見出し画像

代わりのいる私と代わりのない愛-コピー.pdf

※この記事は以下の安田鋲太郎氏の記事を深草が勝手に書き直したものです。
https://note.com/judith12365/n/nb70919d99c82

あるところに一卵性の三つ子の姉妹がいた。彼女たちは裕福な家庭に生まれ、家も庭もステキだったし洋服も靴も、とにかく物質的な不自由は何もなかった。ただ彼女のなかの一人――おそらくは他の二人も同じように思っていたが――は、幼い頃からどこか〝居心地の悪さ〟のようなものを感じていた。というのも、周囲が誰も自分たちを見分けてくれないからであった。当人たちがそう思う一方、周囲からしても、ちょっと無理だったかも知れない。

年月が経ち、この〝居心地の悪さ〟が爆発するようなことが起こった。三姉妹はすでにティーンエイジャーになり、彼女たちの一人にはボーイフレンドが出来ていた。ところが初デートの後、その「妹」はきわめて不安定になってしまった。どうやら恋人の愛がいまにも醒め、他の子に取られてしまうのじゃないか、次のデートでなにか失敗するのじゃないか、という恐怖に駆られていたからだった。

そこで「姉」──周囲が見分けてくれなくてモヤモヤしていた彼女がひとつの提案をした。それは「もし本当に次のデートに行けないのなら、代わりに行ってあげる。たぶん気づかれないんじゃないかな?」というものであった。妹はこの提案を受け入れ、姉は妹から前のデートでどこまで相手との仲が進んでいるのかということも聞き出して引継ぎを受けた。こうした準備の結果、「妹」のデートはとつつがなく成功した。

ところが、姉は帰宅して、今度こそ大ショックを受けたのだった。まさか本当に気づかれないとは! いくら外見が瓜二つだからといって、彼女だぞ? と。この体験から「姉」は思った。他でもない自分を認識され、代わりのいない存在として愛されなければ、どんなに裕福でもひたすら虚しいばかりだと。この出来事が、のちの彼女の人生および思想の原点となった。

これは実際にあった話だ。そしてこの「姉」は誰もが知っているあの著名人である。

彼女の名前はエリザベス・キューブラー=ロス(Elisabeth Kübler-Ross, 1926-2004)精神科医で、「死の受容の5段階プロセス」によって世界的に知られている。

(深草註:エピソードから語り手の正体を暴露するというオチがここで一旦つく)


上の三姉妹のエピソードは、1985年の「第9回トランスパーソナル国際会議」で来日したキューブラー=ロスが語ったもので、講演全体からいうとつかみの部分のエピソードだ。前座の話とはいえ、三つ子が三つ子であるがゆえに幼少期から〝居心地の悪さ〟=自分の「固有性の問題」を意識せざるを得なかった、という話の骨子(こっし)には、やはり印象的で心惹かれるものがある。そこを考えてみたい。

第一に、デート相手の男性がロスとその三つ子の妹の見分けがつかなかったことについては、そこらの平凡な十代男性ならば充分にあり得る。仮に男性が特別なバカだとか女性を道具としてしか見ていないといったことがなかったとしてもである。なぜならば、まず、外見が同じで、同じ生育環境故に喋り方やしぐさもそこまで違わない相手となると、見分けるのは困難だからだ。次に、会話内容の点からみても、十代の通常のカップルは、ステートフル(履歴参照的)な会話をしていないから、これも識別を困難にする要因となる。例えば、通常のカップルは、数回デートしただけでおかしいな、こないだ話したことと食い違ってるな、となるような会話を元からしないし、多少食い違っててもまさか別人が入れ替わってるとは想定していないものなので、記憶違いだったかな、とか気分や考え方が変わったのかな、程度で流れてゆくのである。これは恋人に限らず、先生やクラスメートにしても同じことだっただろう。だから、彼女たちの固有性に対する悩みは、本質的に周囲の鈍感さの問題ではない。

第二に、この固有性を認められるというのは見分けがつく(=個体識別)だけでは不十分である。というのも、例えば宮台真司はナンパ師時代の経験をふりかえって、相手の女の子の言うことがみな同じでどうしても会話が画一的になる、しかも相手のこれまでの人生やら深い思いやらを掘れば掘るほどそうした深い次元においてさえ画一的であることに気付いて鬱になったと書いているからだ。

これらのことから、ここで問題なのはすべての個人の固有性なのであり、三つ子のエピソードは、私たちのそれぞれにのしかかる固有性のおぼつかなさを典型的にわかりやすく示したものだ、と捉えなければならない。言い換えれば、ロスのエピソードに値打ちがあるとすれば、それが私たちに対してこう問いかけてくるからである。 「あなたのかけがえのなさはどこにあるのか? そもそもあるのか、ないのか?」

この〝居心地の悪さ〟という問題に対するロス自身の答えは「愛」、それも無条件の愛である。ここは彼女の言葉を直接見てみよう。

死ぬ瞬間にあなたの心に浮かび上がってくるものは、たった二つしかありません。その一つが、人生で起きた波風です。もう一つは喜びの瞬間、あなたが満たされた瞬間です。満たされた瞬間は、ほとんどの人の場合、あまりにも少なすぎます。「いい成績をとれば愛してあげる」とか、「いい学校に入れば愛してあげる」とか、「高校を卒業できたら誇りに思うよ」とか「『息子は医者』っていえたらどんなに鼻が高いだろう」などといわなかった人、無条件に愛してくれた人と心がつながった時の記憶、それが満たされた瞬間です。この「何々すれば」という言葉は、原爆以上に多くの生命を消し去ってきました。ゆっくりじわじわと死んでいくプロセスです。「愛しているよ、何々すれば」という条件つきの愛で育った人は、死ぬまで愛を買おうとするからです。でも愛を手に入れることは絶対にできません。どんな形であれ、愛は買うことなどできないのですから。
(中略)
私たちの社会でもっとも大きな問題になっているのが愛です。愛がもはや無条件の愛ではなくなっているからです。罪悪感や条件つきの愛に凝り固まっている人は、「だめです!」といってしまえる勇気ある愛を知りません。

『宇宙意識への接近』所収、「死:成長の最終ステージ」pp.146-149、太字は安田鋲太郎による。

すなわち、条件付きの愛というのは、あなたのルックスだとか肩書きだとか経済力だとか何らかの生活上の貢献だとか、そうした属性、タグに対する愛にすぎず、代替可能なものである。

そうではなく、ロスの立場から言えば、「あなただから」愛し、「あなただから」愛される関係でなければほんとうの愛とは言えないということなのだろう。言い換えれば、あなたの固有性がまさに愛の原因となるような愛でなければならない、と彼女は主張しているのだ。

特に見て取るべきは次のメッセージだろう。損得人間になるな、条件つきで愛し条件つきで愛されること、所詮はそういう愛モドキしかこの世にはない、とうそぶくようなタイプにはなるな。なぜならその世界観に飲み込まれることは、みずから己を、なんぼでも買い替えの利く商品にしてしまっているからだ。すなわち、誰かと生きるとか一人で生きるとか、友達が多いとか少ないとか、恋人がいるとかいないとか、それはどっちでもよくて、人と人の関係・情・絆・縁・愛――呼び方はいろいろあるけれど、そういう領域においては、どこかで損得から抜け出さないといけないのである。全員に対してじゃなくてもいい、24時間365日じゃなくてもいい。

なぜならば、そういう部分をまったく持ってないという人は、愛を買い取ろうとして誰からも愛を得られないからだ。

無条件の愛こそが〝居心地の悪さ〟=固有性(のおぼつかなさ)からくる苦しみを抜け出す唯一の方法なのではないか、そのようなことをロスは提起しているのだ。

※この記事は以下の安田鋲太郎氏の記事を深草が勝手に書き直したものです。
https://note.com/judith12365/n/nb70919d99c82

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?