55歳児
ときどき書いているけど、サザエさんの父・波平は54歳だという。
もちろん子供の頃から、登場人物の年齢を強く意識してあの国民的アニメ「サザエさん」を見ていたわけではない。波平さんはタラちゃんのおじいちゃんなのに、まだ会社勤めかあ…ぐらいには感じていたけれど。あえて言えば、歳の近いカツオやワカメとタラちゃんが兄弟でない(カツオとワカメとサザエが兄弟で、サザエの息子であるタラちゃんにとってカツオ・ワカメは叔父と叔母)という設定への違和感はすごくあった。戦後間もないころだったら、よくあることだったんだろうな。
私が子供だったころに一般的だったのは、55歳ってのが定年退職を迎える歳の相場だったってことだ。あとはきっと隠居して盆栽なんかを趣味にして余生を謳歌することになるんだろうな…それが子供のころの私からみた55歳のイメージだったはずだ。
55歳ってのは、子供だった自分とまったく別ものの〝洗練された人間〟なんだろうなと信じて疑わなかった。子供じみたことなんかこれっぽちも考えないだろうってふうに。
子供だった私からみた55歳
高1のころか高2のころか忘れたけど、授業では席順に教科書を音読させるばかりで、まったく板書授業をしない社会科の先生がいた。私自身はただならぬ違和感を抱いていたのだけど、ミステリアスで温和な雰囲気を醸し出したこの不思議な初老先生は、クラスではなぜかとても人気があった。
その先生がちょうど私の代で定年を迎えられ、HRの時間に簡単な送別会みたいな機会が設けられた。用意された花を1本ずつ手渡して何か言わなければならなかったのだけど、何も思いつかないまま自分の番になって絞り出した言葉が「長生きしてください」だった。 仲良くもなんともない同級生のひとりが、フンと鼻で笑いやがったことを覚えている。
この先生もまた、私のなかでの〝55歳〟を象徴した人物のひとりだ。これまで教壇に立ち続けたこの先生も、来年度からは、盆栽と戯れながら余生を送るのだろうと心のなかに思い描いたはずだ。
一浪したあと実家を離れたときの父親が48歳。だったら、私が新卒で入った会社をやめたあたりの父親が55歳か…。父親は転職先で着々と出世していた。終身雇用というレールからドロップアウトした私が帰省したとき「なあオマエ、会社ってものはな…」みたいなお説教を何度か拝聴したが、父親は誰をやめさせた彼をクビにしたといったことをなかば面白げに喋っていたっけ。
内心腹を立てながら耳を貸していた。もちろん馬耳東風を心がけた。
社会から離れる節目。さもなくばうるさい会社役員として、顎で非正規雇用の社員をこき使っては「使えん」とほざいてみたりする特権を与えられる年齢。
それもまた55歳だ。当時の父親からも〝55歳〟を強く感じた。
あんなこんなを思い出してみるに、現在の私というのは…なんだかとんでもないほど無力で、しかも青くさいのだ。こんなはずではなかったのに。
最近出入りするようになった会社ではパワハラがあるかも…といまだ怯え、早々に顧客をつかまえ切れなかったことを根に持った職員に挨拶してもらえなかったりの洗礼を早々に浴びている。
明らかに年下のオマエは私の味方ではなかったのかい?
昭和と現在の明らかな違い。昭和であれば従業員は、年功序列で家族のように守ってもらえたはず。いまや雇用者は現場でトラブルがあったとき、これっぽちも守ってくれやしない。クレーマーと一緒になって謝れといわんばかりだ。
職場に対して「チームプレイ」をこれっぽちも期待できないって事態は、日本人の気質を考えれば明らかに経済成長面で致命傷だと思うのだ。そもそもメンタリティが西欧人とまったく異なるというのに、経済界のほうは西欧流ばかり取り入れようとしている。無理なんですってば。
いやあ…私はきっとステージがこれっぽちも上がらないまま死んでいくんだろうか…そういう思念がだんだん確信へと変わりつつある。
見た目と精神年齢が若すぎることの功罪 (罪)
これもしばしば書くのだけど、福山雅治さんが私と同い年だ。
あれほどに若々しい55歳って何なのだ。許せない(笑)。
かといって見た目こそ福山さんには敵わないが、おそらく世間では40歳半ばかせいぜい後半ぐらいに見られていると思う。
洗面台で正面顔ばかり見てそう思ってたら、先日乗ったエレベーターに備えられていたカメラでおせっかいにも頭頂部を見せつけられた。ちょっと薄いんじゃね…?
帰宅して家内にたしかめてもらったら、それはつむじだと。ほっとしたのも束の間で、やはり年相応かもねという一言があとから続いた。ああ、それってやっぱりちょい薄ってことなんだろ(泣)?
つづいて、自分の〝頭のなか〟に思いを馳せる(なんだか変な言い回しだが)。
相変わらずの偏食家で、海老とかイカなど魚介類が苦手(ただし、まぐろや鮭なんかは好物)。ムーディーな映画音楽とかジャズなどよりも、もっぱら昭和の歌謡曲ばかり聴いている。若い当時からアイドル歌謡が好き。さらにはデジ絵が好きだったり、撮り鉄が趣味だったり…趣向があまりにも〝お子さま〟すぎて震える。
ネット上に年齢をカミングアウトしなければならないというルールはない。40歳ぐらいだと詐称して棲むことだってできるし、やろうと思えば女性になりすますことだってできてしまう。ほんとは自称30歳ってふうに振る舞いたいぐらいだが、さすがにそれは図々しすぎるだろう。
そんなふうだから、ややこしいことにならないように、このnote上では最初から実年齢を公表して臨んでいる。誰も相手になんかしてくれないだろうなと思っていたら、これほどにもフォローしてくださって…心底救われている。ひとりひとりにお礼を言って回りたいぐらいだ。
見た目と精神年齢が若すぎることの功罪 (功)
ちょうどアラフィフとアラカンの間にいる。近いうちにきっと何も言わずに、私のクリエイターページの年齢をひとつ繰り上げると思う。もうそういう齢なんだ。
失なって困るものがなくなってきた — という意味ではいくぶんラクになった。
生まれつき変な特性を抱えているが、比較的カミングアウトしやすくなった。
私は人の顔がわからない。相貌失認っていうらしいのだけど、30歳をすぎるまで自覚が持てなかったためにしんどい思いをした。人の顔を見てゲシュタルト崩壊を起こしてしまう(ちなみに〝表情〟のほうは人一倍読み取る力が強い)。
誰々さんを社内に見つけて伝達しなければならない場面で、その人が本当にその人なのか確信が持てなくなる。あるいは、外出先で誰々さんに似た人を見たとき、挨拶しなくていいのかと葛藤を始めてしまったりする。意を決して挨拶したらひとちがいってことも何度もあった。無視してしまった形になって、あとから「あいつは挨拶すらできないやつだ」ってふうな嫌味を言われたことも数知れず。
喪服を着たときの家内が、本当に家内なのかわからなくなってしまった経験さえあるので、この症状がガチだということはわかっていただけるだろう。
やはりカミングアウトしづらい。十数年続いた職場ではひたすら隠しつづけた。
ただ最近は、必要だったらカミングアウトできる。とはいえ現状、実生活のほうでは指折り数えるぐらいしかいない。もちろん家内はこの特性のことは知っているし、挙動不審になってもそっとしておいてくれる。
これからどう生きようか
それにしても、なんで精神年齢がこれほどにお子ちゃまなのだろう。
この歳にしていまだ、何か大きなものから「試され続けている」のはなぜなんだろう。いい加減、私が何かわがままを言うことぐらい許してくれたってよさそうなものなのに、いろんな権力から叱られてばかりいるんだけど。
この年齢なんだから、できればわがままを言う側に回りたいものだが。
ただ思うに、現在の親世代(いまの7〜80歳代)も似たり寄ったりではないかと。かつての父親はあれほど「子供とワシは違うんだ!」ってふうな態度だったけれど、実は頭の中をかっぽじったなら私とそれほど変わらないのだろうな。私の知らないコンプレックスを持っていたり、私の知らない「世間との噛み合わせの悪さ」を感じていたり、なにより自分自身の衝動性みたいなものに困っているような感じは受けていたのだ。自分を守るために隠し通していたのかもしれないが、転職したときや車の運転が下手すぎて諦めたとき、ぼそっと「血筋だ…」って言ったのを私は聞き逃さなかった。
私自身の方向性は定まっていないが、たぶん現状のお子ちゃまみたいな精神のままもうしばらく生き続けるんだろうなと思う。最近は「スキルはあるけれど偏屈な老人」よりも「ポンコツだけど機嫌のいい老人」をめざしたいと思い始めている。スキルのほうはもうAIでどうにかしてくれ。私は私で、ときにはAIにこき使われたり、ときにはAIから「使えねえなこいつ」って言われながら生きていこうか。人に「使えねえ」と言われたら腹がたつけれど、AIに「使えねえ」と言われたところでノーダメージだ。なんならコンセントを抜いてやればいいのだ。
平均寿命は男性が81.05歳、女性が87.09歳だと。
そろそろ勘弁してくれないかって思うぐらいなのに…まだまだ先は長いなあ。
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