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ダニエル書の思い出

 ダニエル書を初めて読んだのがいつだったかは思い出せない。おそらく19才か二十歳の頃で、洗礼を受ける前後だった。大学のために関西に出てきた直後、友人もなく何もないぼくは、東大阪のレオパレスでひたすら聖書を読んでいた。

 その後、当時関わりのあった学生伝道サークルの合宿で、藤本満牧師によるダニエル書の講義を聞いて、いたく心を打たれて泣いたことを覚えている。理由は思い出せないが、情緒不安定でナイーヴな田舎者であったぼくは、聖書のことばに文字通り深い慰めを受けた。

 それから7~8年後、アメリカの神学校で、ダニエル書のキアスムス構造について聞いて、あらためて感動した。今度は感傷ではなく、古代の文学的意匠の美しさ、その構造に感動したのだった。

 帰国して一年半後、2012年の11月、ぼくは教会の講壇に立ち、ダニエル書の内容について紹介した。要約していえば、ダニエル書の主題は「神から廃絶されるべき者から「神の契約的恩寵(ヘセド)」がもたらされる」だった。いま思えば、この拙い釈義と説教こそが、ぼくをキリスト教のより深く高く広く長い源泉の世界へと導いた。そして、その源泉は「アブラハムの宗教」という豊饒な海への指針でもあった。

 紆余曲折のち、ふたたびダニエル書は京都で学ぶぼくの目の前に浮上した。批評家の黒嵜想と仲山ひふみ共同編集の雑誌『アーギュメンツ#3』への寄稿を準備する中で、ぼくは「太平洋弧の神の声」を探ろうとしていた。その中で、改めてダニエル書の持つ朗読の効果、怪談的な場の生成について考えさせられた。そして拙稿「トナリビトの怪」が生まれた。

 「トナリビトの怪」の結論は、天に栄光、地に平和、隣人に愛と怪である。こうしてダニエル書の思い出を振り返ってみると、ふと気づく。ダニエル書の講義をきいたあの日に開いた聖書の個所は、このようなものだった。

人の姿をとった者が、私のくちびるに触れた。それで、私は口を開いて話し出し、私に向かって立っていた者に言った(中略)「...私には、もはや、力もうせてしまい、息も残っていないのです。」すると、人間のように見える者が、再び私に触れ、私を力づけて、言った。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」
(ダニエル書10章抜粋)

 人の姿をとった者/人間のように見える者――人ならざる何か――が、消尽した青年ダニエルの隣にきて何かを囁いている。その何かはダニエル以外には見えていない。他の誰にも見えない存在が、倒れた青年に語りかけ、青年はその後、人が変わったように立ち上がって蛮勇をふるう。

 ぱっと粗筋だけを読むと「怪談」にも見えてくる。ある青年が何かに憑依されたことで人格が変異してしまった。そんな場面の描写として見えないだろうか。

 ぼくとダニエル書との関わりは、若き煩悶の日々への感動的なキリスト教的場面だった。しかし今思い出してみると、その後、大人となったぼくは奇しくも「トナリビトの怪」という論考を書いている。

 髑髏山で十字架にかけられて刑死した男が実は生きていて、彼の声に従う者が今日も世界中で増殖し続けている――これがキリスト教を「怪談」として読むことの出発点である。

 たしかに、ぼくは神に祝福されている。しかし、最近ふと奇妙な考えが脳裡をかすめる。「神の祝福」とはいったい何を意味するのだろう。じつは、最強にして最大の霊に取り憑かれている可能性はないのか。ダニエル書の思い出とともに、3年前の拙稿「トナリビトの怪」を読み直し、そんなことを考えている。なお「トナリビトの怪」は、近くオンラインか何かの方法であらためて再公開の予定である。

 また拙稿を収録する『アーギュメンツ#3』黒嵜想・中山ひふみ共同編集(渋谷株式会社、2018)も執筆者が再販していることもあると聞く。寄稿したころに比べて、ぼくも随分と「怪談キリスト教」に関する思索は深まった。そろそろ、どこかで発表したい。

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