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歴史はキャラクターに

 Amazonのドラマで『湘南純愛組』があるのを見つけて驚いた。まさか、なぜ今頃…、え、なんで?と思った。PVを見た限り、本当にドラマになったようである。T-BOLANが歌っているのもあって、全部見てみた。抱いた感想は「あぁ、ヤンキー文化は歴史になったし、キャラクターになったんだな」である。

 テレビがないので詳しくはないが、『今日から俺は』もドラマになり、今年中には、映画にもなるらしい。両者とも、ぼくが小中学校時分に連載していたマンガである。2020年にもなって、1980年代の感性が、何をどうして再びドラマ化したのか、考えさせられた。

 おそらく、大きな理由の一つは「原作不足」であろう。以前、ちょっとした興味から「なろう作品」を片っ端から調べたことがある。興味深いのは、どんな分野でも上位50作品はメディアミックス前提で書籍化されていることだった。アニメ制作の現場にいる友人からも「原作枯渇」の話は聞いている。たしかに、過去作品が延々とリメイクされ放映され続けているのを、ぼくらは見ている。

 余談ながら、これはハリウッドでも同じ状況だ。だいたい90年代前後の作品リメイクを目にしていたりする。たとえば、ぼくらは2020年に「トップガン」続編が公開されることを知っている。

 話を『湘南純愛組』に戻す。観ながら気づいたのは『翔んで埼玉』に少し似ているのだ。共通点は「過剰な戯画化」である。簡単にいえば「キャラクター化」である。原作を読んでおり、体感としても、暴走族がいた頃を知っている者としては、少しキレイに簡潔に過ぎているように思ったのだ。

 もちろん映像化なりメディアミックスとは、そういうものである。これが作品の良し悪しに関わるわけではない。ただ『湘南純愛組』と『翔んで埼玉』の両作品に通底していると思われたのは「キャラクター」なのだ。

 どちらも原作ありき。すなわち、原作ファンがいて、すでに物語を幾らかは知っている視聴者が前提となっている。無論、新規顧客として若者世代を得ようと頑張ってはいる。しかし、本当に若者が見ているのか。同じことを、劇場版アニメ『ぼくらの七日間戦争』についても感じた。同作品については、こちらで記しているから、ここでは措く。

 実は、まったく同じ問題を「スタートレック」シリーズ最新作『ピカード』にも感じた。ピカード艦長、データ少佐、ライカー副長、カウンセラー・トロイ、セブンオブナインありきの作品ではないか。

 このあたりをテン年代以降の「スタートレック」である『ディスカバリー』と比較すると、かなり明確である。『ディスカバリー』は作品世界の正史以前を扱うという重荷を、初の女性/黒人/副長の活躍によって描き切った。たしかに同作は、「新スタートレック:TNG」なり「ヴォイジャー:VOY」と比べると見劣りはするかもしれないが、そもそも作品の長さが違う。まだ継続中の作品である。

 では、映像作品『湘南純愛組』『翔んで埼玉』『ピカード』などを繋ぐものは何か。それは「原作付」である。言い換えれば、物語「後」のキャラクターの話なのだ。原作において、彼らはすでに物語を終えており、そこにおいて一つの個性を獲得し、人格を確立している。それゆえ「キャラクター」になることができる。結果、これらの作品が、どこかストーリーについては最初から外部委託しており、作品内では完結していないように見えた。つまり「初見バイバイ」な作品作りになっているように思えたのだ。

 つまり「キャラクター」になり、様々な「その後」、あり得たストーリー、物語世界の再解釈を往復することで、キャラクターは、その生を終えてしまう。キャラクターとして愛され続けることは、そのキャラクターに彼らが原作で終えた生から離れて、幽霊のように、多次元存在のように、様々な可能性世界へと無理やりに召喚されることを要請してしまうのだ。

 簡単に言おう。一度、完結した原作から引き離されたキャラクターは、彼らにとっての歴史であるストーリーから離されてしまう。結果、どこか可笑しくなってしまうのだ。しかし、そうすることでしか、ぼくらはキャラクターを愛することが出来ない。実は、これは死者の扱いに似ている。

 生者は、生前の死者のあり得た可能性や会話を記憶において反芻し、反復する。その過程で、死者は、すでに完結したストーリーから徐々に遊離して、その固有性がブレてしまう。その身体性を失ったのだから、当然ではある。本人が「存在」という属性を失うことで、その人は、他者に「存在」を借りながら、再生され、再帰する。それは、少し、人間としては滑稽な姿かもしれない。

 同様のことがキャラクターでも起きている。しかし、実は、人間であれ、キャラクターであれ、ぼくらはこの形式でしか他者を愛することができない。キャラクターの固有性は、そのキャラクターのみ、または作者のみに秘められている。いわば神秘である。ぼくらが分有するのは、公開されたキャラクターとその印象と記憶なのだ。

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 今日、たまたま喫茶店で友人とそんな話をした。厳密には「メイドカフェの神の国性」についての話だった。友人いわく「中間共同体以外で愛称で呼ばれる関係って、中々ないよね」とのこと。

 たしかに多くの人間関係の基礎は、所属なり肩書きなりの「社会的属性」によって始まり終わる。会社なり仕事の人間関係が良い例である。または、地縁・血縁も同様であろう。

 しかし、メイドカフェでは違う。そもそも「社会的属性」は問われない。御帰宅するものは「旦那様お嬢様」であり、その性別は自己申告に基づく。さらに氏名もまた自己申告による「愛称」となる。従って、その人がその人であることを示すのは、文字通り、顔面なり風貌なりの見た目である。しかも見た目の判断基準は、少し御屋敷の内と外では違っているのだ。

 抽象化していえば、メイドカフェにおいては、あらゆる社会的属性が匿名化されることで、身体そのもの、つまり「存在」自体が肯定されるのだ。ぼくは、これが教会における「洗礼名」とよく似ていると思っている。

 そして、このメイドカフェにおける「愛称」と、物語世界における「キャラクター」は、ほぼ同じように機能していると思う。誰も、互いの固有性や社会的属性について詳細には知らない。しかし、顔と愛称と愛嬌だけは知っている。それぞれがストーリーを持っている。しかし、そのストーリーは、30年以上前の原作であったり、誰も知らないその人の生活であったりするのだ。

 このように考えれば、ストーリー「後」のキャラクターの意味付けは少し変わって来るかもしれない。ぼくらは、人間でさえキャラクター化しなくては愛することが出来ない。それは、神がモーセに十戒で禁じたことの本質でもある。『偶像を作ってはならない』という言葉の意味は、神をハンディなアクセサリにしてはならない、ということだ。神は、いつも人の思いを超えるものだからだ。

 同様に、誰かをキャラクター化することで、そのキャラクターを殺してしまうことがある。しかし、そうしなくては愛することができない。無論、人は神ではないから、理解のために仮組でキャラクター化することはあり得る。しかし、いつもそのキャラの輪郭は、どこかで線が曖昧に掠れていることを忘れてはならない。それはキャラクターを殺してしまわないためだ。

 わかり難い例えでいえば、『魔法少女まどか★マギカ』において、ほむらがまどかに叛逆した理由がここにある。

 愛するために殺してしまう。殺さなくては愛せない。懐かしきコンテンツの現代的な映像化をみて、ぼくが過ごした少年時代は、いよいよ歴史になってキャラクターになったのだなぁと思った。とはいえ、ぼくとしては、もう少しだけ自身の「キャラクター」については、掠れた曖昧な線を、できれば破れを残しておきたい。そんなことを思った。

 なお『湘南純愛組』のテーマは「男らしさとは何か?」であるという。ポリコレ全盛期の昨今において、ドリフのコント的な、または吉本新喜劇的なものを不良青春ものでやってみる、というのは、中々に感慨深くもある。若者は知らないだろうが、『湘南純愛組』は後の『GTO』である。

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