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映画「ジョーカー」をみた

※映画の内容に踏み込んだ記述があります。

2019年10月27日、映画「ジョーカー」を拝見した。よかった。バットマンのスピンオフ作品のようだが、関連するコンテンツについて私は知らない。陰鬱な雰囲気の作品だが、主人公が不遇な作品は嫌いではない。

主人公のアーサーの視点で物語は進むが、どこまで事実でどこまでアーサーの妄想なのかの解釈はハッキリ定まらない。その意味でメタフィクションの要素を含む。映画は病棟で踊るシーンで終わっており、冒頭からそこまですべてがアーサーの妄想かもしれない。

物語のなかでアーサーは終始報われない。街の悪ガキに仕事の邪魔をされ、そのせいで減給される。同僚から自衛のためにと拳銃をもらうが、それを仕事中に落としてしまいクビになる。笑いが止まらない病気を抱え、そのせいで気味悪がられ証券マンに絡まれる。福祉サービスとしてのカウンセリングは予算削減で打ち切られ、笑いの発作を抑える薬ももらえない。要介護の母親が書いた手紙を信じて裕福な社長を父親だと思って尋ねるが相手にされず、しかもその手紙の内容が妄想であること、自分が孤児だったことが明らかになる。憧れていた司会者に、たまたまありついたコメディアンの仕事振りをバカにされる。

また、これらに重ねて貧富の格差、社会不安、暴動も描写されている。アーサーはこれらに反逆し、報復し、ときには逆恨みして殺人などの犯行に及ぶ。

すべてのシーンに共通するのは、「自分の話をきいてもらえない」「わかってもらえない」「わかるはずがない」という絶望である。アーサー自身も自分の人生で次々と起こる不幸をつなげて訴えることもできない。加えて、彼の八つ当たり、逆恨み、自己憐憫は表面的にしか、対外的にしか理解されないと言ってよいだろう。

結局、人間はわかり合えないし、誰も人の話を聞く気はない。それだけではなく、自分自身をひとつの存在として語ることもできない。なぜならば自分というものが断片化しているからである。アーサーが笑われたり崇拝されたりするのは彼の断片が消費されるからに過ぎない。アーサーの妄想にもそれなりに秩序があり、病院で事実関係のウラを取る場面もあるが、それでもすべてが妄想であり無視される可能性がどこまでも否定できない。

コミュニケーションの不可能性を描いた映画だった。

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