「大学新聞のジャーナリズム」とは何か。
「大学新聞のジャーナリズム」とは何か。存続の危機にあった一地方大の新聞会を引き継いだ頃から会長として考えてきた。
新型コロナウイルスの感染拡大が続く中、その問いに対する思いをより深くした。部員は集まったものの大学に通えず、新聞の発行どころか取材もできない。焦りを感じてホームページを制作し、Web上での配信を始めた。もとから不定期の発刊で、発行を待つ読者がいるかすらも不明だ。なぜ存在しているのか。現実を変えられない自らの不甲斐なさに苦しんだ。
感染者数を報じることもなければ、政府の対応に口を出すこともない。何の矜持もない。地域のイベントや地場産業について伝え、学生の活動や学内イベントの広報・紹介など身近な出来事を取材するだけで学内唯一の独立メディアと言えるのか。新しい紙面づくりに向けて読者アンケートの実施も考えたが、どれほどの人が答えてくれるのか確信が持てず、踏み切れなかった。
しかし、転機が訪れたのは昨年末。和歌浦のノリ産業の終焉とそれに関わった女性を書いた一本の追悼記事に長文の感想を寄せてくれた人がいた。記事には昔の記憶が喪われることへの危機感を込めたつもりだが、閲覧数は伸びず、「いいね」の数も少ない。書き手に強い思いがあっても注目されなければ意味がない。もっと目を引く内容に転換すべきか。Web記事の公開後、そんなことを考えていた。感想文には「何かを訴えかけるわけではないが、ひとりの人生が見えたり、ひとつの風景が浮かび上がってくる文章。」と書かれていた。
何かを訴え、社会を変えようとするのが中央のジャーナリズムだとしたら、私たちの新聞ジャーナリズムとは。
一人ひとりの人生を丁寧に掬い上げ、遺そうという思いを大切にしたい。片隅で忘れられたものにこそ光を当てよう。その灯火は小さくてもいい、消えさえしなければ。ただ、目の前にあることを記録することが私たちのジャーナリズムであり、「不要不急を控える」という大義名分の下に小さな物語が失われゆくこの社会への抵抗だ。
大きな声や分かりやすいことがもてはやされる時代にそぐわない活動かもしれない。それでも使命はあるのだと信じ、歩み続けたい。