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語ることがない

 最近気づいた。自分の信仰に関する実存は、ほぼ固まり、あとは惰性で動くんだろうなと。もちろん、大地震、コロナ、戦争と個人ではいかんともしがたい問題が迫っているようにも思われる。だから危機に応じて考え方は秒で変わるだろう。手のひら返しどころか、手のひらが光速回転するのが人間である。

 キリスト教について語ることがない。先日たまたまtwitterスペースにて、いわゆるクリスチャンの皆さんの会話を聞いてみた。しかし、共感のしようがなかった。話題は、ある原理主義的なアカウントのふるまいについて最低である、という話だった。全世界で見受けられる光景だろう。

 そのとき、ぼくは信仰の話をしたいと思っていた。しかし、もはや信仰の話を出来る人間が周囲にほとんどいない。いても、みな忙しいのだ。仕事に家庭に、信仰の話をしている暇なんてない。

 そして思う。そもそも信仰の話をしたいけれど、何を話したいのか、話したい内容がないではないか。なぜなら、ぼくは太陽の運行程度にはキリスト教について全面的に徹底的に受け入れている。しかし、そうなってしまうと問題が生じる。

 たとえば、毎朝、毎秒、太陽について考え感謝するようなことは普通誰もしない。天文学や気象の研究者がならば理解できる。しかし、普通はそうしない。同様に、太陽の存在と運行と同程度には、ぼくも神に関する事柄を完全に全面的に徹底的に受け入れている。結果、神について何も語ることがない。

 あるとしたら、こうしてnoteに「語ることがない」と綴るくらいだろうか。どうにもならないものである。

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