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「下請け共創論」のイントロダクション

おはようございます。

批判されたくない気持ちと、誰かを傷つけたくない気持ちは
似ているようで異なります。

私は、ここ数年、慎ましさを盾にして、
おおっぴらに挑戦することをやめてしまっていましたが、
この人生誰に遠慮する必要があるのかと居直り
また進んで見ることにしました。

今日は、構想段階にある「下請け共創論」のイントロダクションを書いていきます。

どこを向いても、突き当たるヒエラルキーの壁。この世は八方ふさがりなのでしょうか。今回は、特に個人や小さな組織を主題にし、下請け共創の在り方を模索します。一緒に困りごとを分解してみましょう。


1:下請け共創論とは?

NPOの専従職員時代に、他のセクターとの協働が必ずしもフラットな関係の上で成り立たなかった経験から着想を得ています。

大手ベンダー、中間斡旋業者、そして下請けや「外注さん」の関係を、自分自身がきちんと学びたいということ。また、それにとどまらず、共創をする道はあるのか探ること。ここに私自身の関心があります。そこで、「下請け共創」という造語を見出しました。

下請け共創論は、完成した学問ではありません。コンセプトに興味を持ったり共感をしてくださったりする方と、対話やワークショップを繰り返しながら言語化を目指していきます。

下請け共創とは、請負関係にある発注者と受注者がいるとき、お金を払う発注者が常に優位な立場を維持するのではなく、受注者がイニシアチブを発揮する場面を探りつつ双方向の関係性を高めあいながら課題解決に取り組むことを指します。

この講座では、この下請け共創に関わる各要素について、対話を通して理解を深め、検討を図っていきます。 

下請けとは
請負の契約において、請け負った仕事の全部又は一部をさらに他の者が請け負うこと、又はその業者のこと。元請に対する対義語。
下請をさせる者を元請負人、下請をする者を下請負人といい、建設業・造船業では請負業者がその仕事の全部又は一部をさらに下請に出すことが一般的に行われている。
このような形態で作業が行われる場合、同じ場所で違う会社の労働者が混在して作業することにより労働災害が発生することが多い。
安全衛生マネジメント協会

2:ワークショップについて

①下請け十牛図

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ここでは、中国・宋代に書かれた禅書『十牛図』を、ABD(アクティブ・ブック・ダイアログ)を応用した手法による読解と対話を行います。

十牛図の「牛」は、牧牛=心牛。牛を探しに旅に出る、尋牛第一図は、自分探しの旅の始まりという解釈がなされます。

私は、ここに、さらに自己の職業観や、成し遂げたいものとその周辺を構成するステークホルダーとの関係性の解釈を見出すことができるのではないかと考えています。

以下、その他のアイデアについても随時更新していく予定です。

①下請け十牛図
②下請け営業史
③下請け価値言語化
④下請け協会構想
⑤下請けマイスタージンガー


3:YAMI大学よろめき歩き学部について

「下請け共創論」を深め、考えるためのワークショップは、YAMI大学よろめき歩き学部の活動に加えていただくことになりました。

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■よろめき歩き学部とは・・・

よろめき歩き学部では、秩序とカオスの間、力と愛の間、計画と創発の間、活用と深化の間、父性と母性の間、闇と光の間など、両極の間をよろめきながら歩いていき、統合していく方法を探求します。
どちらか一方を求めると、固定的な正しさが育ちます。同時には成り立たない矛盾を、時間軸で展開してよろめき歩いていくことで統合していきます。
YAMI大学学部紹介ページより

YAMI大学(闇大学)とは

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コロナ状況下で教育現場が、猛烈な勢いで変化している。もう誰も止めることはできない!この崩落瓦解する旧来型の教育システムの真っただ中、まさに過渡期に、YAMI大はカオスから生まれた。敗戦後に闇市が立ち上がるべく、生まれてきたのでYAMI大(闇大学)だ。
学校というフレームにどんな価値があったのか?教える人と教えられる人とが作りだす学びの時間と空間、それが大事なんじゃないか。教えたい者が教えたいことを教え、学びたい者が学びたいことを学ぶ。教える者と教えられる者は常に入れ替わればいい。
わからないことは教えあおう。知識はシェアしよう。競う必要もないし評価する基準もない。驚きと発見、そして笑いがあれば最高だ。成功も失敗もない。すべてが経験だ。息をするように学ぼう。世界が学校だ。
YAMI大学ウェブサイトより


おわりに

さかのぼって履歴を確認したところ、この記事の下書きを、私は2020年9月に書いていました。

そこから半年をかけて、ようやく今日の日を迎えられたという感覚があります。

しかし、なぜ当時、書いたものをそのまま公開することができなかったのか。私は何を恐れ、何から逃げていたのか。

結局、私は「途中」であることに慣れていないということに尽きるのです。

恥ずかしがっていたって、どっちにしても道半ば。

自分への戒めも込めて、本日、この記事を公開しておくことにしました。

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