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自己否定しがちな人 people in the gaps

こじれた人に寄り添うのは難しいことである。

こじれた人のこじれ方は、もちろん十人十色、千差万別である。だからそのすべてをカバーできるとは思わないし思えないが、ここでは自分自身の評価が低くて情緒的に混乱または不調をきたしている人のことを念頭においている。

私自身にも自己評価がひどく低い時期というのが時折来る。或る時期まではひどく苦しんでいたが、「底打ち」を経験してからは多少やわらいだ。底打ちというのはつまり、そもそも自分自身にそんなに人を見る目があるのか、任意の誰かを評価できる能力があるのか疑わしいと思えるようになったということである。

自己評価というのはそもそも異常な評価である。というのは、評価する人と評価される人とは通常、典型的には別々であるべきであり、だからこそ客観的な評価が可能になるからだ。もちろん正確な評価には評価する人の能力も必要である。だから、まず自己評価そのものを回避したり保留にできるならそうすべきタイミングというのがあるし、仮に自分で自分にスコアを付けるとしても、そもそも誰かにスコアを付けるというのは相当の技量が無ければ難しいし、またその人の全人格に渡るような、あるいは才能も含めた能力に渡ってスコアを付けるというのはすこぶる難しい。なぜならば、もしかするとそんなことは誰にもわからないかもしれないからだ。だから、評価者としての自分の立場や能力、自信、自尊心を放棄することによって自己評価が低いという苦痛はやわらげることが可能になる。

このことを言い換えると「自分と他人と比較しない(比較を保留する)」「ありのままの自分を受け入れる」とも言える。しかしこれは言葉では言えても実践するのは困難だ。なぜならば、それができるとすれば、思考保留するという一種の訓練(例えば瞑想)を累積で長時間積むか、あるいは自己否定せざるを得ないような出来事によってついた傷が癒える長い時間が必要だからである。

ところで、なぜ自己否定した人を「こじれた」と表現しているのか? それは自己否定中の人は評価者としての自分と被評価者としての自分とに分裂した上で、評価者が被評価者を否定しているからである。そして他人からはそういう人に対してどのようにコミュニケーションしてよいかたいへんわかりにくいからである。

なぜわかりにくいのかというと、例えばその人が自己否定的に評価するほど能力が低くないと客観的にも言えるはずだと確信してその人を肯定したとしても、それはその人の評価者としての評価を否定したことになるし、一方、実際の低評価とその人の低評価の度合いが一致しているとしてその人の自己評価が適切だとしても、当然被評価者としてのその人にとっては慰めにはならないからである。まず、正確な評価の点から言えば、人は他人の意見や客観的物理的な証拠を受け入れるべきであるが、自己評価が低い状態ではそんな余裕が無いことも少なくない。

だが、「こじれた人」としての問題点はその人が今どの地点にいるのか、客観的にどの程度なのかではない。その人が評価に対して情緒的に反応していることにある。評価は人を喜ばせたり悲しませたりするためにあるのではなく、単なる結果に過ぎない。結果は或る意味では運に強く左右される。結果は運に左右されるとしても、それにどのように情緒的に反応するかについては人間にはわずかながら選ぶ余地があるはずだ(むしろそこしか無いかもしれない)。評価に対して情緒的に、あるいは規範的に反応せずに単なる次の学習のための判断材料として使っていけるようになれば一番いいが、なかなかそんな余裕がないかもしれない。

なぜそうなるのか、情緒的な反応を選んでいるとはどういうことなのかと言えば、それは評価者としての自分が被評価者としての自分に鞭打っているということになるだろう。しかし、鞭打つことが過剰になってはただ傷を深くするだけのことだ。もしこれが自分自身のことなら、情緒的な混乱が収まるまで何日かかるものなのか記録をつけてみてもいいかもしれない。あるいは大切な他人のことならいつ頃になったら傷が癒えた様子なのかうかがってみてもいいかもしれない。いずれにしてもそこで重要なのは、「休む」「待つ」「やり過ごす」「遊ぶ」といった戦術なのである。傷つくほど戦い、結果を受け入れることとこれらを同列に受け止めることはそれ自体受け入れがたいかもしれないが、我々は長い時間をかけてでも、自分なりの生き延び方を学んでいく必要があるし、他人の生き延び方にどう寄り添うべきかも学んでいく必要がある。そうすることで自分も学べるからである。

(1,891字、2023.12.30)

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