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信仰の仕事の話

 確定申告から逃げているつもりはないが、興味関心のおもむくまま、霊能者と呼ばれる人々に連絡をとり話を聞いている。いわゆる「本物」は稀である。それでも運よく、そういう人々から話をきく機会がある。

 ライターの取材でもあり、研究関心でもあり、ぼくの信仰や使命に関することでもある。そう、ぼくの信仰の仕事の話だ。

 今晩もニコニコ動画を友人らと眺めていた。飛ぶ鳥を落とす勢いだった「ニコニコ」も今や焼き鳥になるまであと少し。サービス終了まではいかないが、かつての権勢はない。ぼく個人としては、あのサービスが好きなので、今後もずっとプレミアム会員であり続けるつもりだし、可能ならサービスが終わるまで付き合うつもりだ。

 そんなわけで、今晩もネット動画を漁りながら中国の福音派について検索していた。そして「中国の獄中で殉教したある伝道者の詩」を思い出した。記憶では20年以上前に一部で流行ったCCM(現代讃美歌)である。

 そこからの連想で、もはや疎遠としか表現できない、かつての友人知人らを思い出して検索してみた。みな仕事をし親となり家庭を成している。何人かは牧師を続けているらしい。とくに郷愁は感じない。健やかに恙なくやっているのなら、それでいい。二十数年前のぼくは初めての大都市圏に気圧されたナイーヴで未熟な田舎の青年だった。だから彼らには随分と迷惑をかけたと思う。もちろん時間を経たからといって熟達した老獪な大人になったわけでもない。ただ二十年という戻らない時空間、その距離を思った。

 距離の理由は何か。それがぼくの信仰の仕事に関わっている。何しろ、ぼく自身にも全く分からなかった。だから他人には判るわけがなかった。不惑を過ぎる前後まで判明しなかったのだから仕方がない。だから揺籃となってくれた地元や関西の教会関係者には申し訳ないなと思っている。とはいえ、すべては終わりまで隠されている。その日が来れば納得がやってくる。それでよい。

 ただ深夜のノリで少し書きたい。ぼくの信仰の仕事は「日本語キリスト教」の実験である。日本語とアブラハムの宗教が接触する場所での地平融合を可能な限り観測し、その過程を検証し記録する。最果ての果ての崖っぷちで太平洋から萌え出だち煙る、新たなキリスト教の普遍性――その水平線をスケッチすること、それがぼくの仕事なのだ。そうすることでぼくは神様の仕事をする。沖縄のことばでいう、ぼくなりの「かみごと」、それは教会の外で、キリストの内に、キリストと共になされる仕事である。

 自分を殉教者になぞらえるなんて大それたことは思わない。ただ、ぼくは与えられたものを与えられた通りに活かし行い、生きるしかないのだ。終わりの日、万物が達成されて復興する日、すべての聖徒らの背後で、ぼくが全被造物とともに「よくやった、良い忠実なしもべよ」という声を聞くその日まで。

 一人で夕暮れの浜辺に立つ。誰もいないように見えても、そこには海棲生物もあれば樹々もある。虫や動物が蠢いて、過去にそこにいた人の記憶の陰も風に揺らめいている。人も虫も珊瑚のように硬い地形となって、幾星霜のすでにといまだの間を通り過ぎて、やがて八日目の夕があり朝が来る。気がつけば砂浜には、あの御方が立っているだろう。

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