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昼昼外出 go at the day & go home at the day

自分の気分には光、つまり明るさ、光量が必要だということをようやくわかってきた。例えば、部屋の中も高輝度の照明にした方がいいし、薄暗いところを作らない方がいい。というのも、薄暗さや間接照明によって風情(ふぜい)が出るのだという意見もあるかもしれないが、私としてはすべてがハッキリと見えている状態で家事や読書をした方が気分がいいからだ。明るければ、例えば落ちているゴミや整理整頓しなければならないような散らばったものも明確に認識することができる。それ以外にもいろいろと気づくことができるだろう。そういった実利的なメリットに加えて、何よりもやはり明るいことが気分を不必要に落とさなくて済むように支えてくれているように感じる。

外出するときにもやはり明るいうちに外出したい。なぜならば、日光を浴びたいという気持ちはまったく無いが、夜道を歩くのはまるで毛髪がずぶ濡れになったかのように士気が落ちてしまうからだ。そして、何かの用事や見物を済ませて帰るにしても、なるべく明るいうちに帰るか、夜道を歩く時間を短縮するか、なんならその日は宿泊してしまいたいと思ってしまうぐらいである。

つまり、明るい昼間のうちに行き、そして明るい昼間のうちに自宅まで辿り着くという「昼昼(ひるひる)外出」を常としたいのである。昼昼外出というのは私が今考えた言葉だ。とにかくそれぐらい夜道というのは私の気分とテンションを下げてしまい、帰宅してからも気分を沮喪(そそう)させてしまう可能性があるものなのだ。もちろん、自宅の照明は可能な限り高輝度・高ルーメンなものに交換してはあるのだが。

たとえ直射日光を浴びなくても(直射日光によって生成される)ビタミンDを摂取するためにサプリは十分飲んでいるし、クリニックに通って抗不安薬も処方してもらっており、毎日飲めている。体調は人生全体を通してみても絶好調に近い。それでも、しかし、やはり外に出るならば、昼間か昼間に匹敵するぐらい明るい場所の方が心がやすらぐのである。

別に光合成ができるわけもないのだが、或る意味では植物や走行性の昆虫に近づいて来たのかもしれないし、自分自身の体が明るさを求める声に自分自身の意識がやっと気が付き始めたのかもしれない。

今でも「日照権」なるものを巡って争いがあるが、私の人生も長引けば、明るさが一種の希少資源となって人々の間で競り合いが起こるのかもしれない。できればそうならないうちに明るくなくても平気な気分を手に入れたいものではあるが、なかなかそうもいかないだろうか。

(1,049字、2024.02.14)

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