創作(デフォルメ)することについて

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感光紙はじめに触ったときの気持ち足の裏それと手の平の全て|渉(わたる)


手のひらとか足の裏っていうのは、メッセージ性があると思う。たとえば背中ではなくておなか、肘でなく二の腕のうら、手の甲でなく手の平、そういうところから汗と空気とともに感情の生まれて来るのかなあとも思う。

この二つは、恋歌にも見えるかもしれないけどじつは二つともおなじ、まだ就学前の子どもの身体に触れた時の感覚をそのまんまで書いている。
子どもの手のひらって柔らかくて大人よりもずっと無防備だ。

「創作する」ことって懐が深くて、だからまるきり嘘をつくるなんてことはないけど15パーセント、あるいは60パーセントくらいだけ本当のことでも、本気でわたしは考えているよって感じに書いたりすることも出来る。例えば、短歌で言えば石川啄木なんかもデフォルメを入れた短歌を書いたりしている。

そういうデフォルメを、わたしは必要悪だと感じている。創作、それからデフォルメ…そういうことのはじまりや糸口が見えた時は、もう興奮する。わたしは一生懸命そこを登っていくだけの猿みたいになる。たのしい。考えていたことが質感をともなって目前に現れるっていうのは、魔法みたいである。最近のわたしは、これよりも楽しいと思うことを見つけられないでいる。だから、そういうことをしている人、こと、場所、それが好きだと思う。

で、そんなわたしは短歌の「私性」っていうのがなかなか飲み込めなくて苦労しました。短歌には短歌という文化があって、それは自分が触れてきたどんなものともちょっと違っていた。古典や人のことをじっくり学んだり話したりすることが大切だったり、自分が携えてきた創作の感覚とはすこし違う部分も思っていたよりあったように思うし、抵抗は感じてもいました。 もちろん、古典や歌集を読むのは好きなのですが。
「つくる」ってことは何なのだろうなあと思う。ああ、そうだ読み手がいるから作るんだなあ。その読み手、って私の場合誰なんだろう。それから、どういう自分を見てもらいたいんだろう。わたしはある人に憧れて結社に入ったのですが、そういう試行錯誤は大分あったなあと思います。

見せ方、テーマ、デフォルメそういうのは場所や周りにいる人たち、影響を受けることで変わっていっても良いものだと感じる。口語と文語にしても、良い面はどちらにもあるし、考えなしに使っていては台無しになってしまう部分はどちらにもある。

というわけでいろんなことに挑戦していきたいなあと思ったりしています。

以下は『題詠みでつくった短歌を並べ替えてテーマでむすぶ』という遊びをしてみました。


◯テーマ「手のひらから世界のすべてまで、届く

感光紙はじめに触ったときの気持ち足の裏それと手の平の全て

新品のカセットの匂いするひろさクリーニング店の風交換から

ああたまご豆腐の残すテーブルのひと肌 田中が触れて「あつい」と

いっさくじつ風鈴は箱に仕舞われて台風の根っこの方の愛しさ

永遠にひろがるギャザー 痛みっぽく 鋏を入れて広がる晴天

登り坂のじんじん止まないから夜景 行くよ 鼓動とシンクロしてる

ラジオぶつり途絶えた一人が脳なんだ 深読みする又、ルービックキューブ



ちなみにこれはすべて全く違う元ネタで詠んだものです…が、こうやって見るとまるで恋歌のようにも見える。玉子豆腐の歌なんかは、回転寿司店に行ったあとで作ったものだけれど、ちょっとあやしい空気がでてると思います。
「連作」としてまるで新しく作り直したようにも見えますね。

テーマで結ぶ、連作を作るのは題詠とはまた違う楽しさがあるので、それを作れる機会をたのしみにしています。

※私性についてはググってみたらいろんな記事が真面目に論考していて面白かったです。

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ポエム、詩、短歌などを作ります。 最近歴史に興味があります。