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忘れるという罪悪がもたらしたもの

私は昔からよく物事を忘れる人間だった。

習い事をして親に送迎されていたころは、習い事の曜日だということを忘れて友達と遊んでしまい、母に怒られたことがままあった。
家族旅行で行ったどこそこのお店が美味しかったとかきれいだったとかいう話も、携帯という便利な自分記録機能を得る前の時代のことはほとんど覚えていない。
学生の時には、友人とディズニーランドに行く約束がすっかり頭から抜け落ちて、舞浜駅に着いたけどどこにいる?という友人からの電話を寝ぼけ頭の布団の中で受けたという絶望的な経験もある。その友人とは当然ながらその後疎遠になった。

忘れるということに罪悪感を植え付けたのは母だった。
「美味しいお店に連れて行ってもすぐ忘れちゃって連れて行き甲斐がない」と呆れられたり、やるべきことをよく忘れて怒られたり。

私が母の前でうまく言葉を出せなくなった時のことを思い出す。
「なんでこれをやってくれなかったの!」と責められているとき、そうすることを単に忘れたからというのが真実だったのに、その言い訳は単純で有り得なさ過ぎて信じてもらえないかもしれない、許してもらえないかもしれないと思い、何を言えばいいのかわからずただ押し黙る、という状態に陥ってしまった。
そうすると母は「何か言いなさいよ!なんで黙るのよ!」とますますいきり立ち、ますます私は何も言えなくなる。
母の怒りが去るのをひたすら待ち、そのあとはひたすらご機嫌取り。

母と二人きりでいると体がすくむのを何とか耐える心臓の震え、何か言おうとしても何を言えばいいかわからず緊張する唇の感覚は、なかなか消えてくれなかった。

有言不実行という自分の特徴に気が付いたのは最近だが、これも忘却から来るものだろうと思っている。
「まじでありがと!今度おごるわ!」「今度〇〇やってあげるよ!」「ごめん現金なくって…今度返します!」
すべて忘れる。
忘れたことすら忘れているので平気でその人の前でしゃべっている。
そのことに後で気づいて真っ青な気分になってももう遅い。
その人の中での私の評価は、その時点できっと決まってしまっているだろう。

それでもお金に関することだけはきちんと清算しておかないと真っ当な人間になれない、と思い、スマホのリマインダーを使うことを覚えてからは何とか借りた金を返す、ということはできているが、コロナ禍でなかなか会えない友人にまだ返せていない3,000円が気になっている。
その程度といえばその程度だが、それも積み重なればとなんとやら、である。

最近はなんでもリマインダー。
退勤後に買い物に行くとか、いつまでに何を支払うとか、他の人にとっては何でもないこともすべて通知付きのリマインダーを設定し、きっと忘れているだろう数時間・数日・数か月先の自分に向けて、必死でメモを書き留める。
それがどうやら私にとって今のところ適切な生きる術のようだ。やりたいと思ったこと、やらなきゃいけないことを忘れて放置せずスケジュール通りにこなす、そういった「普通」のことが、ようやく自然にできるようになってきた。これが地に足がつくという感覚か、と目の覚めるような思い。

それも、いつかは破綻するのだろうか。
きれいに積めたように見えた積み木が崩れて、また一からやり直さなければならなくなるかもしれない。
それでも今はまだ、何とかふんばっている。
何とか。
何とか。

(緑青)

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