言葉の使い方について

私は、自分は周りの人より少しだけ想像力があるほうだと思っていた。
いや、うそをついた。
周りの人よりずっと想像力のある、「多様な」視点、側面から物事を見られる人間だと自負していた。
そんな人間が、「普通」や「真っ当」といった言葉を使ってしあんを悲しい気分にさせていたことにまったく気が付いていなかったことに、深い反省と自己嫌悪を感じている。
まったく、大した「想像力」だなぁ、おい?

(聞きたくないかもしれないが)二三言い訳をさせていただければ、まず、私が「普通」という言葉を使って言いたかったのは、自分自身をコントロールして自分の「普通」を作り出すことの重要性、ということだった。
(いやわかんねーよというご指摘ごもっとも)

先日の日記の通り、私も「普通」に物事を忘れずに進めていけることに憧れながら、それができない人間としての苦しみがあった。
あえてラベリングするとすればいわゆるADHDグレーゾーンというやつで、忘れるだけでなく、やらなければならないと思えば思うほどタスクを放置してしまうという特徴があるのだが、それが自分の特性であるということをそもそも分かっていなかった。
なぜやらねばならないことに手が付けられないのか?
なぜ放置して1年も2年も経ってしまうのか?
そのことによって費用がかかってしまうものもあると分かっていても、蓋をして目を背けたいと思ってしまうのはなぜなのか?
そういったことを考え、自分に苦手な物事があることを受け入れ、それをどうすればやりやすくなるのかを考え、やりやすいように環境を変えていく、そういうことが自分にできるとということが、そもそも分かっていなかったのだ。
できない自分を責め、「普通」にできない自分を世間がどう評価しているかを恐れ、また同じことを繰り返して自己嫌悪を深めていく、そういう数十年だった。
自分の特性に気づくまでに私が要した時間がそれである。

今は何とか、自分の苦手なことを言語化し、コントロールする術を考え、自己嫌悪を感じずに私の「普通」=「日常」を作り出す試みを行っている、そういったことを伝えたかった。
ただ、それは私の頭の中でだけ完結された言葉の使い方であり、それを説明しないまま「普通」という言葉を使うことの弊害をもっとよく考えるべきだったと反省している。

また、「真っ当」という言葉についても、自分が「真っ当」でないという劣等感があるからこそずっと頭にまとわりついていたイメージであったのだが、自分が「真っ当」であると認識している人がその言葉を使った際の暴力性までは、想像したことがなかったということを、しあんの日記を読んで気づかされた。そしてその暴力性に打ちのめされた。

言葉の使い方は本当に人それぞれで、その人の頭の中では十分思慮を尽くしたうえでの言葉であったとしても、丁寧なやりとりや説明がなければ、唐突に誰かの胸を突き刺す刃となるということを、心に留め置いておかねばならない。

では、こうやって反省したとして、それではいおしまいという話ではもちろんない。
その反省は死ぬまで終わらないのであり、またその過ちも今後も何度も繰り返されていくことだろう。
そのたびに立ち止まって自分の過ちを後悔し、あるべきだった姿を考え、今後のふるまいを修正していく、人生はその繰り返しだ。
自分の言葉が大切な誰かの心を貫いていないか、改めて見直したいと思う夜であった。

(緑青)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?