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教会で躓いたあとに

 今朝、夕食で残ったサルサを食パンにのせて噛りながら、ふと気づいた。あ、そうか。教会で行き詰まったから、教会の「外に」ぼくは神の恵みを見出してきたのか…。

 「神の民」と呼ばれる人々の中で行き詰まる。当然、目は外に向き、教会の外なる「世」に恩恵を見出してしまう。世の富を拒否したイエスに比して、果たして、それは罪になるだろうか。

 たしかに、ぼくは「教会に躓いた」。なぜなら、ぼくは神を疑ったことがないからだ。多かれ少なかれ、プロテスタント教会は、個々人が信じるための共同体である。

 神は、神の、神に、神を…と、「教会」は神について悩み、煩悶し嗚咽する人々のための場所である。または悩みをポジティブに反転させて、神について語り、歌い騒ぎたい人々のための場だ。どちらも「神を信じ続けるため、敢えて行う当為」だろう。

 ぼくは気がつけば神を信じており、その後、神を疑ったことがないから、振り返ってみると、じつは当為を重ねる「教会」に向いていなかった。

 「献身する」ことについても、ぼくのイメージが乏しいせいか、いわゆる教役者になることしか想像できなかった。だから齟齬を起こし、教会で躓いた。

 結果どうなるか。教会の外に恩恵を見出すようになった。教会の外、すなわち「世」である。しかし「世」とは、神の民たる教会の敵ではないのか。

 ところが、ぼくは説教準備の中で、断罪滅却すべき神の民の敵から、恵みの声が聞こえていることを知った。ダニエルに対して、異教帝国の宦官から「神の契約的恩恵(ヘセド)」がもたらされていた。

 キリストの名、神の固有名詞は隠されている。しかし、そこに恩恵(ヘセド)がある。すなわち、神の名を掲げているから恩恵や善があるのではない。恩恵と善が吹き出しているところに、キリストは秘匿されている。

 本来ならばもっとも尊ばれるべき神の御子が磔刑の死を遂げる。キリスト教の持つ逆転の論理そのままに「教会の外から」恵みが聞こえている。少々大げさな表現だが、それは「重力波」観測にも似ているだろう。

 何が言いたいか。じつは、それぞれが経験する各個教会は、「神の家」のごく微小な一部に過ぎない。だから、あるひとつの教会でなじまない、うまく行かないことは、まったく問題ではない。

 神の創造や恩恵は地形だから、座りのよい場所に変えれば、それでよい。さらに宇宙全体にも届く「神の家」の庭の広大さは想像を絶する。

 ある体育会系クリスチャンが言っていた。「教会行くよりは釣りしてるほうが、聖霊感じるんですわ」なるほど、そうかも知れない。人間を漁ることだけが仕事ではない。個人的には食卓に刺し身をもたらしてくれる仕事の方が圧倒的に素晴らしい。釣れる場所に座りなおせばよいのだ。

 教会という神の大邸宅には、様々な場所がある。そこには毎週みなが集まるところもあれば、広大な庭もある。何かの拍子に転けてしまったら、目をあげればいい。見慣れた景色ではない、神の庭、世界の広がりが待っている。その景色が神学という冒険の第一幕なのだ。

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