「普通」の呪い

緑青さんのエッセイを読んで自分が大きく感じたのは、「家族との確執」と、「『普通』にとらわれているしあんという人間」だった。
前者は今後も書くチャンスがありそうなので、今回は後者について綴ることにする。

私は「普通」に憧れながら、それができない人間である。
もちろんできることもある。「普通に」今のところ仕事は病気を抱えつつもできているし、また約束などは基本忘れない性質だ。
しかし、恋愛をし、結婚をし、出産をすることが結局のところ「普通」として求められているこの時代において、その全てができていない。「別に今どき普通ってわけでもないよ」という優しいことば、ありがとうございます。だが私は家系の跡継ぎであり、上記を達成することが正直大いに求められているのである。
また、一人暮らしをしたことがないため、役所等各手続きはおそらく「普通の三十路」よりはるかにわからない。
料理もしない(私は貧乏なりに稼ぎ担当)ため、スーパーの「普通」の豚肉の値段も知らない。
できない「普通」をあげればきりがない。最近の口癖は、「なんでこんな大人になっちゃったんだろう」である。

一方で、「普通」への強い対抗心もある。
そもそも、「普通に生きる」って何?「普通じゃなく生きる」がわかんないんすけど。
「普通に恋愛する」って何?異性じゃないといけないの?私が今好きな人は同性だ(と思われる)。
「普通」への違和感が生まれたのは、自分が性的マイノリティだと気づいたころからだった。
それまでは「普通じゃない」ことはおかしいことだと思い、自分をかなり責めていた。女らしくない、女と思われたくない、でも生物学的に違和感はない…これを「わがままではない」と受け止めてもらえたときは、救われた気持ちだった。「普通」からの開放だった。

そんなこんな(どんな?)で、「普通」ということばの呪いにかかりながらも、なんとかもがいている最中である。

似ていることばで悲しかったもののひとつに「真っ当」があるので、それを挙げてこの日記を締める。
以前、埼玉県のLGBT条例作成にあたるパブリックコメントだったかに、このようなことばがあったことをうっすら覚えている(うろ覚えなので、確証はない)
「こんなことより、もっと真っ当に生きている人たちにお金を使ってください」
ある人から見れば私は真っ当に生きていないのだ。苦しくて、その日は仕事が手につかなかった。

最近はこれらのことばから意図的に離れて生きている。久しぶりに向き合うと、やはり疲れるものだ。そして私は今日も、世間の「普通」「真っ当」から外れた人生を送るのだろう。

(しあん)

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