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不問語り「もう、日が暮れるぞ」

   一

中山道沿ひに、ひなにはまれなあか抜けた珈琲店がある。アンバー色の外壁が映える店構え、T町珈琲と云ふ横浜風な店名も活きてか、パンデミックのはざまながら人気ひとけが絶えることはない。

晩秋の北上尾、その日、ビートルズが流れる店内はまばらながら三々五々客が散って、一角に三十絡みの青年がひとり、ラップトップを操りながら入り口を気にする人待ち顔。程なく入り口に贔屓ひいき客らしい二人組、老人と介添の連れ合ひとおぼしき女性が入る。店員の何やら挨拶めいた言葉遣ひが聞こえる。青年は浮き腰に様子を伺ひ、それと気づいて立ち上がり待ち構える風情。

作務衣に素足、白髯しらひげ豊かに杖を友に歩いてくる姿はあたかも一幅の絵、控えめにも相当に異風な老爺らうやだ。その雰囲気に呑まれたか青年は、言葉少なにしなのみでやうやく初対面の挨拶を済ます。

「いやご無礼、初めまして、Yです。こちらはわが女房どの、これがおらぬことにはわしは身動きできぬ身です。儂はここの珈琲が好みでしてね。書きものがてらよく座り込みます。このたびは儂の書いた年齢カウンターの話、あれを読まれてお見えとか、いや何とも恐縮です。粋なご縁、ロートルにはとても有難い。若いかたついで話せる機会は稀有けうなもので、儂の運もいまだ絶えずと云ふことですかな。」

年齢カウンターの話とはYが自前のHPに書いたある記事のことで、自らの余命を秒針で刻ませる心境を綴ってゐる。それを読んだこの青年が、ぜひ会って話が聞きたいとて、この日の出会ひになった次第。

「あの話ね、あれはある時不図ふと『時』が緻密になってゆく感慨に浸ることがあってね、それを綴ったものです。時間が、かう益々緻密になって、容赦なく流れ去ってゐる。流れながれて、見る間に残りが減ってゆく、と、そんな気がしきりりにしたのです。・・・。

「さうさう、あれから思い直しましてね。count-upの積算時計もいいが残りの時間を意識するのも悪くない、と百歳で止まる逆算時計も付けたんですよ。あゝ、ご覧になりましたか。count-upと count-downの相乗効果です。背中に只ならぬ圧を感じる・・・。秒針の刻む音が倍に聞こえるんだな、かっかっとね。

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「歳が増えれば余命が減るのは道理で、それと知らぬではないのだが、それは感覚の世界、かう消え去る時間の足音がかすかに聞えるやうになると、これは肌身に響く実感、さう、じわっと不安感が押し寄せてくるのです。こりゃ只ごとじゃない、とね。

「老いるとはかう云ふことか、と、この頃頻りに思ふ、いや、じかに感じます。わしは今年八十七歳、数えでは八十八歳の米寿、充分年寄りだからあれこれゐらぬ事を見もししたりもする、年寄りの冷や水と云ふ、あれですよ。儂の同輩らも色々で、老いを悟って項垂うなだれるものも居れば、年の功をひけらかして虚勢を張るやからも居り、余命に頼んでいま一打ちの鞭を入れんとする元気ものも居る。若い連中はいい気なもんで、時を持て余し無茶をする無頓着も居れば、しきりに金を追いかける阿呆も居る中で、心もちはすでに老成して時の流れを測り、意識して過ごす頼もしいのも居る。ひと、様々さまざまです。

「・・・その傍らで時は坦々と流れます。

「行く水を止めるすべなどあらう筈もないが、残る十数年の余命を如何いかに過ごすか、などと儂など大真面目に考へ込むんですな。」

聞き入る青年は寡黙の極み、それをいいことに、映画「男はつらいよ」の寅のアリアさながらに、Yの不問とはず語りが弾む。

「ここで書き物をしてゐる時でも、そんな雑念にとらはれて、不図ふと、キーを打つ手が止まる時があるのです。じっと目を閉じる。八十半ばをぐんと過ぎてはゐるが幸ひ体調には少しの苦情もなく、もの書きや翻訳してゐる限り何の違和感もないのだが、この手の雑念に襲はれるや、気持ちがぷつんと切れるんですな。何時いつものことです。そんな時、閉じた目の裏側が紫色に染まり、目の芯がじんとうづく。机から手を引き、背もたれに沈む、妙な疲労感が広がる、時にはそのままうたたと眠り込むことがある。店の人は承知で放っておいてくれるがね。

「儂は二年そこそこで卒寿そつじゅ、若い人はご存知あるまいが九十歳を昔はかう言った。ご覧のやうなタゴール紛ひの白髯で、四六時中作務衣で居ますから異形いぎょうの老爺だと見られて居るのは承知。仕事はね、まあ翻訳ともの書きを互ひ違ひにやってます。外国公館では外務筋の仕事で英語は日常語でしたから、引退後はそれが活きてメシの種になり、言葉関連の頼まれ仕事が引きもきらず、とくに英語への翻訳では、手前味噌だが知る人ぞ知る手練てだれと言はれる、いや、ここだけの話ですが・・・。そもそも言葉を愉しむたちだから、日本語での書き下ろしもよどみなく、ネットでは女房どのの手助けでHPを組み上げて貰ひ、気儘に自分風な書きものをこまめに載せるのが愉しみです。世の中は狭いもので、儂の筆致を好む粋人すいじんが居って、烏滸おこがましいが、数人に文章書きを指南してます。英語の綴り方なども手解てほどきしてゐるのだから、人の世は持ちつ持たれつ、人様にもの書きの指南をしながらこっちの為にもなると云ふ、何とも粋なものです。

「常々思ふのだが、書いたり訳したりで残り少なの余生を送れれば申し分無い。余命は十数年、これを言の葉絡みの仕事を坦々とこなしながら生きおおせれば、これは云ふ事が無い。先が限られてゐるから、どことなく強迫感はある。あるにはあるが、ママよ、それを逆手さかてにとってやらうと、HPに逆算時計を張り込んだのです。そいつに背中を押させてね、百歳を目途もくとにし遂げる仕事をこなさうと、余命の活用を企んでゐる次第です。

「し遂げる仕事として、兼ねてからモンテーニュを気取り心覚えを書き重ねてゐます。時の流れが老いの身にはきつ過ぎるとこぼしながら、要らぬ音が聞こえぬ深夜こそが書き時とばかり、夜行のふくらふとなって家人の心痛は何処どこ吹く風、夜光虫の生き様を貫いてゐると云ふわけです。女房どのがこぼすこと!それでも一向に飽きる気配がないから妙です。

「儂がしきりに言ひつのることがあるのです。曰く、昨今さっこん日本にほころびが見える、哀れ、日本語が見る影もなく劣化してゐる、とね。老人の繰言くりごととも思へぬ勢ひでさう言ひ募る、俺は百まで生きるつもり、やっておきたいことが山ほどある、時間が惜しい、とね。自分でも思ふんだが、はた迷惑な話ですね、この手の一概いちがいな語りは・・・。

「儂がなぜこう言葉にうるさいか、儂の子供の頃のこと、詰まらん昔話だが暫く聞いてくださらんか。」

   二

BGMが替はってイエスタディ、穏やかなフォックストロットが流れる店内は、気無しか華やいで見える。隅の長めのソファーに余所よそ行き風の女性が四人よったり、女子会らしき雰囲気で連なってゐる。

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やおらYは、生い立ちを語り始める。

「儂が生まれたのは昭和十年、まだ市と言われていた東京の蒲田、六郷川に程近い、川向こうに川崎大師を望む辺りだった。出雲小学校、いや、時流でドイツのフォルクス何やらの翻案でせう、出雲国民学校と呼ばれてゐた学校に入学、学童疎開で母の里の桶川に転居するまでの三年間そこで学んだのです。戦時中ですから、男性は兵役へいえきや軍属に取られて女性の代用教員が多く、最後の三学年の担当は広島出身のH先生だった。そばかすだらけで化粧っ気のない、何ごともはきはきさばくH先生の元気な立ち居振る舞ひが、儂はとても好きだった。

「疎開で埼玉へ引っ越す前日、儂を教員室に呼んで、「嗚呼あゝ、山本元帥げんすい」と云ふ黄色い表紙の本を儂に授け、元帥の仇を撃ってくださいと、H先生は儂を抱きしめたのです。山本元帥とは連合艦隊司令長官で、ブーゲンビルで不慮に戦死され、特進されて元帥として国葬が営まれたばかりの山本五十六いそろく大将のことです。空中で待ち伏せ攻撃されて亡くなられた悔しさが、子供たちには心臓をえぐられるほど辛かったのを覚えてゐます。

「元帥の仇を撃ってと儂を励ましてくれたH先生はすこぶる付きの愛国者で、先生の思ひが乗り移ったか、儂は幼年学校狙ひを誓って胸を張ったものです。儂の身体中を撫でさすりながら、しきりにうなずいてゐたH先生の様子が、八十年も経った今も忘れられない。

「H先生のその後を儂は知らない。怖くて知りたくないまま年月が過ぎたと云ふのが本当です。先生の里は広島だから、里へ戻ったに違ひなからう....ひょっとして、恐らくは、とね。調べれば分かるんだらうが、確かめるのが怖くてね、今まで知らぬままに居ます。先生については時計が、抱きしめられたあの時のまま、止まってゐます。

「H先生は儂の綴り方をいつも褒めてくれました。昔の国語には綴り方と云ふ単元があってね。読本とくほんを読む技能に加えて、原稿用紙のますに文字を書き入れる綴り方と云ふのがあって、今なら作文と云ふのかな、出来事や思ふことを綴る単元なのだが、儂はこれが得意だった。

「しばしば褒められて、教室でも何回かに一回は儂の綴り方を取り上げて、かう書いたところがとてもいいなどと、書き方の材料にもしてくれたものです。H先生のおだてのもっこ・・・に乗って、儂は嬉々として綴り方に励んだ。言葉を紡ぐ楽しさを知らず知らずに覚えたものです。」

   三

クラス文集の話が面白い。Yの学級はみんなの綴り方を集めて文集を作ることになり、Yを入れて三人が担当に選ばれた。作業は順調に進み、何の波風も立たなかったが、文集のタイトルをどうするかで大波が立った。他の二人は穏やかな、文集らしい文字に拘り、少国民を自認するYは時局柄『撃ちてし止まむ』に限ると譲らない。これには二人が猛反対して正面衝突になった。三人は職員室へ、H先生の判断を仰ぐつもりだ。気色けしきばむ三人を前にじっと考えておられたが、やおら、先生はかう言われた。

「いまお国は戦争の真っ只中です。子供たちとて国民です。ここは撃ちてし止まむで決まりでせう。」

さもありなんとYは胸を張り、二人の学友は悄然と首を項垂うなだれた。

Yはぽつんと言った。

「あの二人、H君とO君のその後は一切知りません。H君はわが家の近所の町工場の息子で、工場の門に大きな虎の絵が描かれてあった。お河童頭のO君は、腺病質で繊細な感じで、撃ちてし止まむと云ふ言葉に目をしかめて強くこだわった様子がいまは懐かしい。」

国民学校時代の思ひ出が、さらに続く。

「綴りが上手ければ読みもさうなるもので、儂は読み方も得意だった。どんな企画だったのか思ひ出せませんが、ある日、校長先生や先生方の居並ぶ朝礼の壇上で、儂はひとり、全生徒を前に読み方を披露することになったのです。H先生は何時になく大真面目に、君ひとり選ばれたんだからしっかりして、と励ますのです。それを知った父は、その日は仕事をズル休みして校庭の隅で待ち構えてゐた、とは後日に知れたことです。

「子供だから、怖さより誇らしさが優ったのでせう、儂はH先生に言わせれば又となく立派に読み通し終えた。儂はその時読んだ『僕の望遠鏡』と云ふ話を今でも、一字一句漏らさず覚えてゐます。」

Yの蔵書には、この話の載った読本の復刻版がある。不問語りは、さらにYの高校時代に及ぶ。

   四

「こんなこともあった。儂の言葉感覚を方向付けたことで、これも儂には忘れられない出来事です。母の里の桶川に疎開してゐた儂は、そこでざいの加納中学を済ませ、浦和高校へ進学した。この高校は佐藤紅緑こうろくの『あゝ玉杯に花うけて』の舞台でサッカーが強く、全科にレベルの高い学校で、儂が己れの人生の座標を敷いた場です。さう、サッカーでは儂の在学中にインターハイで連続優勝してゐます。

「通称サンマのA先生は国語の教師、儂はこの先生に並々ならぬ思ひ出がある。何のご縁があるでもなく、殊更に人前で取り上げるほどの汎性もあるまいに、儂の書きものをクラス一同に披露された先生の真意と云ふか、どんな心算こころづもりだったのかが今も分からぬまま、儂は身勝手に胸膨らむ思ひがしたものです。米寿の儂がいまでもさう思ってゐるのだから、あながち身勝手でもなかったかも知れない。

「あれは奈良京都をめぐる修学旅行後の授業だったから、卒業も間近な頃だった。課題として提出していた旅の紀行文が、その日の授業で採点され講評を受けることになってゐたのです。いちいち点呼して戻しながら、サンマは作品ごとにひと言を加え、大方はまあこんなもんだらうと云ふ意味の戯言ざれごとを交えて講評を進める。なかなか上手くは書けぬものだと慰めもし、眺めれば佳い景色でも書き様で詰まらんものよ、とけなしながらね。

「儂には、この旅では京都よりも吉野が印象的だったのを覚えてゐます。後醍醐のいにしえに包まれて、南北の軋轢あつれきを肌で感じた豊かな時間だった。それをたくまず綴った文章を紀行文に仕立てたのだったが、待てども戻らない。順番ならそろそろだと思ふのだが、とうとう最後の分になっても儂の名は呼ばれず終い。だとすると、とその時気づいた。最後のは俺の奴に違いない。最後に残したとは、何とも気になる・・・。

「最後の一片をかざしながら、サンマはここに一作まともなのがある、と言った。吉野の話だが乙だ、と。なかなかかうは書けない、序破急が上手くはまってゐる、たまたま運よく書けたのかも知れぬが、始終かう書けるなら爪の先ほどながら才がある。儂の作文をクラスに読み聞かせたあと、先生はオチをつけた。『だがね、最後にくっつけたこの和歌は腰折れそのもの、いただけない、こりゃ駄目だ』。そう言って、サンマは儂に向かってぴょこっと頷いて原稿を渡したのです。忘れられぬ一瞬でしたね、あれは。気恥づかしさと誇らしさが綯交ないまぜになった感覚で、周りの目が矢鱈に気になったのを覚えてゐます。和歌をけなされたのが救ひだったが、どうもあれはサンマの演出だったに違ひない。

「サンマならぬA先生のあの時の講評が、儂の言の葉観のルーツです。あれが蒔かれた種で、あれから儂の言葉を操る感覚が芽吹いたと思ふ。幼かった頃の朝礼での話もあるにはあるが、矢張りなかなか乙だと言はれたA先生の一言が効いてゐるやうです。

「あれやこれやで、儂は言葉遣ひに敏感に育った。長じてはさらに感度が上がり、仕事柄から英語に達者になると、ともに使ひ回す日本語の表現力の豊かさに気づくやうになりました。何せ実体験ですからね。通訳や文字翻訳でそれが分かる。言葉に難易をつけるのは如何とは思ふが、敢えて言へば英語はやさしく日本語は難しい。文系の、それも感性の緻密な書きものの翻訳となると、表現力だけでその差は大きい。」

   五

Yのアリアがふっと途絶えた。語り疲れた風情で珈琲に手を伸ばす。ほぼからだ。残りをすすり込みウエイトレスを呼ぶ。この店の「濃味こくみコーヒー」はYの好みだ。周辺に二、三軒ある喫茶店でここが贔屓ひいき、煎り加減がいいのだらう苦味が乙で、彼は道順さえ合へばここに来てこの珈琲を注文する。

新しいカップが届く、女房どのが手際よく糖分を塩梅する。摂り過ぎを心配する思ひやり、甘党のYはその辺を承知して有無も云わぬ。

一口啜って、Yは日本語の味に苦労した話をひとつ聞いて頂かうかな、とカートから一冊の古びた本を取り出して見せた。

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「ご存じではなからうね、この本。『台湾 苦悶するその歴史』。著書の王育徳は台湾人ですが、日本統治時代に台北高校をえられた彼は、何の不自由なくこれを日本語で書かれた。それも大正時代の真面まともな格調高い日本語ですよ。前書きの最初の段落はかう綴ってゐます。」

Yはその部分を開いて、感慨深げに読む。

「『わたしは、やむにやまれぬ気持ちからこの本を書いた。この本はわが同胞一千万の台湾人が、いかなる過去を背負ひ、現在いかなる境遇にあり、将来どこに活路を見出すべきかを探究したい一念で筆をとったものである。』

「著者は既に身罷みまかっておられるがご家族はご健在で、儂は良く存じ上げてゐます。ご令嬢がこの本をいたいとおしみ、中文版はうに出されて手広く読まれ、久しく英語版の出版を目論みながら実現せず、何と四十年もの時が流れました。

「それが辛い、とご令嬢が儂に相談に来られたのが発端で、儂はこの本の英訳を請け合ったのです。台湾独立派の連中と親しかった儂は、それまでも運動の支へに書きものの翻訳を手伝って居ったのです。その辺りの経験を頼んでの委嘱と承知して請け合ったのですが、これが魔の三年・・・・の発端でした。己れの翻訳力が真っ向から問われる思ひがした。とくに、これが儂の和英翻訳の資質を測る試金石にもなったのです。

「始めるや、四十年も手古摺てこずった理由わけが即座に判った。日本語が違ふ。よき昔の日本語の表現力を駆使した名調子、翻訳者泣かせの言葉遣ひが溢れてゐる。流石剛直ごうちょくの儂も目の色を変へて取組んだのです。話が長くなるから端折はしょりますが、かうして出来上がった英語版の「苦悶」はいま英語圏でむさぼるように読まれてゐます。動きの激しい台湾情勢の近況を盛り込んだ増補版がこの程出されました。これがそれです」

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Yは真新しい英書を青年の前に置いた。Taiwan: A History of Agonies Revised and Enlarged Edition とある。

「この一件でお話ししたいことは、改めて悟る日本語の妙味のこと、まあ表現力の深さなのですが、引き締まった言葉遣ひで内容を紡ぐ機能は日本語の真髄しんずいです。「苦悶」の場合は、儂の内容への入れ込みや愛着から左程の苦にはならなかったのだが、今風の日本語で仕事をしている並みの翻訳者にしてみれば、これほどった日本語はまさに鬼門。何故四十年も英訳が放置されてゐたのか、裏事情がよく見えます。英訳にえらい苦労はしたが、四十年越しの英訳に生まれ変わって「苦悶」もさぞや本望、亡き著者とご家族、それに試練を耐えてゐる台湾の人々の心に沿えたことは、儂の秘かな満足です。」

この本の翻訳で余程の辛苦しんくを舐めたのだらう、Yはその反動でか昨今の日本語の有り様について、かう付け加える。

「近頃の日本語は、儂の目には大いに緩んでゐるやうに見える。「苦悶」の日本語は精緻だがいまや化石、現代の日本語は精緻を追ふよりは明快を求め、難解な語彙をあさる労をいとってカナカナ化で逃げる。当然の結果として和訳文にカタカナが溢れ、意味不詳のままの横文字が横行する。読者こそいいつらの皮だ。後でお話しすることになろうが、日本語そのものが良くて変質、悪く言えば劣化してゐる最中さなか、原文の英語が内容的に優れてゐればゐる程、緩い日本語による劣悪翻訳が増える事になる。いや、これは悲しき現実です。」

Yの面相が心なしか険しい。日本語の乱れに触れるときは語気が鋭く、同業の仕事ぶりを語る風情、言葉を選ぶ様子が痛々しい。

「日本語と英語を操る翻訳者は、前提として日本語に相当通じてゐることが必須です。その上に英語の背景に広がる文化を俯瞰ふかんする理解力なしには、翻訳などそもそも成り立たない仕事です。例へば、木枯らし、日暮らし、木漏こもれ日など描写力の高い表現は英語にないことを承知した上で、それが英語圏で如何に把握され表現されてゐるかと云ふ、さう、生活文化的な認識が必要になる。木枯らしはヴァーモントでも吹くに違ひない。日本では木を枯らすようなと捉える同じ風を彼地ひちではどう言ひ表すか、地元の人にその風が吹いてゐる最中さなかに何と云ふ風かと尋ねたらどうか。運よくなになに風だと答へてくれればよし、さあてと首を傾げられるやも知れぬ。生活文化的な智慧と言はうか知識と言はうか、そのレベルの蘊蓄うんちくを傾けて初めて佳き翻訳と呼べると云ふもの、儂はさう思ふ。

「ただ、現実を見ればそんな話は空論でね。現代の日本語では木枯らしはともかく木漏れ日は、ほぼ死語になってゐる。知ってはゐても、そんな小粋な言葉を使ふ文脈が失せてゐる。翻訳原稿に出てくる気遣ひは先ずない、ないから翻訳者の懸念もない。直線的な英語表現に合わせた単純明快な日本語が流行り、さしもの表現力が活きる場が消えたのです。」

自分の語りに背後からどやされるかの様に、Yの言葉のテンションが上がる。

「儂がこの問題に異様に反応するには理由わけがあるのです。本業の翻訳に本腰を入れるやうになって気づいたことだが、どうやら日本語は英語ににじり寄ることで劣化してゐる。曖昧模糊あいまいもこにして融通無碍ゆうづうむげの日本語の表現力は広く深い。あなたもお分かりでせうが、日本語は英語なんぞに比べれば表現のひだが多く精緻、そのくせ鷹揚おうようで使ひ勝手がいい。決め事が少なく、犬猫の話をしても何匹ゐるかなど意に介さない。

「英語はそこのところが違う。うやむやはならぬ、とくる。理路は整然たらねばならぬ、とくる。上手く言ひくるめて表現する日本語の語感を捨てて、こともあらうに敵の語彙をカタカナに直して、時に短縮してまで使う為体ていたらくだ。含蓄のある日本語に訳出すべき訳者が、軽い日本語に慣れた読者に迎合してその努力を怠り、年を追って日本語の劣化が進むと云ふ負のサイクル、これが回る回る。いや、嘆かはしい限りです。

「日本語の劣化の話、さう思はんですか。カタカナでも、グリコやシロップならそれしきゃない感があるが、コミットメントやアイデンティティーなどとなると違和感どころか、儂など鼻白みさえする。コミットするなどと動詞化して日本語として市民権を与へるなどは笑止千万。さう、アイデンティティーを苦し紛れに自己同一性などと漠とした漢語にするなども愚の骨頂、儂ならすっきり素性とする。日本語の表現力の深さです。

「その深さを探ることなく安易に走る。いま胡散臭いSDGsやAYA世代って奴が原語のまま横行してゐるでせう。子供たちにまでこのまま押し付けてゐる。sustainable development goals:絶え間ない開発目標がそれほど大切な一件なら、しっかり日本語化したらいい。AYA世代もそうだ。adolescent and young adults とか、これなんぞ下世話に言えば色気づいた半大人のこと、まさかさうは言えまいから、そこは叡智を尽くして当たり障りのない言葉を織り出せばいい。」

   六

青年に合図して、Yはトイレに立つ。久し振りのアリアでやや疲れ気味か、立ち上がる様子によいしょ感がある。青年がY夫人にご主人はいつもああですか、と。普段はむしろ寡黙だが気が乗ると羽目を外す、今日は余程その気です、とY夫人。アメリカではトイレはレストルーム、つまり休息場だ。気なしか英気を取り戻したか、Yは戻るや、きさくな口調で云った。

「わが家ではね、女房どのの智慧で毎朝ラヂオ体操をするんだが、ここでトレーナーが疲労を蓄積・・・・・しないやうにと声を掛ける。そのたびに儂は、おいおい疲れを溜めないやうにと何故言わぬ、と茶々を入れるのが常です。大和言葉の妙ですな。いや、これはご愛嬌。

「言葉が乱れるときは文化が疲弊ひへいする、言葉と文化が萎えれば国が滅びるとか。儂の幼い頃の語り言葉は、何ともゆかしかった。物柔らかな、角の取れた日本語が日々の生活に染み通ってゐました。女性がたの日本語にそれが如実で、昨日今日の女性方の言葉遣ひを見聞きするに、儂は隔世の感を覚えます。野郎どもの不埒ふらちはいつの世でも五十歩百歩、言葉遣ひも程々下卑げびてゐるものだから今日でも然程さほどの違和感は覚えないが、女性がたは違ふ。年齢を問わず、昨今女性方の言葉遣ひが荒っぽくなった。多様の平等のと唱えれば唱えよ、いつの世も女子おなごの言葉は優しくあれかし、と強く叫びたい。

「つい先日、NHKの新日本紀行とか云ふ番組で、半世紀前の京都大原の様子を写してゐたが、そこで言葉を交わす大原女おはらめたちの床しい日本語を聞きました。口惜しいがあれは今は昔の話、もう聞かれません。

「日本語には『引く言葉』と云ふ側面があり、それが丁寧や謙譲や遠慮の世界で、ある独自な修辞や語彙に生きてゐた。へりくだるやお口汚しなどは今ほぼ消滅して、耳そば立てても聞けない。最早話されてゐないのだから、聞ける筈がない。自己主張にこそ美学があるとて、言葉遣ひにも我もわれもの風潮が蔓延はびこり、もう止めやうがない。野卑な言辞げんじが市民権を得て何でもありの風情、これはじつに悲しい。」

何か思ひ出した風情で、Yはかう続けた。

「さうだ、是非お話ししたいことがある。言葉にこだわる儂に聞かせたいと、女房どのが持ち込んだある録音、Kという碩学せきがくの語りだと云ふ。その内容がここまでの儂の話にかぶってゐるので、ご紹介しませう。

「Kは文学者で、ドイツ文学から比較文学、比較文化、思想史にまで一家言いっかげんもつ碩学で、儂の二歳年上、旧仮名遣ひでものを書くことで知られ、彼の娘御の学術論文の翻訳をお手伝いした思わぬ縁がある。Kいはく、大東亜戦争に敗れた日本は、国の髄たる「魂」を失った、日本人は佳き言葉を忘れ佳き文化を失ひ、国は滅びの道を直走ひたはしった、と。かつて日本人は美しい言葉を操り、日本は世に冠たる文化を築いてゐた。いまや日本は自律の機能を欠き、瘋癲ふうてんさながらに迷ひ、人々は怪しげな言葉を吐き散らし世は荒れ果ててゐる。Kさらに曰く、だがしかし、もし再び美しい言葉が戻れば、美しい文化も戻って日本は見事に蘇ること覿面てきめんだらうに、と。快哉かいさい、この先生、儂の言ひたいことをずばり言ひ当ててゐるではないか。

「Kの話は、さらに東京裁判やマッカーサー語録に移って現代史の襞を語り込むのだが、儂はKが言葉と文化と国の相関状況について語るのを聞きながらね、何時いつかな、ひとつの思ひが発酵するのを感じたのです。やがて、そこから一編のシナリオが綴り出される。佳き言葉が佳き文化を育み、それが佳き国を産むとは言ひ得て妙、ならば、儂とてわが余命を投じて、どうだ、言葉の洗濯に一臂いっぴを貸さうじゃないか、とね。同年輩の時代意識もあってか、日本文化かくあれかしと願ふKの思ひが、かう、豊かな質感で儂の感性にじんと沁みたのですな。

   七

「その話を聴いてから、儂はすぐにHPにアクセスして例の逆算時計をじっと眺めました。十三年と十八日とあり、秒針が坦々と刻んでゐる。百歳まで残り十三年と十八日あるぞ、と。亥年だからとて老いては猛進はできぬまでも、猪突はせねば気が済まぬ。

逆算時計2

「先ずは、叶ふことなら、この十三年と十八日にし遂げたい仕事がある。兼好張りに徒然つれづれるのもいい、モンテーニュの向こうを張って、小粋こいきな随想集なども悪くなからう。英訳古典落語も数巻はまとめたいものだ、飯が食へぬからと泣きなき絶った音楽の道にも、ここにわれありの足跡をかすかなりとも残せぬものか。いざ百歳に近づけば、思ふに任せぬ時間もあらうから多くは望めまいが、『この程度は消化し切れるか』と自問するのです。するとね、『おゝ仕切れるとも』と自答するもう一人の自分が居る、いや、気恥づかしいが己れを健気けなげで愛しいと思ふ。

「お仕着せの時間表任せだった幼い頃の学校生活をなぞって、今は勝手気儘な時間割を構えての梟生活です。これは自主自制がかなめの生きざま、思へば老いとは因果なもの、五、六十頃にはこれほど切羽詰まった時間意識はなかったな。こちこちと秒針に追われるやうな感覚はなかった。時間に今昔こんじゃくがあるわけもなし、これはすべて感覚のなせる技だなと、この歳になってやうやく気づいてゐます。」

百歳までの十数年にこれだけは、とあれこれと心算こころづもりを語り、だが時間が容赦無く流れるんだと言ふなり、Yは両手を頭の後ろに組んで天井の一点を見詰める。やおら、ひと言。

「日本文化かくあれかしと云ふKの語り、あれはいい所を衝いている。文化はでか・・過ぎるが言葉なら考えられるな。ほころびている日本語を繕う仕事なら出来るかも知れない・・・。」

時ならぬ不問語りを引き金に、時間と勝負の最中さなか、Yは敢えて新たに課題を背負い込んだやうだ。佳き日本語の普及と云ふ途方もない課題、前述の数多あまたの仕事を抱へてのことだから、これに真面まともに向き合っては、なけなしの時間が削られる・・・。

Yが不意に膝を叩く。

「さうだ、わがHPに『英語講釈』があるじゃないか。さらに、noteに加わって立ち上げたコラム『言の葉たん』もある。チャンネルが既に二つもある。この二つを機動的に動かせば、遅々ではあらうが成果が期待できるはずだ・・・。

「時が濃いの流れて消えるのと、御託ごたくを並べる時間などない。あなたに聞いて貰った不問語りからひとつ荷物を背負い込んだやうだ。この荷物、えらく重いが背負い甲斐のある重さです。英語と日本語を絡ませる仕事を半世紀以上も生業にしながら、言の葉の世界を東西に逍遙して老いたいま、つとに日本語の深淵に気付いた。この言葉、時代の蹂躙じうりんに任せてはならない、とね。

「日本語の繕ひもいいが英語もさうだ。、和英の作業で近頃よく思ひ付くのだが、日本語風な表現を英語に編み込めないか、とね。素っ気ない英文に日本語のつやを織り込めれば云ふことないな、とね。素っ気ない英語の本が和訳されて活きいきとするなどは大いに愉快、破天荒とは思ふがどうだらうか・・・」

日本語風の英語云々、英語に日本語の艶を云々と、Yの言の葉談義が放談めく気配に、Y夫人が目顔でYをいましめる。さしもの不問語りは大団円となる。

Yは寡黙の青年をいたわり、長時間にわたる不問語りに滲み出たやも知れぬ老いの一徹を詫びる。恐縮した青年は、近頃稀有けうな言の葉話に接した幸運を謝し、深々と頭を下げる。遥かレジカウンターの辺り、馴染みのウエイトレスがその様子を垣間かいま見たか、好感の仕草を見せて微笑んだ。青年は辞去した。

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BGMがゲットバックからレット・イット・ビーに移る。「マリアは来てはくれまいがな」とひと言、Yは背もたれに深々と沈み込んで瞑目、常ながらのT町珈琲の時間が流れる。

When I find myself in times of trouble, Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom, let it be
And in my hour of darkness she is standing right in front of me
Speaking words of wisdom, let it be
                   ♪
(了)

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