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失敗する習慣 sustainable failures

他人とは不思議なものだ。他人をみて「こうは成りたく無い」と思うことがある一方、反対に成ろうとしたところで成ることは不可能だからだ。その「こうは成りたくない」のひとつが独善である。独善は言い換えれば自己満足のことで、これを肯定的に取るか否定的に取るかは状況によっても人によっても意見が別れるところであろう。ポジティブに見るならば、最終的な境地、究極的な目標は自分固有のものでしかなく、或る意味他人には追いつけない価値に先着するという点で独善的であっても仕方がないしむしろそうあるべきだと思う一方、ネガティブに見るならば、そこに至る経路においては多くの承認や試練、切磋琢磨も必要であり、小さな「独善」に固執して比較や競争、摩擦が無い状態にずっといては主観的にも客観的にも進歩がなく、自己欺瞞や分析や言語化の足りない不満が滞留してしまう。

何もしない者は失敗もしないが成功することもない、と誰かが言っていたが、失敗という摩擦を恐れて本当に何もしなければ成功や達成の糸口をみつけることもできないだろう。また、別の人はこうも言っていた。我々は「失敗」することはできない。すなわち、成功するか、さもなければ学ぶだけである、と。これもレトリカルな言い回しで要するに「ものは試しだ!初めてならひとつやってみたらどうだい!」ぐらいの意味で取るのがよいのだろう。

だから訓練や上達のためのプログラムを組むということは、失敗を毎日継続するためのプログラムを組むということでもあるし、またそうでなければならない。例えば、ダイエットや語学習得のための習慣化はそれ自体が失敗可能なタスクである。また、パズルや数学の問題を問いたり、オセロの対戦で勝利することも失敗可能な課題である。

とはいえ、注意すべき点は幾つか挙げられる。第一に、当然ながら上達のために、あるいは新たなスキルや資格の獲得のために、致命的なコストを支払う必要はない。むしろ致命的なコストを支払わずに済む(つまり死なないように)ように小さな失敗を積極的に蓄積することが必要なのである。

第二に、同じ種類の失敗を何度もすることが必要である。なぜならば、人間は一回の失敗から学ぶことに向いていないからである。いろんな種類の失敗を少しずつしていては学習効率が下がる。オセロで負けた、将棋で負けた、テニスで負けた……とルールの違う競技でそれぞれ敗北しても共通点が少ないのだから学ぶことができない。オセロならオセロの失敗、それも特定の局面が頻繁に現れてそれが自分の負けにつながる法則性を前提として、それの発見に努めるべきである。言い換えれば、やみくもに失敗すればいいというものではなくて、失敗して学ぶに足る潜在的法則性が内在した課題に取り組むべきだということである

そして第三に、これは非常に難しい問題だが、コミュニケーションの課題、つまり人間相手の課題というのもある。別の言い方をすればいきなり個別性の高い本番に対応してことを上手くいかせなければならないという課題である。残念ながら人間関係については多くの人が苦労していて、それはつまり、うまくいかなくて失敗してしまい二度と回復させることができなくなったという意味であり、またそれだけ気分や名誉が損なわれた相手がいるということでもある。コミュニケーションの問題を超越するには或る意味では冷徹になって人格者であることや、相手への「誠実さ」を放棄しなければならないかもしれない。なぜならば、こちらが「誠実」だと考えていることが相手にとってどう映るかはまったく不確定だからである。例えば、深いコミュニケーションについて、それを練習してどうにかなるものだと捉えること自体が人間を非常に買い被った見方であるとも言えるが、当然常識的な練習もできていない者が出てくるなという人もいるであろう。

いずれにしても、我々は常に失敗しても安全な場所をつくって失敗し続けなければならない。そして、がんばれる失敗もあればがんばれない失敗もあって、それは個人差・向き不向きかと思うが、失敗しても、いや失敗したからこそ次もやろうと思えることをみつけてほしい。

(1,697字、2023.11.30)

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