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ゾンビと永遠のいのち「Dead Don't Die」感想 ※ネタばれ有

 ふと映画館で何かをみたくなり、ぱっと検索して、気になったゾンビもの「デッド・ドント・ダイ」を見にいった。とくにゾンビ映画を好んでみるわけではない。久しぶりに映画館で観たいのだ。

 友人と合流し、早速観劇。おもしろかった。随分と悠長に進むゾンビものだなという感想だったが、そこまで長くは感じなかった。

 物語はシンプルで分かりやすい。オハイオ州センターヴィルという田舎町で、突如、世界の終わりを迎える三人の警官の物語である。一般的に、ゾンビ作品の多くが世界や人類の行方を決める内容となる。しかし、本作における田舎町の警官3人には、そんなことは関係ない。顔見知りの故人や昨日まで挨拶していた元・生者らと闘うしかないのだ。

 普通、ゾンビ映画は、世界の破滅や人類社会の崩壊を描くものだと思う。しかし、本作品は、とにかく執拗にセンターヴィル(たぶん日本語だと「中村」みたいな名称)で、世界の終焉を経験する警官三人を描いた。

 センターヴィルには、ヘタレの白人至上主義者の農家、気のいい金物屋の黒人、野人ホームレス、地元のモーテル経営者、配達員、GS雑貨屋を営むオタク、施設に放り込まれている悪ガキ、気楽に旅する都会から来た金持ちの若者たち、最近引っ越してきた謎めいた仏教にハマっている外国人女性が登場する。つまり、田舎町ながら平均的なアメリカの暮らしが垣間見えるように設計されている。

 そして、エネルギー資源のための開発工事と地球環境のよく分からない影響で、ゾンビが現れ、誰もがわけも分からぬまま、センターヴィルはゾンビで溢れてしまう。

 友人の要約に従えば、登場人物は、以下のようになる。

・警察官ロニー/クリフ/ミンディ
 = 現行社会の構成員。情勢と結末(台本)を知りつつ、三者三様の反応をする。
・ボブ(世捨て人) 
 = 社会からのリタイヤ組(過去世代) 他人事のように現行社会を「イカれた世界」と称す
・ジェロニモ(男)と女子2人
 = 現行社会を次に担う子どもたち(未来世代)。現行社会をやばいと感じつつ、彼らは一旦「隠れる」
・葬儀屋
 = 宗教者。現行社会との「乖離」。言葉の言い回しがおかしい(つまり、魔術的用語?)。終始訳のわからない事を言い続けたり、社会の「仕組み」をわかってる風に振る舞うが、結局役に立たずフェードアウト。(勝手に救われたように見える)。彼女自身の世界の中で完結。

 劇中、何度も同じ台詞が繰り返される。リフレインは、本作品が数多のホラー作品やゾンビ映画へのパロディとオマージュに対して、さらにパロディとオマージュを重ねる効果を発揮している。製作側も視聴者も、互いに次の台詞と展開、顛末を知っているだろ?と言わんばかりだ。

 生前の「肉」欲のまま行動する死者は、そもそも生者と本質的には違わない。ここまで明快にすれば、バカな視聴者でもわかるだろ?と言わんばかりの作画は、清々しくて可笑しい。何度も笑いそうになってしまった。

 とまあ、前情報なしで見たからか、結構たのしかった。帰宅後、調べてみると、ビル・マーレイの名前と顔には見覚えがあることに気付いた。「ロスト・イン・トランスレーション」の人である。なるほど。昔、どこかで見た気がする。またアダム・ドライバーも、どこかで見た顔だなぁと思っていたが、検索して納得。スコセッシ『沈黙』のガルペ神父様である。

 また作中、ピッツバークかクリーブランドから来た女性ゾーイは、セレーナ・ゴメスである。ピッツバーグに3年弱ほど住んでいたので、何となく懐かしいのにも納得してしまった。在米時に地下のテレビかどこかで、セレーナ・ゴメスの顔を見たことがあるのだろう。当時、米国ティーンに絶大な人気を誇っていたはずだ。たしかにディズニー映えする、そういう顔立ちである。

 さて、このセレーナ・ゴメス演じる「Zoe:ゾーイ」という名前は、おそらくギリシア語ゾーエー/ゾイーから来ている。新約聖書などでは、生物学的な生命や生活を意味する「ビオス」とは区別される、神から来る「永遠のいのち」などに使用されている。

 そう思うと、遠藤周作・スコセッシ『沈黙』で殉教にまで信仰を貫く神父を演じたアダム・ドライバーが、数年後、オハイオ州の警官となり、ゾンビになるゾーイに始末をつけたのが、本作品だというのは、なかなか味わい深いのではないか。

 また、奇抜な葬儀屋を演じた女性もなんとなく見覚えがあるなと思うと映画版「ナルニア国物語」で白の魔女を演じたティルダ・スウィントンである。より身近な映画でいえば、アベンジャーズ「ドクター・ストレンジ」のエンシェント・ワンのあの人だ。

 そうなると、ますます面白い。意図してか意図せずか、本作のキャストから浮かび上がってくるのは、ゾンビを使ったアメリカ社会への批判だけではない。アメリカの市民宗教、すなわち「キリスト教:Amercian pop Christianity」への批判が見えてくる。

 ディズニーでデビューを果たし、「永遠のいのち:ゾーイ」を手に入れたシンデレラに、異世界転生したガルペ神父が始末をつける。20世紀英国キリスト教文学の一つの到達点である「ナルニア国物語」で白の魔女を演じたティルダ・スウィントンは、米国社会におけるキリスト教をなぞって見せて、ビル・マーレイは粛々と警官の職務を果たす。中々よく出来ていると思う。

 そう思うと米国では同時期に公開されたMIBに比べ、はるかに本作は素晴らしく、おもしろい。劇場でみて後悔はせず、観劇後ウキウキしながら感想を話したくなる映画だった。ということで、感染対策を徹底しながら厳しい営業をつづける全国各地の映画館と付属施設のためにも、ぜひ劇場に足を運んで頂きたい。

 ちなみに、TOP画は、三条にあるMOVIX南館2Fのモーション・ダイナーのダブル・チーズバーガーである。兵庫県に住んでいたときは、西宮ガーデンズのTOHOシネマズで映画を観て、当時あった佐世保バーガーでがっつり食べるというのが、最高の幸せだった。あれから10年ほど経つが、要するにおなじことを京都でもやっている。

 一応言っておくと、ぼくはシネフィルではない。一番好きな映画はマイケル・ベイ監督「トランスフォーマー」だと言えば、伝わるだろうか。ぼくは、これからも、ハンバーガーをがっつりほお張って、アホみたいに巨大なスクリーンと最高の画質・音質・環境で、ハリウッド映画を観たいのだ。だから、ぜひ、映画館へ観にいってほしい。

 以下は、「主流のサブカル」老害ファンのぼやき、余談である。もうハリウッド作品における「女性の自己実現、私らしさを生きる」というクソみたいな物語は、いい加減やめられないものだろうか。人類の半分を構成する「女の想像力」は、そんなに貧しいものではないだろう。

 どこかに書いた気もするが、キャプテン・マーベルも、トランスフォーマーも、X-MENも、ハーレイクインもすべて、クソみたいな前提のせいで最低の出来になってしまった。(ゴジラKOMも一部そういう描写はあったが、それを超えて素晴らしかった)

 女が男を、男の特徴的な点において圧倒する物語なんて必要ないだろう。女性には女性にしか分からない、男の存在そのものが不要な世界を描いてほしい。誰もが知っているとおり、あらゆる男の物語において、トロフィー・ワイフやヒロインはお飾りである。女性の物語において、男が、本質的な敵性の存在として描かれてしまうのは、毎度のことながら興ざめである。

 そういえば、以前、以下の対談を行った。興味があれば、ぜひ読まれたい。

 ということで、映画館いってハンバーガー食べると幸せになりますよ、という話。作画と栄養のカロリーは高いほうが面白いしうまいに決まってるぜ、hahahaha!!! 京都の映画館では馴染み深い「山村屋」のCMをみたら、少し感動して泣きそうになった。知らず知らずにコロナ禍の圧を感じていたのだなと実感。ということで、本作「デッド・ドント・ダイ」のテーマソングは素晴らしいので、リンクを置いておく。

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