」と私に有無を言わせなかった団塊世代がふりかざしてきた将来像がこれほどの崩壊をみても、彼らはちゃんと年金を手にしている。それで介護現場では「なっとらん!」と文句を垂れるというのなら、これはもう救いようがない。

こんなドタバタ劇のなか、きっとこの不条理の構造を冷静に理解してつつましやかに生きているご高齢の方も見えると思う。ただ、どうか自殺はしないでほしい。キレる老人、老害、毒親 … とレッテルを貼られない程度に社会に甘えていただきいたいと思う。厚かましいやつほどいい思いをしているという現状だが、ここは上手に生き延びてくださいと祈っている。

恥ずかしながら私の父親、その人こそ〝自称不死身〟なのである。遺産相続の話なんてこっちが切り出せるわけがないじゃないか。おそらく彼の中では、不死身なんだからなんでそんな話をする必要があるのか、といったところだろう。

でも、はっきり言おう。医療がどんなに発達しても、平均寿命が無限大に発散することはありえない。いつかは誰もが死ぬのだ。

まず最初のステップとして必要だと思われること


まずは、すでに亡くなってしまった方々を悼むとともに、その死にざまに思いを馳せてみること。いきなり死後の世界に想像をたくましくしようとしても、それでメンタルを病んでしまっては元も子もなくなってしまう。

私の場合はどうだろう。たとえば、昨秋に亡くなってしまったミュージシャンの
KANさん(ファンでした)。あるいは、おでん芸で体を張って笑わせてくれていた上島竜兵さん。挙げていくときりがないし、あまり真似はしないでいただきたいが、竜ちゃんに関してはいまだに「なんでだろう」って気持ちになってしまうことがある。私の中では、竜ちゃんが死を選んだ理由をひとりだけで深く考えること — そのことがメメント・モリの実践とつながっているような気がする。

喜劇俳優さんの最期はけっこう悲しいものであることが少なくない。ポール牧さんもそうだった。いま私がかろうじてしがみついている業界でいえば、あれだけ華やかだった金ピカ先生(佐藤忠志さん)のさびしい死。マスコミにあれだけもてはやされた人が、まるで干されたかのような寂しい死を迎えるとは夢にも思っていなかった。

そういったものを他人事としてではなく、やがてどういう形であれ自分にも訪れるイベントであることを意識する。それぐらいのことからしか始められないし、それだけでも十分にメンタルに堪える物事ではある。病まない程度に、生活に支障しない程度に少しずつ、自分自身に負荷をかけている。

ひとりきりでのメメント・モリの実践は、かなりリスキーだ。そのために宗教というものがあるのだろうけれど、肝心のその宗教で人を欺いたりむしりとったりする輩が横行しているんだな、これが(苦笑)。もうめちゃくちゃですわ。

10年前ぐらいに仏教書を読み漁ったことがある。ちょうど、アルボムッレ・スマサナーラさんの「怒らないこと」という本がヒットしたころだ。ひとりで仏教書を読書するというのは、日本人の心性にとてもよく融和する方法だと感じている。貪・瞋・痴とか108つの煩悩だとか、なにか知識とか用語が多そうには見えるけれど、しょっちゅう出てくる用語は何度も見てるうちに覚えてくる。

父親の〝宗教二世〟という立場で語るなら、私は真言宗と縁があるらしい。ただ、これまでの人生・生活のなかで宗教を深堀することはほとんどなく、ぜいぜい父親に、親の郷里で親戚一同が集まっているところに連れて行かれたぐらいだ。それにしても、私の親こそがどうしてあれほど「所業無常」を理解していないのかと驚く。昭和後期こそが永遠でいまだに正義だと思い込んでますから — それだと仏教ではなく「団塊世代教」の教徒だ。貪・瞋・痴にまみれすぎている。

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