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青空文庫で杜子春を読んだ

もし芥川龍之介が市井のnoterだったなら……

きのう電車に乗っていて、ふと頭のなかで「自分の母親が老馬になって現れ、鞭打たれるのを見る一節のあった芥川の小説ってなんだったけ」ってふうになった。
これほどおぼろげな手がかりしかない質問でも、ネット検索はおそろしいほど簡単に答をくれる。そのことを嘆かわしくおっしゃる方もあろうけれど、図書館まで赴いて調べろというレベルだったら、そもそも調べてみようというモチベーションすら湧かなかったことだろう。ありがたい道具に対しては、ありがたく恩恵にさずかるにこしたことはない。

そうだ。それは「杜子春」(とししゅん)だった。
芥川龍之介(1892 - 1927)の著作は没後50年が経過しているから、著作権がすでに消滅している。ネット上に置かれた青空文庫で無料で読める。

「杜子春」は9000字ほどしかない短編小説。私の記事が毎回だいたい3000字程度(長くてすみません)だから、仮に芥川がnoteに作品を3話ぐらいに分けて連載投稿したとしても全然OKな長さ。HTML形式に編集されたファイルで読むとまさにnoteの記事でも読んでいるかのような快適さだ。つい夢中になって、芥川作品3編(杜子春、トロッコ、蜘蛛の糸)を一気に読んだ。

やはりブラウザ読みの悪癖がついてしまっていて、うかうかするとぼんやりと字面を目で追っているだけってふうになる。横書きには催眠効果がある(理系書物は数式が入ることがあるから横書き。たしかに読んでいて眠くなる)。少しばかりうとうとする。本当は縦書きで読んだほうがいいんだろうな。

日本語は本来、縦書きで読まれるべきものだ…といえば、きっと古い頭の持ち主だと言われてしまいそうだけど、ネットが普及するまで — つまり学生時代まではずっと縦書きで文芸作品を読んできた。

ただ、もう古いことなんて言わないほうがいいだろう。当時の書物ならおそらくオリジナルは文語かつ旧字体で書かれているはずけれど、そのあたりは口語の新字体で何ひとつ構うまい。海外の文章なら当たり前のように、和訳されたテクストを読んでいるわけでもあるからして。読書環境もずいぶん変わっている。

しばらく病みつきになりそうだ


時代背景が少しぐらい変わっても、我々の感情がめざましく発達したわけでも何でもない。どれほどAIが何かを手伝ってくれるようになったとしても、私の感情のほうは何ひとつ進化してはいない。もっと淡白なふうに進化?してくれたほうが、社会の歯車として生きやすいに違いないのだが、悲しいかな、そうなってくれる兆候はこれっぽちもない。生きづらい…。

これも精神の進化なのか退化なのか…モノアミン仮説と呼ばれるものの恩恵にさずかって、向精神薬によって情動へ人為的なブーストをかけたりカットをかけたりすることができるようにはなった。とはいえ、なぜか社会の中で生きる私の精神はますます不自由になりつつある。ますます居心地の悪くなっていく社会だが、薬にたよって社会の変化のスピードに合わせろってのも乱暴な話だと思う。憂鬱にいちばんよくないのが貧乏であることだ。貧困やルサンチマンへの治療とかはおそらく、薬ではなく政治の領分だと思う。

話が横道にそれてしまったが … 時代背景が変わっても、考えて何かを書いている日本人の精神自体には、時代をこえた普遍性を感じる。もし令和というこの時代に芥川が住んで、感じて、嘆いて、憂いたとしても … おそらく筆致も心性も驚くほどには変わらないような気がするのだ。
そうだ、きのうは坂口安吾(1906-55)の「青春論」にも目を通したのだけど…

今が自分の青春だというようなことを僕はまったく自覚した覚えがなくて過してしまった。いつの時が僕の青春であったか。どこにも区切りが見当らぬ。老成せざる者の愚行が青春のしるしだと言うならば、僕は今も尚なお青春、恐らく七十になっても青春ではないかと思い、こういう内省というものは決して気持のいいものではない。

坂口安吾「青春論」冒頭より引用

上に引用した「青春論」冒頭の嘆きってのは、まさに私が先日「55歳児」という記事の中で描いてみた心持ちとあながち似てなくもないなあ…そんなふうに思えてきて、小さな笑いがこみあげた。もちろん坂口安吾を私ごときと横並びにしてみたなんてのは、おこがましいも甚しいことではある。すみません。

何十年ぶりに読んだ「トロッコ」は沁みた


芥川の話に戻る。「蜘蛛の糸」はあまりにも有名な作品だが、実際に芥川によって描かれたはずの文章もあまりにも簡素だったことに驚いた。ためしにnoteのブラウザ版エディターに貼ってみた。

芥川龍之介「蜘蛛の糸」( https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html

ルビをふくめてたったの3042字!
私がふだん投稿する記事と同じか,ちょっと短いぐらいじゃないか!!

「トロッコ」はおそらく何十年かぶりに読んだはずだ。
無我夢中で乗ったトロッコなのに、土工たちは向う泊り。果てしなく長い線路づたいを帰る良平の不安。あるいは、土工たちのつれない態度(でも仕方ないのだが)への怒りか遣る瀬なさみたいなもの、あるいは良平自身の無邪気な浅はかさへの自己嫌悪…文章がこれほどに簡素でもいろんな想像が頭の中に渦巻く。

学生の頃は、こんなふうには読んでいなかったと思う。

最後に


これは面白い体験だった。いや、しばらくマイブームになるかもしれない。

ちなみにきのうは、PC上で青空文庫のXHTMLファイルをそのままメーラーに貼り付けて自分宛のメアドに送ったあと、それをスマホで読んだ。この方法だと満員電車の中でも読める。少しだけ面倒ではある。そのうちやり方は変えるかもしれないが、我ながらいいアイデアではないかと思っている(老眼なのでスマホのメーラーは大きな文字に拡大されるような設定にしている)。

私の人生のなかで、文学作品の鑑賞というものをだいぶ後回しにしてしまった。学生時代はなかば半強制されて読むものだったわけだが、時代背景さえ変換すれば精神性などは現代に通じるところも多々ある。とりわけ杜子春のようなキャラは現在でもいそうだ。藤原竜也さんあたりをキャスティングしてみたい(笑)。

さしづめいまどきの「杜子春」だったら…

「今この夕日の中に立つて、お前の影が地に映つたら、その頭に当る所を夜中に掘つて見るが好い。きつと車に一ぱいの黄金が埋まつてゐる筈だから。」

ではなくて、「今このスマホを手にとって、時計が夕方5時55分55秒を指したところでネットバンキングにアクセスしてみるがいい。きっと口座にいっぱいのお金が振り込まれてゐる筈だから」ってふうにでもなるんだろうか。

私も一瞬贅沢な暮らしをして、何度も溶かして、そのたびまた洛陽の門前に佇んでしまうんだろうけどな(失笑)。

それと、できれば振込人は「タカラクジ トウセンキン」とでもしておいてくれると助かる。所得税がかからないほうがありがたい。

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