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恩知らずな卑屈さ

恩知らずにはなりたくない。今、健康であり、生計を立てられており、サークル活動の幹事をできており、こうしてブログ記事などを書けるのも、一部は幸運、一部は私のために尽くしてくれた人たちのおかげである。それらの品質が低いとしても、あまりに卑下するのは私の世話をしてくださった人たち、〝投資〟してくださった人たちに失礼である。というのは、これは私が貢献した側に立場に立ったとしてもがっかりする態度でもあるからだ。

例えば、弱気な気分に成っている人をみかけると何らかの手助けをしたい気持ちになるが、難しい。私は善人でも無ければお人好しでも無いから、手助けしたならそれなりの手応えがほしいからである。どう手助けしようと狂気に取り付かれて自傷自殺してしまうのでは助け甲斐がない。自傷自殺しないために、予防的に助けることが出来ればこれ以上のことはないが、現実にはそういう〝ギリギリ〟の人は死なないまでも我々とは違う世界に転落していってしまう。厳しい現実という他ない。

また、恩義を含んで自分がどういう基盤の上に立っているのか認識できていないのは賢いとも思えない。なぜならば、基盤が崩れる条件や崩れたときの備えはそれがそもそも存在することを知らなければできないからだ。私はもっと活動的に生きて、私とつながり、私に親切にしてくれた人に知り合えてよかったと思われたい。

私のつまらない失言などで仲違いしたり、絶交状態になった人たちや自然と疎遠になってしまった人たちもいる。しかしそれでも、私は彼ら・彼女らの人生の脇役ではあったわけだし、その反対もそうである。そういった出会いを含めた自分自身の人生をトータルに肯定したいし、また私にいくらかでも期待をかけてくれた・くれている人のために肯定できるものにしなければならない。それは私の任務であり使命だとも感じている。

こんなことをわざわざ言う人は少ないだろう。まあ恥ずかしがったり水くさいと思うのが普通の感受性ではあるまいか。それでも、多くの人は潜在的に周りに期待していて、もしそこそこ平穏で自由な暮らしがそこにあるなら、君が思っている以上に君は認められ肯定されていると思った方がきっといいだろう。

──まあいつも身勝手なことばかり言っているので、たまにはキレイゴトも言わせてもらいたいというのもあるが、とにかくいつの間にか「恩知らず」ポジションにいるのはイヤだということだ。それは一方的で気持ちよくないし、フリーライダーだし、賢いとも言えないからである。

(1,034字、2023.10.16)



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