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【雑談】違国日記新刊を読んだ感想、空虚さについて

ヤマシタトモコの『違国日記』10巻を読んだ。
最初は自分にとってこんなに大切なマンガになるとは思っていなかったので電子書籍で買っていたのだが、だんだんと読み返す回数が多くなり、新刊が出るたびごとに紙で買い直そうかという迷いが生じた結果、今回ついに紙で買おうと決心した。
その新刊が、今手元にある。

電子書籍は場所を取らない、どこでもスマホやタブレットで読めるというかなり大きな利点があるが、私は大切なマンガはやはり紙で読みたい。

表紙や中表紙、中身の紙の質感を感じ、読むことで曲がる本の弾力を感じ、見開きで物語が展開していくのを感じ、あと少しで物語が終わってしまうことを残りのページ数で感じる。
物としての物語の存在感の大きさが、そこにある。
そこに没入する楽しさを、紙のマンガ・本は教えてくれる気がする。

話がそれたが、ともかくそうして私は違国日記10巻を読んだ。

主人公の朝が自分自身の空虚さに向き合うさまは、読んでいて苦しい。
両親が事故で亡くなったという、自分を愛してくれる人がもういないという空虚さ。
映画やドラマならば、そうしたことがターニングポイントとなり、自分自身が変わっていき特別な「何か」になっていくはずなのに、現在の自分には何の能力も個性も芽生えていない、という空虚さ、悔しさ。
小説家の叔母やレズビアンで彼女がいる親友という、自分の核が何かを知っている人、自分の人生に同道できる何かを持っている人と比べて、自分が何もない、何も持っていないということに、最初は「ずるい」と単純に悔しがっていたところから、それぞれに「それしか生きる道はなかった」という苦しさ、背景があることを知り、それでもそうした道しるべすら自分にはない、ということに静かに絶望する朝。

この空虚さに、私は非常に共感する。

みんなどうやって自分の人生を決めていくのだろう?
どうしてその職業を選んだの?
どうしてその人と恋人になれたの?
どうやって「そう」生きていくと決めることができたの?

この空虚さに今の年齢の自分が共感することを、しあんは恥じていたが、恥じるべきことだろうか。

私が朝の年齢のころ(朝は高校生である)、こんなにも切実に未来、自分自身のことを考えていただろうか、と思い返す。
あのころは、とにかくレールに乗ることしか考えていなかった。
高校生の私にとってレールに乗ることとはすなわち大学進学であり、それ以上のことは考えず、とにかく勉強したり友達と馬鹿やっていたりした気がする。

それは大学へ進学した後も同じことで、「じゃあその次は?」ということをしっかり考えず、自分自身と向き合うことなく行動してきた結果が今の状況だと思っている。
いまだに私には何があるのかわからない。
何もない、ということを武器に動くことすらままならなくなってしまった。
その点で、朝と私には大きな違いがあるだろう。

高校生ならば…
きっと何もないということを武器に、それを自由さに変えて動いていくことができる。何かをこれから描くことができる。

これは30代の大人の夢想だろうか?
何かを始めるのはいつでも遅くないのだ、といった言説やその成功譚はあちらこちらに散らばっている。
本当にそうだろうか?
私はこれから新しい人生を描くことができるのだろうか?
その可能性に怯えてしまう空虚さがあるからこそ、私はいつでも希死念慮に甘えてしまうのだろう、と思う。

私はいつ終われるのだろう?
私はいつ「私」になることができるのだろうか?
その問いに対する答えは、まだ当分得られそうにない。

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