天才に成りたい
天才に成りたい。なぜならば、仮に天才であったとしたら、生活が楽になるだろうし、他人と競って優ったり勝ったりする喜びや競争相手の複雑な意図を見抜く喜び、謎解きの喜び、自分独自の貢献ができる喜びが増えるだろうし、今感じている劣等感や嫉妬を感じなくて済むだろうからだ。
例えば、天才であれば、学校で推奨されるような座学や計画的なタスク遂行を継続的に実施できるかもしれない(まったくそれができないという正反対のタイプもいるかもしれない)。あるいは、そのような与えられた継続反復的なタスクはできないが、自分自身が関心を持ったタスクについては、たとえ他のことに手足や注意資源を取られていても頭の片隅でこなし続けることができるかもしれない。例えば友人と遊んでいても、遊びながらも頭の中にある広大なホワイトボードや写真記憶を使って自分自身の研究課題を探求し続けるというようなことである。優秀な研究者の中には実際にそういうことができる人は実在するようだが、そのような人は天賦の才に恵まれているだけではなく、それを運用して課題に取り組み、あらゆる組合せを試す時間そのものが非常に長く累積した状態になるだろう。例えば、ニュートンはたまにたずねて来た友人から数学上の疑問を投げかけられると、それはいつか解いたと述べて、大量のメモから彼の解答を抜き出してみせたというエピソードがある。これは天才ニュートンに冴えたひらめきがあったというよりも、その才能を実際に長期運用できており、かつその結果を記憶または記録としてそれなりの方法で管理し残していたということを物語っている。
私自身も比較的単調な作業をしながら、「ああ、この時間、何もみずに解ける課題があれば、そしてその課題が自分自身が一生かけて解いてみたいような課題とつながっていればなんとよいだろう」と思ったりする。しかし実際には生活上のことをぼーっと思い浮かべたり、思い出について考えたり、昨日の会話を思い出して不安になったりするばかりである。仮に手が空いていたとしても、スマホのヒマつぶしアプリを触るぐらいだ。それに比べれば、このようにひとつながりの長文を構成を考えながら執筆するというのは、その内容が貧困であるにしても実に創造的な作業であるし、また苦労を要するものである。
もし私が天才であれば、語学や数学において、あるいは芸術や創作において自分自身の研究課題を自分自身の研究手法で探求することがもっと簡単になっただろうし、また今やっていないことが可能になっただろう。文字通りの意味で私は天才ではない。私は発達障害で、早熟でもないし、年齢を経た今でも努力は中途半端なままだ。例えば、20人に1人の逸材とも言えないだろう。何かのラッキーをもらって社会に大きな貢献を成し遂げられたわけでもない。そういう意味ではこれからである。他の人には無い才能、あるいは向き不向きが私自身にもあることだけは確かである。自分が向いていることを殺さず活かせる方向性、自分自身も自分の周りも活かせるような方向性を探っていきたい。
こういうとなんとも殊勝な物言いにもきこえるが、それはそうと、やっぱり今から脳の配線が突然変わって天才に成ってみたいかと言われれば成りたいものである。
(1,338字、2024.08.22)
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