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反復と蓄積 accumulation

世の中には蓄積するものとしないものがある。

目に見える貨物などであればわかりやすい。倉庫に貨物が次々に到着して積み上げられていくのが蓄積のひとつのイメージである。それが蓄積であると言えるためには、(1)運び出されたり消費される貨物よりも到着する貨物の方が多いこと、(2)貨物が質量を持った物体であり、(3)数えることが可能なことである。なぜならば、到着する貨物より運び出されて倉庫から消える貨物が多ければ、貨物は倉庫に蓄積しているというよりもただ倉庫を「通過」しているだけであるし、また、貨物が中身を持たないような存在(例えば帳簿上だけの名目的な存在)であれば、それが幾ら入庫されても倉庫にその対象が蓄積していることにはならないし、また数えたり、量的に計測できなければ蓄積が生じているのかいないのか確認できないからである。

それはわかるとして、では手で触れないものや目に見えないことでも、蓄積することはあるのだろうか? 例えば功徳や善行は目に見えないが「積む」ことができるモノとして特徴づけられている。なぜそれらは積んで蓄積できるかというと、(1)過去に行為した事実を消去できないこと、(2)それらがどこかに記憶または記録されていること、(3)それらをやろうと思えば回数を記録できることによるのだろう。しかし、本当にそうだろうか?

(1)過去に何かが起こったとか何かを成したという事実自体は消えることは無い。なぜならば、そもそもそれは消えるとか消えないという対立を適用できないからである。とはいえ、それは過去に起こったことに過ぎないとも言える。どうして過去に起こったことに今起こったことが乗っかって「積まれた」と言えるのか? 例えば毎日やっていることでも上達しないことはいくらでもあり、そういうことはただ一時的に必要に駆られてやったに過ぎない。この場合は蓄積といえる条件を満たさない。

(2)過去の事実がどこか倉庫のようなところに溜まっているのだろうか? 例えば現世で功徳を積めば神さま仏さまやその部下たちがそれらを丹念に帳簿につけてくれていたりするだろうか? しかし、倉庫の中の貨物と同じように考えるならば帳簿に記された数字とは別に記録対象としての行為そのものが無ければならないが、実際には過ぎ去った事柄は今となっては帳簿の記録そのもの以外に現存形態(目に見えるかたち)を持たない。だから結局過去の事実とそれを指す記録とは同じになってしまう。

(3)過去の事実の回数が仮にどこかに記憶または記録されているとしても、過去の事実という指示対象はもはや無いので、その記述と指示対象との区別が失われているといっても、現に我々はカレンダーや帳簿にさまざまな今現在無いことについて記録し数えているということは事実として認めなければならない。行為や出来事を数えることの本性について考えることは難しい論点を含むだろうが、とにかくそれらは数えられて数値化され形式化されることによって〝蓄積〟されているとみなされるのである。

とはいえ、例えば「鳥肌が立つ」ことは出来事であるが、我々は鳥肌が生じるたびにこれがどこかに蓄積するとは思わない。しかし鳥肌が立つこと自体は観察可能であり、生理的反応であって、それは言葉の上だけのものでは決してない。一方、例えばゲームで勝利すればそれは蓄積とみなされ得る。勝利とはゲームという一定の手続きを経た社会的結果であり、鳥肌よりもよほど観念的だが、これは蓄積し得る。

両者の違いは何か?と考えると、鳥肌は仮に回数を数えても一定の回数や頻度で何かの病気の診断がくだるとは思われていないが、勝利はそれを重ねれば、優勝や強さの認定という別の承認の獲得につながるからである。この蓄積の先に期待される変化という期待が、勝利をどこかの倉庫に格納させ、そして貨物が蓄積すれば、いずれは次の貨物が倉庫に入らないという蓄積の停止を招くように異なる変化を招くように、勝ち星をその数から量的に捉えさせるのである。

(1,647字、2023.12.16, 100記事目)


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