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反復の思想

古今東西、反復の思想というのは独立に発生している。

例えば、昼夜の反復、潮の満ち引きの反復、季節の反復、天体の反復運動が観測できる地域ではそれが古代人の短い一生のうちでも無数に起こるのだから、そこから暦が発生した。ここまでは実際に観測でき、また予測して答え合わせが何度も出来るものだ。

しかし、暦と数の概念は過去にも未来にも無限に延長可能なものでもある。そうしたものが神話と組み合わさって、途方もない歳月を通じて死と再生を繰り返すマヤの思想や、輪廻を繰り返すヴェーダの信仰が起こった。ギリシアでは歴史の観察から幾つかの政体が循環するという歴史観ができた。あるいは新儒教の時代の中国でも長い年月を経て歴史は循環すると考えた思想家もいた。

近代になっても、我々は相変わらず一会計期間(=一年間)よりも長い「景気循環」というものを信じている。あるいは、もっと長い周期の「コンドラチェフの波」のようなものとか、「ムーアの法則」「シンギュラリティ」のような加速度のついた神秘的な周期論を信じていることもある。

投機家たちが群がる相場の世界では、リアルタイム折れ線グラフ(チャート)の特定の形から次の価格の上げ下げがわかるのだと主張する者、またそれに軽率に耳を貸す者が後を立たない。一方で、数学者は過去の株価をみてそれはランダムウォークだ(つまり過去の形から将来の形を予測不能だ)というが、本当にそうだと信じ切れる人、知ってはいても自分の財産や生産物をベットして〝合理的〟な行動をとれる人は決して多くはないようだ。最初は一次産品が不作のときのリスクヘッジだったものが、いまやリスクそのものとして人間のメンタルに挑戦してくる。

時計やカレンダをみて、今が何年何月何日何時何分なのかを確認する。そうすると安心する。なぜならば、私は今明確に覚醒していて、思い出せる限りの記憶や状態、どうやって今いる場所に来たのか、今いる場所にいつまでいてよいのか、何かをすべきなのか何もしなくてもよいのか、それがハッキリとわかってくるからである。

私の時間に対するこだわりは、何百年や何万年という周期で歴史は繰り返すのだと考えた人々と同じように、やや異常なのかもしれない。

あるいはそうやって計測された時間、定量化された時間は本来の時間、つまり本来の人生の一部から何か重要なものが搾取された残り滓(かす)でしか無いと言いたがる人もいるようだ。それはそれでもっともなところもある。今がいつであろうと今は重要だ!特定の日付の入った過去や将来ではなく、まさに今を生きよ! そう言いたくなるときも稀ではない。ただ、おかしな言い方だが、〝常に〟〝今を〟取り戻すのはひどく疲れるし不安なのだ。だからそういうのは〝ときどき〟しかできない。

(1,138字、2023.10.23)

なおこの記事とは対照的に「今に気づけ」「今を生きよ」「反復から脱出せよ」という主題を扱ったのは下記の記事である。


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