フリージャーナリストと私人逮捕系ユーチューバーの違いはどこに?

元日に能登半島で震度7の地震があり、そして2日には羽田空港でJAL機と海上保安庁の連絡機の衝突・炎上事故が発生しました。

事故に関してJALが記者会見が行いました。ライブ配信されており、一般の方々でも見ることが出来たため、記者たちの質問に疑義を感じたというX(旧Twitter)のまとめが登場していました。
2024年1月1日のTBS記者の質問、そして翌日1月2日のJAL記者会見での質問への苦言が集まる一方、事故機から全員脱出させたJALクルーには称賛の声も

私も予てから、一部の記者の方たちの“わがまま”な行状から、そのような記者の方たちを「記者会見場荒らし」と勝手に命名しています。延々と御自分の考えを述べたり、逃げるのかと大声を上げたりする方はもちろんですが、ほとんど役に立たない「更問い」を繰り返す。。。など、枚挙に暇がありません。

ちなみに、「更問い(さらとい)」とは、記者の業界用語です。同じ質問を繰り返すことなのですが、何故「更問い」するのかと言うと、

答弁が質問の趣旨とずれていたり、不十分だったりした場合、記者は更問いをすることでより深く、具体的に答えを引き出そうとする。それが充実した質疑につながり、国民の理解を促すことになるからだ

西日本新聞2021年6月21日更新 デスク日記『「更問い」を認めない首相官邸」から

とのこと。揚げ足取りで恐縮ですが、「国民の理解」などという大上段に構えた言葉が登場することに、ちょっと驚きます。

しかし、昨今、記者会見の場で、このような行状の果てに、新たな事実がわかったり、嘘をついていることが明白になったりしたというケースを全く見たことがありません。

で、ふと思うのです。記者やジャーナリストの仕事とは、いったい何なんでしょう。そして、さらに一つの疑問が浮かびました。
「フリージャーナリストと私人逮捕系ユーチューバーの違いは何だろう?」

安倍元首相と財務省の関連を調べている元NHK記者の現・フリージャーナリストI氏が、S元国税庁長官の自宅に取材依頼のお手紙を投函したという記事があります。某誌のデジタル版に掲載され、その内容も一部公開されていました。以下、その抜粋です。

「率直に申し上げます。財務省はあなたのことを切り捨てていますよ。陰でこっそりと。」
「Sさんがすべてを説明してくだされば、私がSさんを追い続けることはなくなります。その必要がなくなるからです。何かございましたら同封の名刺にある連絡先までご連絡ください。」

はっきり言って、これは怖い。怖い。ストーカーからの手紙としか思えない。

また、元NHK職員、現・フリージャーナリストと称される方が、旧ジャニーズ関連とNHKの関係に関する取材として、NHK理事から旧・ジャニーズ事務所の役員に転出された方の家を訪ね、取材に応えるよう手紙を投函した、と書いていた記事を見ました。そこには、

「私も独自に追いかけていまして、元理事の自宅を尋ねて取材依頼を掛けています。面会が出来ず、ご家族の方に、走り書きではありますがメモと連絡先も託しています。しかし、10月23日段階では返答を貰えていません。」

(どちらも敢えて、引用表示をしません。)

これも怖い。怖い。私がこの手紙を投函された当事者なら、どちらの場合も、不審者が家の周りをウロウロしていると警察に連絡してしまいます。

いったい、どんな立場で、個人の家に謎の手紙を投函しているのでしょう。それも取材依頼と言ったって、「俺の話を聞け。お前は俺が訊きたいことを話せ」という手紙は、少なくとも普通の人は出さないでしょう。

だって、フリージャーナリストって、ただの一般人でしょう。
私人逮捕系ユーチューバーと何が違うのでしょうか。

ちょっと余談。
旧・ジャニーズ関連のNHKに関する記事で、NHK西館7階のリハーサル室(部屋の広さやピアノの有無、板張りか否か、などいくつか違いがあります)を、「ほとんどの局員が足を踏み入れたことがない場所」などと書く人は、単にリハーサル室を定期的に使う番組を担当したことがないというだけです。(こういう人が退職後、「フリージャーナリスト」を名乗るケースが多いような。。。)旧ジャニーズ事務所関連の番組だけが独占的に使ってきたとか、全くの嘘です。知らないことを知らないと言えない、悪い癖です。

本題に戻ります。
私人逮捕系YouTuberは2023年末に巷を騒がした“職業”の一つです。“世直し系”とも言われる、この人たちは、街頭で痴漢(に見えたり)や盗撮(に見えたり)、詐欺(のように見えたりする)などの犯罪および迷惑行為をしたとして見ず知らずの人に突撃し、取り押さえたり、問い詰めたりする一部始終を動画で撮影、公開します。犯罪撲滅と正義、が目的だとか。

そもそもジャーナリストとはなんでしょう。職業なのでしょうか?さらにフリーのジャーナリストとは?どのような訓練または、経験を経たら、名乗ることができるのでしょうか。
昔は取材結果をテレビやラジオ、新聞などでしか公開することが出来なかったので、ジャーナリストと名乗る人は皆、会社に所属していたように思います。もちろん、フリー=会社に所属していない場合でも、一定の評価を受けた書籍などの著者として、または一般的なメディアに寄稿するなどして、なんとなくですが、何か認められている存在として活動していたように思います。

今では、インターネットの発達で、それこそ誰でもYouTubeやSNS、このnoteなどに文章、ビデオなどを置いておけば、発表したことになります。
組織に所属していることと、個人で活動することの最大の違いは、世間に発表する文章や喋る内容を事前に、あらゆる面から他人にチェックしてもらうかどうか、でしょう。つまり、査読の有無です。これによってレベルが担保され、またこの過程が組織としての責任を果たす一端になっています。
上から見た発言で恐縮ですが、インスタグラムやXの文章に、内容とは関係なく、誤字脱字、乱文が多いのは、客観的な目を通ってないからです。

記者会見場荒らしの代表格(※あくまでも私の狭い了見から認定させていただいたものです)は、元朝日新聞・Arc Timesの尾形聡彦氏(本論とは関係ないですけど、尾形氏って典型的なname dropperですよね。)や、東京新聞記者でありながら、Arc Timesにも所属していて、いったいどの立場が語っているのかよくわからない望月衣塑子氏のように、ご自分が思ったように事態が進まないと、すぐに報道の自由が侵害されたと、ご自分が報道を象徴しているかのように、吠えるという特性をお持ちの方々のことです。※あくまでも私的な認定です。

YouTubeで配信していれば、ジャーナリストのなのでしょうか。先ほど、例に上げたArc TimesもYou Tubeで配信しているニュースサイトです。オンラインメディアと称しているけど。
フリーになっても報道の自由を象徴できるのでしょうか。どのすれば報道の自由を象徴できるのでしょう、そもそもジャーナリストと自称し、報道関連の会社に勤めていた経験があれば、ジャーナリストなのでしょうか。

ジャーナリストと言えば、フリーアナウンサー・元NHKの有働さんが日本テレビのニュース番組を降板するらしいのですが、その理由は、ジャーナリストとしての活動を充実させたいから、というようなことを書いて“応援”するコラムを拝見しました。生活はどうやって維持するのかしらと思うと、どうやら新たに民放で歌番組の司会をするのだとか。うーん、歌番組は、スポンサーで雁字搦めの番組ですよね。それを引き受けておいて、ジャーナリストとして活動するなんて、どだい無理です。ご本人がこのように言っているのではないようですが、周囲の持ち上げ方が恥ずかしい。

2022年2月に西山太吉さんという方が亡くなりました。およそ50年前、アメリカ領だった沖縄返還に関して、日本とアメリカの間で取り交わされた「密約」を巡る事件の中心人物です。元毎日新聞記者でした。この方の“評価”をめぐって、ちょっとした“騒ぎ”がネット上で起きました。

ジャーナリストの江川紹子氏が

当時のプロセスには様々な論評はあるが、人生をかけて密約の存在を伝えた。おつかれさまでした

Twitter 10:05pm · 25 Feb 2023
※この元ツィートが発見できなくなっています。消えたのでしょうか。

と呟きました。江川氏は、事の全てが西山氏の姿勢と評価して、このように述べたのだと思いますが、この「プロセス」という部分を巡って、手放しの評価はどうなのかという声が上がります。そこで“反論”として、以下のように呟きました。

西山太吉氏の「事件」については、憶測や印象、いつの間にか定着した”記憶”で語るのではなく、まずは澤地久枝さんの著書『密約』を読むことをお勧めします。当時の裁判も傍聴し、取材したうえで書かれた作品です。

Twitter 10:35am · 26 Feb 2023
※これも発見できなくなっています。

私は江川紹子氏のお薦めに従い、澤地久枝氏の「密約事件」も改めて読み直しましたが、若気の至りというか、後年の澤地氏の調査報道とは異なるトーンを感じて、違和感を覚えました。なんと言うか、若干、活動家っぽい。そう。

違和感の焦点は、ジャーナリスト業界では西山氏の取材方法は正しかった、とされている事です。でも、私は、その取材方法(文章の入手方法)に賛成できません。

彼が暴いた政府の密約は、肉体関係があった外務省の女性を通じて得た外交秘密文章を証拠としています。(これを江川さんは“プロセス”と呼んたのでしょう。)でも、私の理解では、その文章の存在前から関係があったのではなく、秘密になっている証拠が欲しかったので、その女性を口説き、肉体関係を結び、文章を入手した、という流れです。

結局、西山氏とこの外務省の女性は、逮捕されます。ジャーナリストの面々は、「政府は悪いことをしている。それを掴んだ。こんなに素晴らしいことを国民に知らせようと思っているのに、政府は不倫関係に焦点を当てて、国民の関心を逸らせようとした。けしからん。」と言っています。

でも本当にそうなんでしょうか。

朝日新聞の武田啓亮記者は次のようにツイートしました。

「正しい」やり方だけでは倒せない巨悪と対峙した時、どうするか。報道の世界には「目的が手段を浄化する」という考え方もあり、西山事件はまさにその一つだったように思います。「運命の人」に合掌を。

https://x.com/takedareporter/status/1629449192920719369?s=20

拠点系(※私的分類です)の青木理氏はテレビ番組で、以下のよう仰ったようです。

本来は『密約事件』あるいは『密約隠蔽(いんぺい)事件』」と西山さんのスクープ内容が注目されるべきだったと指摘。「国家のウソっていうものが問われなくちゃいけなかった本質が、ある意味で歪曲(わいきょく)とか矮小(わいしょう)化とか、本質がずれてしまった

daily.co.jp 2023.2.26 

私は、別に政府を擁護するわけでもなんでもありません。ただ、いずれにしても西山氏は「失敗」したのだと思います。そして、その取材方法が間違っていたので、
スクープが霞んでしまったのです。いわば自業自得。弁護士監修の性行為同意を記録するアプリが登場する今、西山氏の取材手法は正しかった、と主張するのは、無理があります。以下の2つの質問、どのような答えが期待できるのでしょうか。
Q1・あなたが「目的が手段を浄化する」と判断した権利または立場は、どうやって得たのですか?
Q2・「正しい」やり方だけでは倒せないという判断の是非は、どうやって確認するのですか?

NHKのインターネット業務の必須業務化に日本新聞協会が反対しています。経緯はここには書きません。新聞協会の意見としては、

「全国の地方新聞社からも「現状の業務でもすでに脅威であり、予算規模を考えると太刀打ちできない。これ以上拡大すれば事業が立ち行かず、地方から言論の多様性が失われかねない」といった危惧の声が寄せられている

日本新聞協会https://www.pressnet.or.jp/ 「NHKインターネット業務の「必須業務化」に対する意見」2023年7月24日

との事ですが、これって根本的に時代遅れというか、見当違いですよね。NHKのネット業務があろうが、無かろうが、新聞には先細り以外の運命はありません。

意地悪論破王・ひろゆき氏が沖縄県名護市辺野古の基地建設反対運動の現場を訪ねた際、座り込み抗議の参加者が誰もいなかったことから、「座り込み抗議が誰も居なかったので、0日にした方がよくない?」とツイートをしました。2022年10月の事です。抗議日数3011日と書かれた掲示板と無人の光景はインパクトがありました。

実態としては、「座り込み」とは、午前9時と正午、それに午後の3時の、基地工事現場の搬入口から埋め立ての土砂が運び込まれる時間に、その搬入口の前に「座り込む」ことを言うようです。つまり、1日3回の定刻に繰り返される、一連の“ルーティン化した“行動”だと、私も初めて知りました。

これを読んだ時に感じたのは、「あぁ、まだまだ運動家・活動家の人たちの中には独自のきまりってのがあるのだな」と言うことでした。

つまり、「座り込み連続○日と書いてあるのは、朝から晩まで○日間、ずっと座り込みをしていると言うことではなく、埋め立ての土砂が運びこまれるタイミングに合わせて行うことなのだ。そのタイミングをずっと続けているから、それを称して、(われわれは)連続ということなのだ。」という、彼らのルールを理解していない、ひろゆき氏はわかっていない人だということなのです。

彼らの周辺の方々はご理解しているのでしょうが、それ以外の人々には、そもそもルールの存在を知らないのだから、理解も何もありません。意地の悪い、ひろゆき氏は、そのルールをわかっていて揶揄したので、関係各所が激怒したのだと思います。

社会人に成り立ての頃、まだまだ組合活動というものが元気でしたので、スト中には組合の部屋に籠り、そこで社内電話でかかってくる「指令」を聞き、「張り出し」と呼ばれていた全紙大の紙に書くという“仕事”をいただいていました。私は、まず手元のメモに、「指令」を書き取り、電話が終わった後、紙にその「指令」を書き移しました。しかし、私は致命的な間違いを犯し、先輩に怒られてしまったのです。勝手に行替えしてはいけない、というルールを知らなかったのです。ちなみに、私の先輩は、学生運動というものに従事されていた(と後で聞いた)ので、学生の頃から当然のこととしていたのです。

つまり、電話の際に、先方は文章を読み上げながら、随所に「行替え」と行っていたことを思い出しました。私はその指示を、さして気にしていなかったので、文字の大きさを揃えて書けない上に、読みやすい文字も書けない私は、自分の都合で勝手に行替えしていました。でも、教わってないことはできませんよね。

私の小さな経験は別にして、ここまでの“騒ぎ”は、X(旧Twitter)やライブ配信、YouTubeを舞台として発生したものです。つまり、事程左様に、デジタル化とによって、閉じた小さな集団の習慣やルール、論理が外部に晒されます。そこで、世の中とずれていることに気づかないと、まず1アウト。さらに、疑問に答えないと2アウト。そして、疑問に納得できる答えが用意できないと3アウトです。

マスコミと分類される会社に勤めて、取材経験とそれを記事または番組にまとめたことがあるのでジャーナリスト経験あり、だから会社を辞めた後、フリージャーナリストと名乗り、会社に所属していた時と同様に取材行為をするというのは果たして正しいのでしょうか。私は疑問を感じます。

ジャーナリズムや報道を腐しているのではありません。ジャーナリスト(記者・ディレクターを問わず)とフリージャーナリストの再定義を行わなければ、ジャーナリズムへの信頼はますます失われていくでしょう。

少なくとも、世の中の人々が新聞を読まない、テレビを見ない、という事態は明らかに非可逆的な事態です。

そんな中、衆目に晒されるようになった行状について、理解されるように説明できないと、本当にジャーナリズムが必要とされる時に、世間にジャーナリズムの応援団としての力を借りることができなくなります。

「天に代わってお仕置きする」態度は、全くの時代錯誤で、自らの首を絞めるばかりです。「天に向かって唾する」だけです。

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