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あなたの観察眼と実験脳はそのコミュニティで許容されるのか

おはようございます。

noteの下書きがどんどん増えていきます。

文章が最後まで仕上げられないのに、次の話題が出てきてしまって、ストップをかけることができません。

散漫な私ですが、やっと、このトピックに一区切りつけられそうで、以下、まとめてみることにしました。


1.実験をする人への私の最初の抗議

以前、東京都墨田区のファーマーズマーケットを主催していた松浦君に食ってかかったことがありました。

自分自身の生き方の選択自体が社会実験なのだ。そして彼がサポートをしたり関わっている方々に何が起こるのかというのも実験のようなものだ。

彼の話によると、彼は当時、いろいろなことを試しにやってみている、というメタ認知で、今の状況を楽しんでいるということでした。ですが、私はそれを聞いて怒りにも似た感情を覚えたのでした。

恐らく、私はずっと文系人間だったこともあり、「実験」という言葉を聞くと、自分がまな板の鯉になったような感覚を持ってしまったということが大前提にあります。

また、そのうえで、自分の知らないところで、自分が関わる環境が実験の場だとされることの恐怖も感じたことを伝えました。

彼は、すぐに私の心境を理解してくれました。お互いが理解しあえる言葉選びをしてくれる柔軟性のある方だったので、その後も永遠と続くおしゃべりが途切れることはありませんでした。


2.「実験をする人たち」との巡り合い

時は変わり、2019年10月。「与贈工房」のことを知り、恐る恐るやってみていたオンラインでの取り組みのことをもっと知りたいと、完全リモート組織での活動に本格的に足を踏み入れた時期でした。

そこで、またもや「これは僕たちの実験なんです」という方々に出会ってしまいました。またか、してやられた。私はいつの間にか実験台になってしまっていたのか、と。

モヤモヤしたまま過ごすことができず、声を上げたところ、きちんと私の主張を受け取ってもらって、ひと安心。ですが、ふとした疑問が浮かびました。果たして、私はこのままずっと鯉の役を演じ続けなければならないのでしょうか。

私は2020年、実験者の立場の面白さを味わい尽くしました。正確には、実践者であり、実験者という立場です。

組織、コミュニティが回っていく、そこに主体的に関わることはこれまでも嫌というほど実践していました。しかし、そこでの葛藤や不安、悩みなどは明け透けに語り合った経験は少なかったように思います。

今、私の環境は、いくつかの層に分かれていて、実践のフェーズ、認知のフェーズ、概念化のフェーズを行ったり来たりしているように思います。そこの行き来に手を差し伸べたり、背中を推したり、ドアを開いたりしてくれる同志に出会うことができました。

実験をするからには、総括をしなければなりません。「収穫祭」、といえば楽しそうです。とある方は、「成仏」という言葉を使いました。刺激が強いですが、素敵な言葉選びだと思います。

そして、これからも、私の実験は無理なく続いていきそうです。


3.観察眼を持ちながら、主体的に関わることはできるのか

私が「実験」という言葉に拒否反応を示していたのと同様に、「観察」という言葉にもモヤモヤすることに気づきました。

コーチエィの稲川さんの文章「誰が組織文化を創造するのか」を読んだときに、そのモヤモヤをようやく分解することができたように思います。

ここで重要なのは、「客観」です。客観する以上、主体的に関わることは永遠にできない、というのが私の現時点での理解です。

「学習する組織」のコンセプトを世界に広め、経営学に貢献したと言われるピーター・センゲは、著書である『出現する未来』の中で、組織文化研究の第一人者エドガー・シャインの「組織文化とリーダーシップ」に関する考え方を紹介しています。

「エドガー・シャインは、『組織の文化を理解したいなら、会議に出るに限る(※)』と主張する。誰が発言し、誰が発言していないのか、誰の話が聞かれ、誰の話が聞かれていないのか、どの話題が取り上げられたか、どれが無視されたり笑いものにされたりしているかは、その組織の実態を知るうえで有力な手がかりとなる」

つまり、日常の振る舞いとしてあたりまえのものになっている「文化」を知るには、自分の目や耳で実際に何が起こっているかを観察(客観視)することが大切だといいます。

何にでも使える、万能な観察方法というものはありません。観察対象に入り込んだ参与観察の方法は、結局のところ、観察者の得意とする分野や性格に依拠するとも聞きます。

コミュニティの一員が、そのコミュニティの組織文化を観察することは可能なのでしょうか。

私は、基本的にはNOだと考えます。それは、そのコミュニティを生かすメンバーとして、実践をしているから。コミュニティの主体として関わっているから。

ですが、YESと言える要素もあります。例えば、そのコミュニティに対し、新参者である場合。あるいは、対話や情報開示により視座が広がった場合。それか、そもそもその実験を巻き起こす種を撒いた張本人が、当時の仮説や起きたことの総括を、周囲と一緒に納めていく場合。


主体的に関わったうえで、観察することを選ぶ場合、必ずその研究の主観性を確かめる必要があると、私は考えます。主観性を確かめる方法、それは、開示とコミュニケーションです。


おわりに

私が「実験」や「観察」という言葉にモヤモヤするのは、自分の知らないところで対象になっているのが怖いから。

なぜ怖いかというと、私の動きや発言を観察した別の人間から、自分の意図しなかった説明や意味づけをされて、さらに第三者に広がってしまうことが考えられるから。

でも、それって、観察に限らず、日々の社会生活を過ごすうえで、又聞きやうわさ話といった類のコミュニケーションは多種多様にあるわけなので、ある限定的な情報収集に嫌悪感を抱き続けるのは、良い言葉ではありませんが、「容量の悪い人間」だけなのかもしれません。

社会構成やこれまでの経験の背景から、今の私の想いをつづってみました。

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