見出し画像

映画「天気の子」感想

※映画の詳細な内容に言及する箇所があります。
※本記事は2022年05月08日に別のブログで書いた記事の転載を改訂したものです。。

映画「天気の子」をみた。よかった。

一方、前作「君の名は」はところどころ筋が飛んでいる箇所やご都合主義があり、よくわからなかった。既に「こういう作品を意図的に作る監督なのだ」という認識はあった。なぜならば、自分自身で納得はできないが、しかし「君の名は」は一般には好評だったようだからである。

本作にも前作同様のご都合主義の展開は見受けられるものの、或る程度織り込み済みで慎重にみることができた。なぜならば、もはや作品としての焦点がそこには無いらしいという前提で見ていたからである。

うろ覚えで筋書きを書く。冒頭は雨の東京。少女(ヒナ)が祖母の病室から抜け出して新宿の廃墟ビルの屋上にある鳥居をくぐると空が晴れ渡るシーン。▼一方、地元の島から東京に家出して来た16歳の少年・ホダカは荒天の船上で海に落ちそうになっていたところをスガという男に助けられる。ホダカはネカフェ難民となって仕事を探すもみつからず、都会の世知辛さに中(あ)てられる。また、拳銃を拾ってしまい隠し持つことにもなってしまう。そんな中、ファストフード店で店員の少女(ヒナ)から毎日食事が貧弱だからとハンバーガーをもらい、人情も感じる。

しかし結局、スガを頼ってホダカは事務所を訪れ、彼の編集プロダクションに住み込みで雑用やオカルト雑誌のライターをして過ごすことになる。また、同じく住み込んで働いている夏美(なつみ)にも出会う。▼或る日、強引なスカウトに絡まれてホテルに連れ込まれそうになっている少女をみかけるホダカ。ホダカは少女が以前ハンバーガーを奢ってもらった店員(ヒナ)であることに気が付き、助け出そうとする。助け出す途中、ホダカは隠し持っていた拳銃を発砲する。逃げた先でヒナはホダカが実銃を出したことに驚き怒るが、気を取り直してホダカが家出少年であることを察し、自分に祈って天気を晴れさせる力があることを教える。

▼ホダカはヒナを「100%の晴れ女」として天気を晴れにするサービスを立ち上げる。一方、スガたちはオカルト雑誌の取材中に天候を操作する能力を持った巫女はその能力の代償に人柱(ひとばしら)になってしまうという伝説を知る。▼「100%の晴れ女」サービスは仕事の様子がマスメディアに露出してしまったこともあって、終了させることになった。一方、ヒナ・ホダカ・ヒナの弟(ナギ)の三人がいる部屋に警察の聞き込みが入る。聞き込みはスガの元にも入り、スガは保身のために寸志を渡してホダカを解雇する。▼東京は史上稀にみる暴風雨に襲われている。その中をヒナ・ホダカ・ナギの三人は宿を求めて歩き回り、やっと高価格帯のラブホテルに宿泊できることになった。

ホダカはヒナに誕生日プレゼントとして指輪を渡すが、ヒナはホダカに「晴れ女」は人柱になる宿命があることを夏美から聞いたことを言う。そしてその証拠に晴れを願ってきたがために透明になってしまった(=雨水で希釈された)自分の身体をホダカにみせる。▼翌朝、ホダカが目覚めると、ヒナはもういない。暴風雨は止み空は奇跡的に晴れている。ホテルに警察が乗り込み、ホダカは確保される。▼ホダカは警察署から逃走し、夏美、スガ、ナギの協力もあって再び新宿の廃墟ビルの屋上に辿り着く。鳥居をくぐるとホダカの身体は浮かび上がり雲の上にいたヒナと再開する。ホダカは天気なんか狂っていたっていい、晴れ女なんかやめろとヒナに言い、二人で地上にスカイダイビングして降りていく……。▼三年後、ホダカは高校を卒業して東京で大学生を始めることになった。この三年間ヒナに連絡を取っていなかったホダカは、やっとヒナの自宅に行く覚悟を決める。その途中、道でお祈りしている少女をみつける。ホダカは少女の名を叫んで二人は駆け寄り抱き合う。

当初は、ホダカにとってヒナは「ビジネスパートナー」の側面が強く、またヒナもホダカに役割を与えられたことを喜んでいた。しかし、ホダカは次第にヒナにばかり負担をかけていることを感じ、また二人の時間が大切になり、ついには一緒に逃げ出して三人で暮らそうと言い出す。ヒナもホダカに気を許して自分が人柱になることを明かしながらも、ホダカに与えられた役割を全(まっと)うしようとする。しかし、ホダカは既に「晴れ女」という役割、ビジネスパートナーといった枠組みを超えてありのままの彼女と向き合っていたというところだろうか。

気象や都会の無関心や行政、大人の都合といったものと、そうした実存的な、あるいは一つの魂から見えた物語との摩擦と超越を描いているようにも思える。なぜならば、登場人物は各々そうした物語を抱えており、それが外面(そとづら)としては不条理で、常識的な物語の進行からは「ご都合主義」とも解釈され得る部分であるからだ(前作ではそれが酷すぎた)。

純愛を描くためには不条理が必要である。それを群像劇として描いてみせたのは前作と共通する点だと思うが、本作の方が脚本がもっと洗練された印象があった。

(2,100字)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?