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同属嫌悪 See another person has the things you hate in yourself

自分が気にする自分自身の欠点・短所があるとき、ただ自分で自分自身のそれを気にしていればいいだけなのに、むしろ他人の同じ部分(=同じ種類の短所)が気になることがある。

例えば、自分が悪口や無作法な言い方をするクセがあるとする。しかし様々な場面でそれは自分自身にとっても周囲にとってもよくないことだと自覚しているとしよう。そこで、自覚して意図的に言葉を選び、発言を慎重にし、スラングや汚い言葉、罵詈雑言などを控えたり、もっと場にふさわしい言葉に言い換えたりと工夫を重ねていたとする。それ自体は何も悪いところはないだろう。そのことにあなたは注意を集中している。

ところが、そうやって気を遣って会話しているところに、まったく気を遣わずに悪口やスラングを使う者が現れたとしたらどうだろうか。もちろんそいつに注意し、説諭(せつゆ)を加えてやってもいいのかもしれない。しかし、それ以上の情緒も湧き上がるものである。というのは、自分は当然のこととしてガマンしていることがあり、それをこいつも自重すべきだという理不尽な推論がなされるからである。

この推論が理不尽なのはすぐにわかることだろう。なぜならば、あなたが人知れず何かをガマンしていようといまいと、それは他人をガマンさせる理由にはならないからである。もし他人が何かをガマンすべきだとしても、それはあなたがガマンしているからではない。例えば「他人に危害を加えるべきでない」というのはその場にいる全員が守るべきルールであって、一部の人が守っているから他の人も守るべきだという種類のものではないからである。

仮にあなたが何かをガマンすることで相手にもガマンを強いることができるとすれば、それは相手と明示的に取引した場合だけである。例えば、私はここ(境界線)までの土地しか使わないから、あなたもここ(境界線)から先の土地しか使わないでほしいなどの協定が結ばれた場合だけであろう。

したがって、自分自身の短所を自分が気にして弁(わきま)えているからといって、任意の相手にそれを求めることはできない。このように結論してよいと思うが、それでもなぜ求めてしまうのだろうか? ひょっとすると我々はお互いに一定の弁えを暗黙のうちに約束(協定、黙約)しているのだと考えることもできるかもしれない。これを同意説と呼んでみよう。

よく言われるのは自分の弁えを相手にも要請するのは「自己投影」しているからだというものである。しかし、ただ仮に「自己投影」したところで、実際問題自分と相手とは他人である。あるいは、仮に自分が二人いたとしても、そこには何の約束も同意もない。だから、もし同意説と自己投影説を同時に取るならば、私は私自身と約束していて、その約束を不当にもまるごと相手に投影していることになるだろう。

とはいえ、相手と共通の約束事を守っていると前提することで、私たちは安心や安全を得ることができるというメリットもある。だから、これは言わばそうしたメリットの副作用と言えるかもしれない。

(1,243字、2023.10.19)

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