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道草の家のWSマガジン - 2024年6月号


お出かけやめた - Huddle

中庭のグランドカバーになっているクラピアが一斉に花をつけて、緑のうえに大きな雪片がバラまかれたような景色に、きょうもまいあさうっとりしなければならない。クラピアの花は小さいのにとても複雑なつくりになっていて、その構造をつぶさに覗き込むための若い眼がほしい。ゴールデンウィークに出かけるのをやめた。唐突に先月のことを振り返るコーナーだった。昨年はしまなみ海道をドライブしてまわったようだった。どの方角にも橋が眺められる展望台がすてきだったのに、今年はほとんど庭から出ていくことができない。この内側に積み上がっていくものはなぜだろう。ゴールデンウィークとは無関係に映画館や劇場にはほとんど行ったことがないし行かない。仕事で行くことはある。飽きっぽいとかいうのともちがうような気もしながら三桁分以上じっと座っていることが難しいことであると確認をして帰ってくることに毎度なるのを知っている。どうやってじっとするをつづけているのですか。じっと見る、いつもそこにある風景を、親しんで熟知していると思い込んでいる風景をこそ、日々あたらしいものにつくり変えていくような塀の中の往復50分のあさの散歩のなかで、Googleレンズをとおして名づけていく作業に没頭しすぎている。イヤホンから流れる朗読はもう聞こえていない。いつもの道を、知らない風景をさがして、一つひとつ名づけながら歩くこと。立ち止まるをくりかえすこと。新しい名前の先に新しい風景があった。知っていると忘れるが重なっていく。ズレていく。読むことや書くことは、ひとりでいることのできるひとの特権なのでしょうか。ひとりでいることができなくて寂しい。さようなら。


夏-6月 - のりまき放送

盛り付けられたお肉の写真はそんなに魅力的ではない。「一人前ならこのぐらいか」と思う。量を増やせば金額も上がる。悩んだ結果、「お得です!」と赤で強調されたランチセットを注文することにした。ドリンクバーで烏龍茶のボタンを押す。ゴボッと音を立てた後、茶色の液体と水がドボドボとコップに注がれる。烏龍茶の入ったコップを持って席へ戻り、一つを奥さんにコップを渡す。お肉はまだ来ていない。あー、やっぱりお肉は倍にしておいたら良かったかもしれない。烏龍茶を口に含む。少し苦みを感じた。最近はコンビニで烏龍茶を見ないなとふと思った。烏龍茶の味はずっと前から変わらないように思える。ある種の厳格さ。そこが良い。先ほど注文を取りに来てくれたお姉さんがランチセットを持ってきてくれた。「薄っぺらいな」とお肉を眺めつつ、トングでカルビをコンロの上に置く。ホルモンもその横に置く。しばらくして、ホルモンの脂がしたたり始めた。焼けるのを待っている間、男の子は成長すると「糞親父」と父親を罵るようになるという話をした。奥さんちではそうだったらしい。うちはそうではなかったなと思う。
夜、キックボクシングの練習へ行った。グローブをはめる準備をしている時、軍手を忘れたことに気がついた。グローブの中が汗で汚れる。それは嫌だが取りに戻っている時間はない。バンデージだけ巻いてグローブをはめる。湿気のせいか汗がいつもより出た。帰りに汗まみれのシャツのままコンビニに寄った。冷蔵庫からノンアルコールの缶を掴んでかごに入れる。娘の分のジュースも買って家に帰る。玄関を開けたら、タタタッと足音が近づいてくる。娘が顔を出し、「なにかってきの?」とビニール袋に顔を突っ込んできた。


犬飼愛生の「そんなことありますか?」⑱

そこのけそこのけ、あたしが通る。ドジとハプニングの神に愛された詩人のそんな日常。

「ロケーションフォト」
 その日、私は夫と某商業施設内の小さな植物公園のような場所にいた。昼時だったのでカフェのテラス席で食事をしていた。園内ではちょうどバラが見ごろでBBQ場では若者が嬌声を上げている。5月のさわやかな風と青い空。すぐそばは名古屋市の繁華街だというのに、鳥の声も聞こえ、ゆったりとした空気が流れている。私と夫は穏やかな気持ちでたわいもない話をしていた。カフェのテラス席は店の外にあり、だれでも利用することができる。私たちの隣に三人組の女性が現れた。座って食事したりおしゃべりするのかなと思っていたらどうも様子が違う。名刺交換をはじめたようだ。なんだ、ビジネスなのかな? と違和感を持った。まじまじと見るのもおかしいので私は夫と会話を続けていた。
 しばらくすると突然、私の向かい合わせだった夫の真横から「いいですよ~!」と女性が声を張り上げた。えっと思って、声のほうを見ると、さっきの女性のうちの一人が向こうに向かってカメラを構えている。カメラマンだったのか。被写体はさっき名刺交換していた中年女性。よく見るとこの植物公園の中でめちゃくちゃ浮く派手な服を着ている。ドレープが美しい長くて白いシャツ、艶のあるパンツ、そして凶器のようにとがったキラキラ光るハイヒール、真っ赤な口紅。カメラマンは黒いパンツスーツでいかにも仕事っぽい。なんだなんだ、いわゆるロケーション撮影か。っていうかさ、私たちが食事しているという事実は一切なかったかのような唐突な始まり具合。そして、まるで夫が邪魔かのような雰囲気でパーソナルスペースにがんがん入ってくるカメラマン。こちらは見ないようにするのは無理である。被写体の中年女性はこの大勢の利用客がいるなか、カメラマンにいわれるままいろいろなポーズをとっている。余裕な表情とメイクが料理家・平野レミ氏に似ている。あふれ出るオーラがまぶしい。そんなこと考えながらしばらく撮影を眺めていると、突然カメラマンに同行していた女性が抑揚のない声でこういった。「足までキレイです~」。なんだろう、テンポが悪い。一応、アシスタントのような役目なのだろう。そのあとも「ピアスがきれいです」。「クールビューティーです」。声が小さい。声にハリがない。お囃子係ならもっと元気よく言ってほしい。これでは被写体のもうレミって呼ぶけれども、レミもテンションがさがるんではないか。もしこのロケーションフォトの会社にマニュアルがあるなら、大きく赤で書きたい。「アシスタントの声かけはテンポよく、明るく、大きな声でモデルの気分をよくするような言葉をかけること。たとえそう思っていなくても!」。アシスタントさん、なんでそんなに抑揚がないんだよ。私ならこの人の10倍はうまく盛り上げられる自信がある。代わってくれ。妄想を捗らせているとそのアシスタントは「はい、輝かしい未来に向かって!」とちょっと大きな声で言った。どういうことだ。マニュアルに追加したい。「褒めるときは具体的に」。しかしレミは今日一番の笑顔を見せた。輝かしい未来に向かって。
 変な場面に遭遇するのが得意です。では、今月もご唱和ください。「本当にドジとハプニングの神は私を愛している」。


麻績日記「私たちの緊急事態宣言」 - なつめ

 移住して五ケ月が過ぎた。三月になり、もうすぐ息子も小学四年生が修了しようとしていた。この村で、息子は五年生になり、この村に居続けることができるのだろうかと、日に日に不安に思っていた。息子の体調の異変は、なかなか改善されず、眠れない日が続いている。週末に一度東京に戻り、以前診察しに行ったことがあった療育センターへ行くことにしようと予約を取ることにした。久しぶりだったが、すぐにでも予約を取ることが可能とのことで、担当の医師と三月中につながれることがありがたかった。その医師がこの三月に退職するとそのときに言われ、ギリギリ間に合ったのも、何か意味があることのように感じた。
 東京に戻り早速療育センターへ向かった。
「環境の大きな変化による精神的な負担が、今回の夜の頻尿と眠れない症状となって表れていますね。お子さんが持っている特性から、今の環境は相当厳しいと思います。本人が今一番安心できる環境を考えてあげた方がいい」
と、はっきり医師に言われた私は、
「ああ、やっぱり……(そうだったんだ)」
と、これまで判然としなかった息子の特性を、ここでしっかりと認識することができた。念願叶った夢のような移住生活であったが、息子のために再び東京の元の場所へ戻ったほうがよい、そう判断した。目の前にいる息子の心と体のほうが心配である。外からはわかりづらい息子の特性を、私以外の周りの人に理解してもらうことも、むずかしいことがよくわかった。息子は外で困ったことを外に出せずに、この五ヶ月間静かに耐え続けていたのだった。それに気が付いて、なんとかしようと今動いているのは私だけであり、この子を助けられるのは母である私しかいない。念願叶った夢のような場所であったが、このまま息子の異変をそのままにして、村の支援員として働き続けることが、私にはできなかった。息子には元気に楽しく過ごしてほしい、それはいつでも私の願いごとのそばにあった。

 麻績村に戻り、村でのゆったりとした生活に諦めきれない思いが揺れ動き始めた。東京に戻ることをだれにも言えないまま、私は学校に行っていた。そんなとき、六年生の卒業式がある前日の朝、息子は「おなかと腰が痛い」と突然言い出した。うずくまる様子で、「学校に行けない、体が動かない」と言う。私は、このような息子の姿を、東京での元夫との生活の中にも見たことがあった。当時、野球を習っていた息子は、元夫から毎日強制的に野球を練習させられ、練習試合の朝、試合に行くことを極度に嫌がり、泣いた。普段あまり泣かない息子が大泣きし、体が硬くなり、動けなくなったのだった。それでも練習試合に無理やり連れて行かせようとする元夫は、息子のことを朝から長時間「弱虫」だと責め続けた。私は何度も間に入り「今は無理だよ」と言い続けたが、この異常事態を理解できない元夫は、練習試合に行けない息子を、「そんな弱い人間でいいのか。もっと強くならないとだめだ」と言い続けた。元夫の思いの強さが余計に息子の体に異変を起こさせているということすら、気が付けない元夫。あの時と状況は違うが、息子は今、精神的な危機を感じ、体が硬直してしまった。これは、言葉にして気持ちをなかなか表出できない息子の体が緊急事態だと、私に訴えているのだと思った。息子の防衛反応として体の動きが抑制され、この日、停止してしてしまったのだ。今回のこの様子を、教頭先生に伝え、午前中だけでも休ませてもらうことにした。やはり東京に戻ならければならないのかと、まだこの村に名残惜しい気持ちでいっぱいだった私は、動けない息子のそばでこの緊急事態を受けとめ、静かに見守っていた。
 家での息子の様子など、私以外に誰も見たことがない。そのため、息子の体に異変が起きているということを話しても、外側にはあまり深刻さが伝わらなかった。感情を外に表出できない息子の困り感は、外側から見ても、本当にわかりにくいものだった。息子が内側で静かに抱えている困難さが、表情に出ていない。外では真面目に頑張っているため、深刻に見えず、大丈夫そうにいつも思われてしまう。困難さが伝わらない息子は、困っていても後回しにされ、今まで困り続けてきた。私はそのような姿を学校で見かけると、いつももどかしかった。支援員として気が付いたときに声をかけたくなるが、「学校内では息子さんに近づかないように」と校長先生に言われたこともあり、遠くからその様子を見ていることしかできなかった。
 卒業式の前日、全学年での全体練習で、私は校歌の伴奏を担当することになっていた。これが最初で最後のこの村の校歌の伴奏になるのかと思うと余計悲しくなっていた。午前中、少し休んで体が動くようになった息子は、午後から学校に行ける状態になった。私と一緒に学校へ行き、卒業式の全体練習に一緒に参加した。校歌の伴奏にも間に合った私は、村の子どもたちの元気な歌声をこの先も聴いていたいという名残惜しい気持ちでいっぱいになっていた。全体練習も終わり、職員室に戻るとき、私たちのことを心配してくれていた先生方から声をかけられた。そのような親切な先生方に突然「私たち、東京に急遽戻ります」ということがやはり言い出せない。私はこの現実を受け入れたくない気持ちになっている。そのとき、一人の先生が近寄って来て、私に何気なくこう言った。
「息子さん、体が動かなくなる不調が出るっていうことは、精神的に相当無理しているのかもしれないね」
と言われ、私の揺らいでいた心にグサッと釘を刺された瞬間だった。今年度で辞めるなら、今日中には言わないとならないということを聞いた。翌日の卒業式の後には離任式がある。私は校長先生に今すぐ東京に戻ることを伝えなければならないのだ。息子にとってはもう限界であり、周りの人たちと同じように、息子のことをのんびり様子を見ている場合ではないのである。息子の体に緊急事態が起きているではないか。私はここにいたい自分の気持ちを優先して、このまま留まることができない運命なのだ。麻績村で五ヶ月半生活したことによって、息子が抱えてきた特性をはっきりと認識し、今の私と息子に何が必要で、何が大切なことだったのかということがはっきりとわかった。
 この受け入れたくない現実を受け入れるしかない状況に追い込まれ、気持ちがグラグラしていたが、卒業式の前日に「東京に戻ります」と校長先生に伝えなければならない。言いたくないが、言わなければならない。まだ何も聞かされていない校長先生は周りの先生方と楽しそうに話している。私が誰よりも東京に戻ることを信じられない気持ちでいるというのに、息子の体の緊急事態と東京に戻る宣言をするために、校長先生に恐る恐る近づいて行く。支援員の仕事を続けたい思いが残っている私はグラグラしている心の蓋をギュッと閉めて、校長先生に恐る恐る声をかけた。
「校長先生、すみません。今すぐお話ししたいことがあるのですが······」
「お、どうしたの?」
と気さくな感じの返事をされた後に、少しキリッとした表情の校長先生の後ろについて、私は校長室へと向かった。


挿絵・矢口文「生息域」(紙、トレーシングペーパー)


高野山とふもとコーヒーフェスティバル(後編) - RT

行きと違うところを通って坂道を下って行った。空気が水分をたくさん含んでいて湿気のにおいがする。みるみると肌がしっとりしてくる気がする。天然の美容液だ。
小さな湧水の川が流れている木立の横に珈琲屋さんのブースがあった。こんどはお客さんが何人かいたからはっきりとわかった。長い髪に眼鏡をかけた哲学者のような珈琲屋さんはお客さんとミャンマーについて話していた。しばらく待つことにする。
少し離れたところにギターを持った女の子が座っていた。フレーズを弾いてみたり、あーあーと声を出して、どうしようと笑ったり、まさに今からライブが始まるみたいで、いいタイミングに来られた。道に迷った時間さえちょうどよかったと思えた。
珈琲屋さんの手が空いたようなので2杯注文する。椅子を勧めてくださったけれど、ライブを見ながらいただきます。と言ったら、楽しんでください。とにっこりしてくれた。
まだ人は集まっていなかったので、遠慮がちに、でもよく見られるところに立つ。栗色のショートカットでワンピースを着た女の子。うちの娘とそんなに年は変わらなさそうだ。微笑ましく見守っていたけど女の子が歌い始めた瞬間に心を持っていかれた。
1曲目は「オーシャンゼリゼ」
いつもなにかすてきなことがあなたを待つよ。という歌詞が今のわたしをとても励ましてくれた。自己紹介があった。いつもは大阪市内のライブハウスで歌っている、ステエションズというグループのCHANさんという人だった。のびのびと透明感があって、温かいような寂しいような感情を呼び起こしてくる独特の声を持っていて、話すことが苦手ですと呟いておられたCHANさんは、歌という言葉に出会えたのだと思った。

お地蔵さまのところにおられた中本さんという珈琲屋さんも、すごく考えてから言葉を話される人だった。
この世の中では明るいことがよいとされて、打てば響くように言葉を返さないと変な人だと思われたりする。こどもの時緊張したら話せなくなって小さな声しか出なくて何度も聞き返されたわたしはいつの間にか大きな声で話す人になっていて、自己主張もできるようになって、そうしないと自分を守れないと思っていた。でも鬱がひどくなって無職になり、今までの頑張り方で合っていたのかわからなくなっていた。
カフェをやりたい気持ちは変わってはいないけれど、てきぱきしなければいけないだろうし、お客さんと話もしないといけないし、自分にはやはり無理だと思っていた。
でも中本さんがゆっくりと茶道のように淹れてくれたコーヒーを飲んで、ぽつりぽつりと話すのは心地よかった。
CHANさんの歌の合間に、隣の人が「このロケーションがすごいですよね。」と話しかけてくれて、改めて見るとCHANさんの真後ろには茶色い土の崖がそびえたっていて、「ほんとですねー」と笑って見上げた。わたしは人と話すのが嫌いじゃなかった。心から出てくる言葉は話せるんだ。
ハナレグミの「家族の風景」のイントロのギターが始まった時、カップルで来ていた女の人が感極まったように口を押えた。ファンなのだろう。わたしもこの歌好きだ。
時々軽トラが通って、ハイキングの人がこちらを見ながら通って、電車の汽笛が聴こえて、CHANさんの歌声に呼応するようにウグイスが鳴いて。
誰も電車の時間とか言い出さなかった。
歌に集中しすぎてコーヒーの味をあまり覚えていないのがちょっとだけ残念。香りがよかった。新大阪でお店をしておられるという会話を小耳に挟んだから行きたくてパンフレットを確認したけどお店の場所も店主さんの名前も書いておらず、ミャンマーマンダレー地方とだけある。幻のような出会いだった。
ステエションズのオリジナル曲の歌詞がとてもよかった。ライブに行ってみたい。YouTubeのQRコードを載せたチラシを1枚もらって、駅に向かう。もうかなり満足していたけどまだまだチケットがある。次はお店指定のチケットで喫茶るりゑさんと里山コーヒーさんを目指していく。
3駅しか乗らないのに結構長かった。がたんごとん揺られて山を下って行って、高野下の駅で降りる。山の中から来たから高野下が都会のように思えた。降りる人も多い。改札のところで若い女の人に、どうぞ。と言って先にいってもらおうとしたら相手も、どうぞ。と言ってくれて、主人までどうぞと言い出した。すみません。と笑って先に通してもらった。女の人も笑って、次にすれ違った時は挨拶してくれて、なんだか知り合いになったみたいで楽しかった。
るりゑさんと里山コーヒーさんは椎出厳島神社の境内に出店しておられた。椎出の鬼の舞で有名なところだそうで、名前だけは聞いたことがあった。るりゑさんのコーヒーを1杯いただいて、立って飲んでいたら、地元の関係者の方が、どうぞ建物の縁側に座ってくださいと声をかけてくれた。
縁側は少し高いところにある。境内がコーヒーの出店や野菜の販売で賑わっているのを一望しながらコーヒーを飲む。美味しい。すっきりした味わい。おばあちゃんの家にいるみたいなくつろげる縁側で、寝転がりたいくらいだった。目の前に斜めに生えている巨大な松の木があって、すごいバランスやなあと感心した。たくさんの根を張っているのだろう。どうして斜めになったのだろう。お日様の光を浴びたかったのかな。
次は里山コーヒーさんに行こうと思ったら主人がチケットをどこかで落としてしまったらしくて、そろそろコーヒーに満足したし、あと2枚あるフリーのチケットで九度山駅の燕珈琲さんに行くことにした。
燕珈琲さんは初めて聞くコーノ式というドリッパーを使っているそうで、若い女の子たちがコーヒーの淹れ方やカフェづくりについていろいろ質問していた。淹れ方をじっくり見せてもらった。穴が大きいからドバドバっと一気にいくのかなと思ったらお湯を細くゆっくりと落とされる。なるほど。いろんな淹れ方があって面白い。スコーンを一緒に購入してベンチに座って飲んだ。すっきりしてゴクゴクと飲める。軽やかなワインみたいな感じ。主人が今日飲んだ中で一番好きな味だと言った。スコーンも美味しかった。
ミャンマーの豆は販売していなかったけどペルーの豆を置いておられたので一袋購入した。お店は島根にあるそうで、近所にあったら通いたいくらいだった。
九度山の駅から車まで戻る。また柿の葉寿司屋さんの前を通ると、「売り切れ」の旗が立っていた。晩御飯にしたかったのに残念だと思ったけど、道の駅の産直のお店に寄ったらそこのお店の柿の葉寿司が置いてあって大喜びで買ってきた。

なんてたくさんのコーヒーを飲んだ日だっただろう。自家焙煎とひとくちに言っても同じ味はなくて、ミャンマーの豆の中でもこんなに違いがあるんだ。わたしは飛行機が苦手だから現地の農園に行けるとか考えてもみなかったけど行けるなら行ってみたい。煎り方ももっと勉強してみたい。焙煎の機械にも興味がある。コーヒーが好きな気持ちが高まる一日だった。また秋にも高野山で同じイベントがあるらしいのでカフェ講座のお友達を誘いたいと思うんだけど、一日にコーヒーを一杯しか飲まない主義らしいので一緒に来てくれるかな。

車に揺られて少し眠くなって、だんだん緑が色褪せた黄色の枯草に変わって、いつもの見慣れた町の風景に戻る。
少し前この町に戻りたくないと思うことがあった。気晴らしに出かけた自然の中で息をしていたかった。
いま、この町の中に息をしやすい場所を作りたい。わたしと同じような息をしにくい人が、ふっと肩をゆるめられる場所を作りたいと思う。

どこがゴールなのかまだ見えない。道があるのかもわからない。ただ、ゆっくり、ゆっくり。だからもう少し生きていたいと思う。


「もうミスチルとか聴かないでしょ?」 - 橘ぱぷか

久しぶりに会った高校の同級生に言われたとき、なんでかわからないけれど胸の奥がヒュンとした。
別れた後もしばらくそのことが頭によぎって、そのたびにヒュンがやってくる。この気持ちはなんだろう。

高校生の頃、とてつもなく大好きだったミスチル。毎日毎日擦り切れそうなくらいにCDやMDを聴き続けた。それが何年か続いたのち、ある時ぱたりと波が去った。でもそんなこと、久々に会った彼は知らない。なんでわかってしまったんだろう。

その頃は「好き」が目まぐるしく変化している時期で、音楽に限らず本も映画も、あらゆる選ぶものが変わっていくときだった。
あんなに昔好きだったのに、心に響かなくなってしまったたくさんのものたち。それを自覚するたびに、なぜだか小さくショックを受けた。それがヒュン、の正体かもしれない。

月日は流れて30の春、その節目みたいなものが再び私の元にやってきた。でも以前とは違って、変わっていったというよりも変わらざるを得なかった、の方が正しいかもしれない。
待ったなしで始まった赤ちゃんとの毎日。大きく変化した生活スタイル。戻らない体型。似合わなくなったたくさんの服たち。なぜだか読めなくなってしまった小説。
テレビで観るのはいつも、子ども向けのコンテンツだったし、スマホを開いては「赤ちゃん 寝ない」とか、「夜泣き いつ終わる」とか、子育てのHow toばかりを調べていた。

それでもこの時の私はヒュンとは無縁だった。その理由を探してみては、それどころじゃなかったのかなあ、なんて思ったりもしたけれど、たぶんそれはそうなんだろうけれど、それだけではないような気がする。
そうして思い至ったのは、ああそうか、この時変わっていったのは私だけじゃなかったんだな、ということだった。

ただ泣いているだけだったのに、私のことや周りのことが少しずつわかるようになって、そのうちにあやすと笑うようになった。首が座ってコロンと寝返りが打てるようになって、はいはいができるようになって、自分の意志であちらこちらへと動けるようになった。
その変化が嬉しくて、反対に自分がいつまでも変わらないようでかなしくなったりもしたけれど、だからこそ自分に起こった変化のようなものにかなしみだけではなく喜びも見出せるようになったのかもしれない。
たとえば子育てに関するような物語にめっぽう弱くなって、自分でも引いてしまうようなタイミングで泣けてしまったとき。子どもに関するセンサーが自分の中に新しく備わって、その方面の感受性がふくふくと豊かになったのかもしれないと、嬉しかった。

変わってしまったのではなく、更新されただけなのかもしれないな。何かを知り、体験が増えていく中で、心の琴線のようなものは新たに広がっていく。年月とともに失われてしまうものばかりに目を向けてしまっていたけれど、決して硬直してしまったのではなく、感受性もまたアップデートされ続けているのだ。

いつでも「今」が1番だと思っていたい。あの頃は、なんて言う無粋な大人でありたくない。
変化を楽しみ、今がいつだっていちばんいいんだ、という自分でいたい。
変わってしまったところを時折なぞって、慈しみながら。


もう消えぬお腹の上にある軌跡トツキトウカの私の勲章



生理と神秘 - UNI

某月某日、わたしは地元の教育委員会とのミーティングに参加することになった。ということは、児童・生徒の教育、健康、安全等について話し合うということである。わたしには子がいない。こういうミーティングに非親が参加したことは、かつてあっただろうか?

親であるか否かはさておき、すべての人の困りごとができる限り解消されることをわたしは望んでいる。親目線や育児経験は持ち合わせていないが、そういう気持ちで同席した。

子どもがいない、ということについて、多くの人が「それでもね」「あきらめないで」という真矢みき顔をすることを私は何度も経験してきた。一度は絶望の表情を見せつけられたことだってある。あれには腹が立ち、やがて可笑しくなってしまった。持つ人が勝手に抱く幻想の結果が絶望であり、持たざる者からするとただそこに無いという事実でしかない。先日は「四十代ならまだ産めるでしょ」と言われ、わたしの健康はどうなる? とまた可笑しくなってしまった。医学の力によってぎりぎり産めたとして、その後の子育てはどうするのだ。あいにくわたしは五キロの米袋だってできれば持ちたくないくらい非力である。もちろんそれ以前に相手がいない。

さて教育委員会とのミーティングである。
わたしは自分の経験から伝えられる、学校での生理用品の無償提供について話をした。教育委員会のメンバーは五人中四人が男性だった。生理用品について回答をしてくれたのもわたしと同年代に見える男性だった。的外れなことや過剰に気を遣ったような発言は無かったが、それでもやっぱり「違うねん。一回一緒に生理について語り合おっか。三時間ください」というような空気をまとわせていた。しかしそれよりもわたしの心に残ったのは、同席していた女性団体のメンバーのひとりによる「生理というのは恥ずかしいものではないんです。生命の源、神秘なんです」という発言だった。たしかに生理があることによって、次の命を生み出すことができる。しかしそうなのであればわたしは生命の神秘を何十年も垂れ流すだけの「意味無し星人」になってしまう。ありがたい神秘を授けられた身体の価値を無いものにする。なるほど、子を持つ人たちが時々わたしに絶望のまなざしをくれるはずだ。無いものは無い。子どもが生まれなかった。ただそれだけ。そこには神秘も何もない。生まれるところに生まれ、生まれなかったところには生まれなかった。わたしは「意味無し星人」ではなく、ただ生理のある人間だ。児童・生徒には生理に神秘性もありがたみも尊さも何も持たせずに、ただ垂れてくる経血対策を充実させてほしい。

わたしは中学一年の頃からすでに生理痛に苦しんでいて、中学三年では授業中に膣あたりに針で刺されたような痛みがあり、それについては説明する術を持たず、こんなものがあと何十年も続くのかとただ静かに悲しんでいた。四十代になっても相変わらず毎月痛く、「痛みがあるということは尋常じゃないんですよ。病気の可能性が」と見聞きしたものの、病院にいっても特に異常は見つからない。避妊リングといわれるミレーナ装着を考えたこともあったが、経産婦でないとかなり痛いということや、体内にプラスチックを入れることを考えると、踏み出せない。ピルは体に合わなかった。閉経を待ち望んでいるが、あれはあれでホルモンバランスが乱れて大変だと聞く。八方ふさがり。とはいえ、神秘~、プラスチック入れたら神秘止めれるんだってよ~。絶望女にこの話をしたらどんな表情になるのか、見てみたい。

真矢みき顔や絶望女、産めるでしょ女が今までの人生に多く出現しすぎて、書いていたらどんどん口が悪くなりそうだし、なんなら子を持つこと自体も否定したくなりそうなので、ここで踏みとどまろう。
子がいなくてもわたしは地域の教育委員会にかけ合うし、道でスキップしている少年を見つけたら「お、楽しそうやな!」と声を掛ける。わたしがおばさんでもおじさんでも子育て経験があってもなくても生理があってもなくても、大体のことには関係がないでしょう?

今度ミーティングで「神秘」という単語が出てきたらニヤニヤしないように気を付けます。


彼女たちの声 - 坂崎麻結

わたしには何人かの友だちがいる。そのほとんどは同年代の女性たちだ。ただ会ってしゃべったり、一緒に何かを食べたり、ものをつくったり、近況を報告しあったり、生まれたばかりの子どもに会わせてもらったりする。そのなかで、ほんの一瞬、ごくたまに、お互いの内側に触れるような時間を持てることがある。口から発するのではなく、心から発する声を聞かせてくれるとき。

それは、彼女たちが書いた文章を読む瞬間だ。日記のような、エッセイのような、詩のような、ときに小説のようにも読める言葉の連なり。どこかに発表されることもほとんどなく、そもそも文芸作品を書こうという目的で書かれたものでもない。ただ、書かずにいられなかったから、書かれた文章だ。「もし良かったら、時間があるときにでも読んで」と彼女たちは言う。わたしはそれを読む。そのどれもが、思わず泣きそうになるほど(わたしは実際に電車の中で泣いた)、すばらしい。優れた作家の書いたものと同じくらい、いや、作家の書いたものなんかよりもずっと、本当の文章だと感じる。10年以上、書くことを仕事にしてきたはずなのに、わたしはそんな文章を書けたことが一度もないような気がする。

彼女たちが書くのはささいな出来事だ。家族のこと、自分のこと、くり返し見る夢のこと、誰かが亡くなったときのこと。病気のこと、性のこと、喫茶店で隣に座った人たちの会話、旅の思い出、子どもの頃の記憶······。何かを失ったり、ひどく傷ついたことも、そこには書かれている。わたしはそれを読みながら、そのひとつひとつの生々しさをすべて感じとる。初めて知る出来事も、よく知っていることのように感じられて、ひどく懐かしくなり、大声で泣きたくなってくる。

文章とは何なのだろう。文芸とは作家だけのものなのだろうか。彼女たちこそが小説だとわたしは思う。こんな宝石のように美しい作品を、もっと大勢の人に読んでほしいとも思うし、自分だけのものにしておきたいとも思う。それから、自分も書くことをやめてはいけない、書きつづけなくてはいけないと感じる。彼女たちの声はわたしの内側で、ずっと消えることなく、今もそのままの姿で光っている。


小(さな)説の入り口 - 下窪俊哉

 自分の作品です、と言えるようなものを書き始めたのは、26年くらい前、19歳の頃だった。書きたかった。しかしなぜ、何を書きたいかは、わからなかった。とりあえず頼りになったのは夢ではなかったか。眠っているときに見るあれだ。まず、夢を書いた。あとは見聞に想像を膨らませて書いた。しかしなぜ、それを自分が書かなければならないのかはわからなかった。

 書くべきことなど自分には何もないように感じていた。何もないと話したり書いたりした。いま思うと、本当になかった。全くないわけではなかったと思う。大切なものはあった。それを書けるまでには、時間が必要だったのだろう。それまで何を書けばよかったのか。何もないということの周りを書いていた。そこには、小説や詩やエッセイという方法が──方法論があった。

 いま書けることがないのに、方法論だけあって、どうする? と思ったこともあった。

 そんな若者であった私に、当時70代だった小川国夫さんはこんなことを言った。
「下窪くんは天井にひっついているその会話文を、できるだけ下におろしてきて」

 会話を書くときには、いつも何かふわふわとした感じがしていた。
「あ、そうか」
「だよね」
「うん」
 というふうにボンヤリやってゆけば小説の原稿は先へ進められるのだが、内容は薄いものになる。もっと下に「おろせ」と言ったのである(縦書きの原稿なので、書いてゆく方向は「下」になる)。
 もっと語らせよ! というわけだ。
 しかし当時、私のなかには語れるようなものが圧倒的に不足していた。無理して書く。苦しかった。
 しかしいまとなっては、あの「何もないが語ろうとした」若き日の経験が、自分を支えているような気もするのだ。

 いま、45歳となった自分は、それなりの人生経験を得て、受け取ってきたものがたくさんあり、それをある程度は自覚している。いまこそ書けばいい。しかし、それでも書きにくいことはたくさんあるものである。

 語れることはたくさんあるが、しかし、小説でしか書けないことがある。──そのことが、いま、ようやく身体感覚として理解できるようになってきた。
 書く/書けることがないなかで、それでも書くものが小説だったのである。

 では、書き手にとって、その小(さな)説とは何なのか。よくやく入り口までたどり着いたような気がしている。


表紙・矢口文「寄合ワンダーランド」(包装紙、紙袋、封筒など紙)


巻末の独り言 - 晴海三太郎

● 今月もWSマガジンをお届けします。暑いような涼しいような、春のような夏のような、そんな日が続いていますが、暦の上では今月から夏だそうです。● いつでも、誰でも書いていい。何てことのない、ツマラナイ原稿でいいから、とりあえず書いて、置いておき、読んでみる。そんな〈場〉をつくろう、と始めてから今月で19回目になります。このWSマガジンが一体どんな〈場〉なのか。徐々に語ってみてもいいような気が、少しだけ、してきています。● その参加方法は簡単で、まずは読むこと、次に書くこと(書いたら編集人宛にメールか何かで送ってください)、再び読むこと、たまに話すこと。全てに参加しなくても、どれかひとつでもOK、日常の場に身を置いたまま参加できるワークショップです。● 書くのも、読むのも、いつでもご自由に。現在のところ毎月9日が原稿の〆切、10日(共に日本時間)リリースを予定しています。お問い合わせやご感想などはアフリカキカクまで。● では、また来月!


道草の家のWSマガジン vol.19(2024年6月号)
2024年6月10日発行

表紙画と挿絵 - 矢口文

ことば - RT/犬飼愛生/坂崎麻結/下窪俊哉/橘ぱぷか/なつめ/のりまき放送/Huddle/晴海三太郎

工房 - 道草の家のワークショップ
寄合 - アフリカン・ナイト
読書 - よまないぞの会
放送 - UNIの新・地獄ラジオ
案内 - 道草指南処
手網 - 珈琲焙煎舎
喫茶 - うすらい
準備 - 底なし沼委員会
進行 - ダラダラ社
雑用 - 貧乏暇ダラケ倶楽部
心配 - 鳥越苦労グループ
謎々 - 腹をすかせたパンダが、手にできてしまうものは、なーに?
音楽 - 鼻歌オーケストラ
出前 - 残り物食堂
配達 - 一輪車便
休憩 - マルとタスとロナとタツの部屋
会計 - 千秋楽
差入 - 粋に泡盛を飲む会

企画 & 編集 - 下窪俊哉
制作 - 晴海三太郎

提供 - アフリカキカク/道草の家・ことのは山房

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