道草の家のWSマガジン - 2024年7月号
旅の話 - 木村洋平
「旅とは健やかに生きること。このことをけっして忘れないように。」これは私がいつかノートに書きつけた言葉だ。
旅は非現実、非日常の感じがする。10代の頃から旅を好きでいながら、どこかで畏れ続けてきた。
はじめ、私の旅は一人旅だった。10代20代の頃、一人であてもなく歩くことを旅だと思った。けれど、次第にそれをただの観光、娯楽、趣味にすぎないと感じるようになってやめた。
次に移住をした。北海道の風土に惹かれ、札幌に賃貸で住んだ。その時、ある仕事に取り組んでおり、生きるか死ぬかという気概でそれに挑んだ。しかし、その気概はともかく、「仕事上、どうしても札幌に住む必要がある」とは言えなかった。それが違和感として残った。
やがて、私の旅は出張になった。仕事で行く必要がある場所に行く。ついでに街を歩き、知人・友人に会う。これは今までの旅よりもよい旅だと感じられた。
「旅に出る。」──この言葉には、ときどき病んだ気配がただよう。傷心旅行や自分探し、なにかをリセットする旅などに私たちは後ろめたさを感じるかもしれない。ぜんぶ人生なのだから、よい・悪いを言うつもりはないとしても。また、旅の持つ「現実逃避の感覚」に戸惑うこともある。
私は、他人の旅にはなにも思わないけれど、自分の旅はもっとよい旅でありたいと思ってきた。では、なにが「もっとよい」旅なのか。
冒頭の言葉に戻ると、「旅とは健やかに生きること」。そして、私はよい仕事がしたい。仕事をすること、自分に与えられた役割を果たすことが健やかに生きることだと私には感じられる。
だから今は「ただ働いて死ぬ。それで事足れり」と思うような生き方が、私にとってリアルな旅だ。結局、一周して元の場所に戻ってきた気がする。
「藤橋」覚え書き その2 - スズキヒロミ
屋根の上に並べ乗せて建物を守る瓦は、この国で古くから作られてきた焼き物のひとつだ。古代から平安にかけて、バケツを伏せたような木型に布を被せ、その上から粘土を叩きつけて瓦の形を作っていたという。こうして出来た瓦には凹面に離型のための布目が残るので、布目瓦と呼ぶこともある。
昭和45年6月、郷土史家の青木忠雄は、古代の布目瓦を所持しているM氏宅で調査中、M氏の所蔵する3冊の古文書を示された。M家は江戸時代、村方の役を代々務めた家柄だったという。
青木はM氏と共にその文書を読み解き、それが藤橋の建立に関わる当時の文書である、ということを確認した。驚いた青木は、M氏の了解を得て、直ちに市の教育委員会と、当時進められていた市史編纂事業の担当者たちとに通報した。
知らせを受けた彼らは、青木にこの古文書についての報告書を執筆するよう勧めた。それが『大宮市文化財調査報告第5集』掲載の「鴨川の旧藤橋と行者小平次-建立記録と金石文-」である。
藤橋建立の事情は、それまで言い伝えだけでよく分かっていなかったが、青木が紹介したこの史料により、言い伝えがある程度の事実に基づいたものであったことが示されて、藤橋を知る人々を驚かせた。
今日のこと - RT
週末たくさんの予定があって張り切ったせいか月曜から寝込んでいて、昨夜WSマガジンの原稿を書くことを諦めた。気分5点。今月はお休みしようと思って10時には寝てしまった。朝の光で6時頃に目覚めて自分の腕がぷにぷにしてひんやりして気持ちいい。気分30点。朝ご飯を食べる。白米と焼いたウインナー3本、水茄子の金山寺味噌。去年から始まった金山寺味噌ブームはまだ続いており、そろそろ買いにいかないとと思う。
昨日友達と出かけて軽く熱中症になったらしい娘がまだ頭が痛くて今日は仕事を休むという。食欲が無くてサラサラのバナナジュースなら飲めそうというのでバナナ1牛乳1の割合でミキサーにかける。なんとなくバナナを買ってあってよかった。気分は40点くらい。
お昼から雨らしいから一回だけ洗濯を回そうと思った。夏の掛け布団もついでに洗っとこう。2時間くらいで乾くだろう。
うちのベランダは日当たりがよくて靴下とか小物を干す洗濯ハンガーに付いている洗濯バサミが劣化してきて全部パキッと折れてしまった。仕方ないからこのごろ傘みたいな洗濯ハンガーに靴下をひっかけて干している。今日もお気に入りのシースルーの靴下を干した。
カッターシャツも洗っとこうと思ってもう一回洗濯を回したところで眠気が襲ってきて横になった。
シワ伸ばしコースというのにしたけど起き上がって早く干さないとシワだらけになってしまう、でも起きたくない、涼しい部屋でずっと眠っていたい、雨が降る前に買い物も行かないといけないのに。動けない自分を責める。気分マイナス10点。
ごろごろしながらスマホを触っていたらWSマガジンのお友達maripeaceさんからDMが届いていて嬉しくなった。気分60点に急上昇。
起きて買い物に行こうかな。
カッターシャツをパンパンと伸ばして干して、日焼け止めを塗って、日傘も持って、娘が何かのお金の振り込みをしたいというから、代わりにやってきてあげることにした。お昼は鮭とイクラのお茶漬けを作ってあげるね。と言ったら喜んでいる。甘い親だと思うけどもう大きくなった子供にしてあげられることはご飯を作ることくらいしか無いから美味しいものを食べさせてあげたい。
日傘を差して歩き始めた。風が強い。すぐに畳んだ。帽子被ってきたらよかった。サンダルがなんかきつい。足が浮腫んでるのかな。風が吹いているから涼しい。びゅーびゅーと音がするくらいの風だった。
ここまで吹くとさっき干した靴下が風で飛ばないか気になってくる。娘に電話して取り込んでもらおうかな。まあ、帰ってすぐ取り込んだらいいか。
いつもお参りするお地蔵さまの方に行こうと思ったら工事の警備員さんが立っていた。このごろあちらこちらで工事をやっていて道を変えることにする。ちょっとムッとして気分30点に下降。
まずコンビニで振り込みを済ませて、鮭の腹身のアラを売っていそうなスーパーに行った。今日は無かったから骨無しの生切り身を買った。イクラを探し回ったら最後の1パックだった。よかった。青じそも買った。
先日レストランで食べた水茄子とチーズのサラダが美味しかったから塊のチーズをスライサーで削って真似したかったけど売ってなくて、モッツァレラチーズに変更した。
生活費の口座の通帳を記帳しに銀行に寄る。うちは主人がお給料を管理して生活費を振り込みしてもらうやり方でやっていて、先月ボーナスが入ったから臨時振り込みをしてくれていた。気分アップ。と思ったのに歩き始めたら突然雨が降ってきた。家まで15分くらいかかるから雨宿りして帰ろうかな。でも降り出した雨が止むとは限らない。このまま帰ろう。
晴雨兼用傘を持っているけど両手は荷物で塞がっている。しかも風が強いときている。この傘は風に弱いから無理だ。気分がヒュルヒュルと下降していくのを感じる。でも雨のおかげで涼しくていいわ。もうちょっと早く家を出ていたら濡れずに済んだんだけど。悔しい。
歩いていたら雨が止んでまた暑くなってくる。体がついていけなくてもうくたくた。やっと家に着いて濡れた荷物を降ろしたら娘が洗濯物取り込んどいたよ。と言った。
ありがとう。靴下飛んで無かった? と言ったら、飛んでた。という。娘のオレンジの靴下の片方とわたしの靴下両方が無いという。
なんてこと。やっぱり電話すればよかった。娘がベランダから下を見たらお隣さんの車の横にママの靴下が落ちてると言った。
階段を駆け下りて見に行ったら娘の靴下もあった。小声で失礼しますと呟いて拾わせてもらう。でもあともう片方が見つからない。このごろ一番気に入っている紫の地模様付きのシースルー。地面に這いつくばって車の下も覗いてみたけど無かった。
雨には濡れるし靴下無くなるしもう本当に最悪。点数測定不能。ついにブーブーとご機嫌判定機が振り切れた。
でもご飯を作ると約束したからには仕方ない。鮭に強めに塩をして焼き始める。いい匂いがしてきた、絶対美味しくなりそう。
ご飯に、ほぐした焼き鮭とイクラと刻んで塩揉みした青じそ、刻み海苔、あらぎりわさび、昆布茶を一袋振りかけてお湯をかけた。娘が美味しそうと声をあげて、わたしも出来上がりにかなり満足していた。
自分で言うのもなんだけどかなり美味しいものができた。食後に白桃入り杏仁豆腐というのを食べて、人工的な香り。でも美味しい。桃と杏の烏龍茶も飲む。これも人工的な香りやけど美味しいね。桃と杏って合うんやなあ。
お隣の車が出る音がする。もう一回靴下が落ちてないか見せてもらおう。ベランダから覗いたけれど靴下は無かった。
でもお向かいの辺りに茶色い生き物がいる。猫かな? 猫じゃない。イタチだ!
大声のテンションで、でもうんと抑えた小声で娘を呼ぶ。ベランダには一組しかサンダルがないから片方娘に履きなよ! って言ってもう片方は裸足で、とにかく急いで、でも静かに、静かに。
イタチは上から見られている事になんて気が付かないみたいにキョロキョロして、トコトコと家の裏の方に走って行った。すごく小さくて可愛かった。
靴下無くなったのは嫌やけどさ、無くなってなかったら今ベランダから下を覗く事はなかったよね。
今日のことを文章にしてみようかな。と言った。
会えた日のこと - 橘ぱぷか
6:30 陣痛? 痛みを感じる。いきなり間隔が10分くらいなことに気がつく。でもまだ全然余裕。
11:30 病院に電話。
12:30 病院到着。NSTと診察。陣痛が来てるかも。生まれるのも近いでしょう、とのこと。もしも前駆陣痛でおさまってしまったら、予定通り来週検診に来てね、と伝えられる。もっと規則的な痛みがくるまでの間、一時帰宅。
たまたま来てくれていた父と母と、オムライスを食べて豆乳ミルクを飲む。
16:00 間隔が約5分になってくる。
17:00 痛みが強くなってくる。
18:00 病院に電話。とりあえず1時間様子を見て、もっと痛みが強くなったらまた連絡してね、とのこと。
母が買ってきてくれたシュークリームを食べる。おいしい。
19:00 夜ご飯に母の作ってくれたそうめん、塩おにぎり、わかめのおにぎり、あとメロンとスイカをお腹いっぱい食べる。
安産を願って赤富士をみんなで描く。空いた時間で、ひたすらマタニティビクスの動きなどをする。
19:40ごろ 写真をみんなで撮る。家の周りのお散歩に、とんちゃんと2人で。月がきれい。
陣痛がくると立ち止まらなければ耐えられないくらい、痛くなってくる。
20:03 病院に電話。陣痛の時に喋れない、動けないのが目安なので、支度して来てください、とのこと。車で向かうも、揺れるたびに痛すぎてつらい。
到着後、すぐに内診。まだまだだね、と言われてショック。こんなに痛いのに! NSTのお部屋へ。腰が痛い。イライラしてくる。どんどん痛くなる。
入院決定。
23:30 待機室移動。抱き枕を持ってこなかったことを激しく後悔。腰痛すぎ。おなか痛すぎ。部屋にあるビーズクッションに身を委ねてみるけれど、沈むのが嫌。ちょうどいいクッションがとにかく欲しい。あと、右と左と両方の腰をさすって欲しくてたまらない。円を描くようにマッサージしてもらうと楽。テニスボールを持ってきたらよかった。
力を抜くように、と言われるけど難しい。わかってたはずなのに想像を遥かに超えるほど痛くて、ひたすら弱音をはき続ける。つわりみたいに気持ち悪くなって、バケツなどに戻す。戻してしまうのは、産まれるのが近い証拠なんだよー、と助産師さんに言われて、希望を感じる。
1:30 まだまだ、と言われて絶望。あとどのくらいで生まれるのか、進みは順調なのかということを聞き続ける。助けてよー! と心の底から思う。つらすぎて、「たすけてほしい」と口に出してみる。助産師さんに、「お手伝いはできるけど、たすけられないんだよ。じぶんでうむしかないんだよ。」と言われる。そんなのわかってるよ! と心の中で毒づきながらも、そりゃそうだよね、と腹を括る。
友達から聞いた、スピーディーに分娩できたエピソードを思い出したり、2人目3人目を産んだ人たちのことをひたすらにすごいと思う。こんなに痛いのに。なぜ私は無痛分娩にしなかったんだろう。
スムーズにいかないのは腹筋がないからなのかなーとぼんやり思う。腹筋がバキバキに割れてたりしたらいい感じに力が入るんだろうか。
痛い時、呼吸をリードしてもらえると楽。助産師さんがいると、陣痛永遠感が減る。
3:00前 まだ破水してないからと言われ、絶望。破水を希求する。
希望が叶い、無事破水。分娩室へ移動。嬉しい。
3時すぎ 破水のおかげでお産が進み、4時には生まれる、と聞いて光が見える。でもあと1時間もあるということに気がついて、もう何度目かの絶望。激しく痛い。イライラする。息み逃しがつらい。
4時 もう息んでいいよー、と言われてびっくりする。なのに全然出てこないから、もう生まれてこないのでは、自分のいきみが下手なのではと悲しくなる。バキバキに心が折れる。
最終段階になったら先生が来る、というのを雰囲気で感じ、全然来ない事に絶望。精一杯いきんでいるときに、助産師さんがお支度しているとつらい。生まれるのはまだまだ先なんだと思い知らされるから。
手を握り、とんちゃんが一緒に息んでくれた。ふたりで産んでいるような感覚。優しい。
早く産みたい一心で、いきみに集中。それにもかかわらず、なんか、もっとかかりそうだね、といった雰囲気をまたもや察知。絶対早く産む、と心の中で誓う。でも疲れてきてうまくいきめない。いきまないときは脱力を心がける。助産師さんに褒められるともう少し頑張ろうと思える。
4:41 出産。頭が引っかかる感覚。ついに先生が登場! 心が沸き立つ。希望が見える。
突然、いきまないで、下を見て! と言われて、そんな無茶な! と思ったら、やさがでてきた。ほぎゃあとかわいいこえで泣いてた。ふしぎなきもち。思ったよりおおきくて、しっかりしてる! 髪も生えてる。とんちゃんに似ている。
本当に産んだんだよなーっていう感覚、ほわほわ。
とんちゃんがもう限界! と言って、側にあったマットに横たわり、寝る。2人を見比べる。やさと同じ寝顔で面白い。
眠いのに、頭が冴えて眠れない。モニターのブザーが鳴るたびに心配でやさを見る。助産師さんたちが、少し呼吸が浅いかも、と言ってるのが聞こえて、すこしだけ心配になる。まだ抱っこができないのは、なにかあるからなのかな。でも大丈夫なはず、とふしぎと強い自信。
隣の部屋で出産中の人の声が聞こえる。感情移入して泣きそうになる。無事に生まれた声が聞こえて、涙が出てくる。
7:00 お部屋に移動。全身が筋肉痛みたいに、バキバキと痛い。仰向けに寝ても全然お腹が苦しくなくて、ああ本当に生まれたんだなあ、と実感する。お腹をそっと触る。もう前ほど大きくなくて、ふわふわとしている。
11:45 やさがお部屋へ。やわらかな服に身を包み、花束みたいに抱えられてやってきた。はじめての抱っこ。やっと会えた。嬉しくて泣けてくる。
ずっとずっと会いたかったんだよ。ずっと抱きしめたかったんだよ。あったかくてほにゃほにゃとやわらかい。やさはうっすら目を開けて、まぶしそうに世界を見る。
明日の明日、ずーっと先まで届くようにと魔法をかける
だいすきよ せかいでいちばんだいすきよ
ボブルイスク通信 上 - 田村虎之亮
ベラルーシに滞在して一ヶ月が経った。
友人が提供してくれた部屋は彼女の従姉妹の家族が住んでいた部屋で、2DKぐらいだと思う。賃料は光熱費込みで一万円。日本の家賃光熱費に比べたら、タダみたいな値段だ。洗濯機が壊れているので洗濯だけ向かいにある彼女の家でやってもらっている。
今のところ、この友人との会話は洗濯して貰うときと、たまに食事を持ってきてくれたときぐらいだ。付きっきりで世話をしてくれる訳ではない。 だから東京で一人暮らししていたときとあんまり変わらない。
そもそも、ここは首都ミンスクではなく、ミンスクから2時間車で行ったところにあるボブルイスク。見るべきものは城跡ぐらいで、あとは新興住宅地と大型ショッピングセンターしかない、日本にもありそうな地方都市だ。
留学時代の日本人は6月末から続々と帰国していくので、私は一人一人見送った。今週の木曜日(7/11)、1人見送れば日本人は自分一人になる。いや、厳密には年上の日本人が何人かいるけども。
もちろんベラルーシ人の友人もいない訳では無いが、田舎に帰っていたり、何かと理由をつけて私と遊んでくれない。私が女の子だったら遊んでくれただろうか? と思ったりする。渡航前に期待していたこととはかなりズレがあったけど、今のところ不自由なく生活できている。
Mar=海 - Maripeace
帰国して3ヶ月が経ち、季節は夏。空梅雨で気温も35℃を超えた日、街で見かけた温度計は40℃の表示に。悲鳴のようなLINEを北海道の友人に送ったら「とりあえずこっちに来て作戦会議する?」という返事。即断できず、エアコンの効く自室と居間を行ったり来たり、何となく支度をしていたら、さらに具合が悪くなりそうに。思い切って行ってしまおうと翌日の飛行機をとった。到着した日は20℃まで上がらず小雨が降っていて、危うく風邪をひきそうに。4日目の今日は快晴で27℃まで上がりそう。気温差のせいか体がだるくて、まだ思うように体は動かない。十分休めてない分、頭が落ち着かない。
5月から、自宅の近所にある精神科に通院している人が利用できる居場所に通っていた。そこは古い一軒家で、絵を描いたり音楽をやったり、時々スタッフ手作りのご飯を頂いたりできる。何をしてもいいし、何もしなくてもいい。最初のうちは1人で笛を吹いたりしていたけど、アート活動の日に参加して一気に顔見知りが増えた。絵を見るのは好きだけど描く習慣がない。何を描こうかなと考えた時、思いついたのはコロンビアで出会った大好きな人たちのことだった。まいにち一緒に寝ていた犬や猫、週に1度家に来てご飯を作ってくれたりスペイン語の練習相手になってくれたメイドのホセフィナさん、街をガイドしながらスペイン語を教えてくれた昭和大好き女子ケリーちゃんなど。好きな人や動物、大事な思い出を観察している時は心が落ちつく。大きなスケッチブックに、ホセフィナさんが真っ黒な犬のサッポロを抱いている絵を描くことにした。2Bの鉛筆で何度も描き直して水彩色鉛筆で色をつけた。1ヶ月かけて仕上げた絵を写メして送ったら、ボイスメッセージで喜びの声を送ってくれた。
ある日、横浜の本屋さん生活綴方でペン画の個展を開いているジャグラー、青木直哉さんのインスタライブを見た。黒いペン一本とポストカードを使って1日1枚絵を描くことを習慣にしている。3年以上続けて描いたので1000枚溜まって個展をしている。絵を見て話をしてみたいと思って、電車に乗って会いに行った。その日も蒸し暑くて、片道1時間半以上乗り継いで、ドアのない半分外みたいな場所に行くのは危険かなと思ったけど、本屋にはエアコンがあったので大丈夫だった。壁にずらっと飾られた絵は、飼っている猫のポンちゃんや、ジャグリングの大会のために旅行した場所の絵とか、謎のキャラクターとか題材は色々。シンプルに、いかに続けるかという工夫をしているとのこと。ペンなので鉛筆とちがって描き直しがきかない。でも、それはそれでヨシとしてまた次の日も描く、というスタイル。私もさっそく黒ペンで、コロンビアにいた猫のチーちゃんを描いてみた。気に入ったので、居場所の会報に載せてもらうことに。ペンネームならぬアーティストネームを考えたら、と言われた。メキシコの空港のスタバで注文した時、店員さんに名前を聞かれ、「Mari」と伝えたら “Mar”とカップに書かれた。あぁそうか、スペイン語でMarは海という意味なので、聞きまちがえたんだ。素敵な聞きまちがいが嬉しかったので、絵につける名前はそれにすることにした。
犬飼愛生の「そんなことありますか?」⑲
そこのけそこのけ、あたしが通る。ドジとハプニングの神に愛された詩人のそんな日常。
「一大事」
今朝、「この服でいいかな?」と社外へ研修に行く夫が聞いてきた。普段は一応、スーツに準じたものを着ているのだが、今日はスーツじゃなくてもいいらしい。「ダメ、ぜんぜんダメ。蝉みたい」。私はばっさり切った。その薄手のシャツ、中のTシャツ、ズボンなんで全部薄い茶色なの。靴下だけ『ウォーリーを探せ』みたいなボーダーだし。夫はすごすごと部屋へ引き返し、Tシャツとズボンを変えて再登場した。ズボンはグレーの薄い縦のボーダー。靴下はさっきのウォーリーのままだったので、ボーダー×ボーダー。あのね、ボーダーの向きを変えたらいいってもんじゃないの。そのズボンにするなら、靴下は変えたほうがいいよ、とアドバイスすると靴下を無地に変えて再々登場。まあ及第点だろう。私は毎朝視聴しているNHKの朝ドラ「虎に翼」が始まってしまうので、テレビに目をやりながら「いってらっしゃい」と言った。
その、今朝私にばっさりやられた夫が帰宅した。リビングに入るなり「一大事になった」という。えっ、サラリーマンの一大事といえば「転勤」か「会社の不祥事」じゃないのか。十数年前、突然転勤を言い渡されたときのことがよみがえる。いま転勤? どうしよう。高校受験を控えた息子はどうなる? 不祥事だったら? すぐさまテレビは会社の不祥事を報道し、世間はバッシングをはじめるだろう。私たちの暮らしはどうなるのだろう? 一瞬で妄想が脳内をかけめぐる。「な、なに、どうしたの?」と恐る恐る聞くと、夫はズボンのチャックを指差して「チャックが壊れた」。どこが一大事やねん。「いや、一大事でしょ。壊れ方がおかしい。Xの文字みたいにチャックの上と下の部分だけが微妙に開くんだよ。というか、どっちもしっかり開かないからトイレするにはもうズボンをぜんぶ下げるしかないの。そのことにトイレで気が付いて。パニックよ。となりでおしっこしている人もこっちを変な目で見ているし。結局チャックが閉まらないから、研修中も気になって気になって。帰りの電車でもちょっと前かがみになりながら必死に社会の窓を隠してさ。一大事でしょ」。そうかもしれない。今や各種存在する〇〇ハラスメントに該当しないかと常に気を使っている夫である。わざとじゃなかったとしても、社会の窓をずっとオープンにしていることで部下から「セクシャルハラスメントです。恐怖を感じました」と言われたらアウト。やはりそうならないために前かがみになって隠すしかない。研修中からずっと社会の窓の不祥事と戦ってきた夫、こんなことになるなら最初の蝉コーデで研修に行けばよかったね。みーんみん。
さて、普段は私のドジとハプニングのことを書いているこのエッセイ。今月はどうしてこんなことになったんだろう。思い返してみても私の身にはドジもハプニングも起こらなかった。しかし今日がこの原稿の締め切りだったのだ。ああ、今月こそ原稿を落としてしまう······と私はぼんやりと、しかし確実に焦っていた。そこでドジとハプニングの神はその相手を私の家族に変えてくれたようだ。すごいなあ。というわけで毎月締め切り前日の9日に私がまだ原稿を書けていない場合、私のそばにいる人たちどうぞお気をつけて。
麻績日記「見えぬものではあるけれど」 - なつめ
こんなにも早く東京に戻ることを一番信じたくないのは私であった。残念な気持ちと申し訳ない気持ちで、校長先生に私たちが東京に戻ることを勇気を出して伝えなければならない。
「先日、東京に戻り、かかりつけの医療機関に行き、息子には聴覚の過敏さだけでなく、自閉症スペクトラムと場面緘黙という特性があることがわかりました。この二つの特性を持つ息子にとって、今回の環境の変化が不眠と体の異変となって表れている、と言われました。早めに安心できる環境に移してあげた方がよい、とのことで、私もそれを聞いてショックを受けているのですが、この3月で東京に戻ろうと思います。申し訳ありません。退職させてください」
と、この急展開に私自身も言った直後に戸惑っている。校長先生は、
「え! 本当なのそれは! お母さんの思い込みじゃなくて? だんだん息子さんも慣れてくるものなんじゃないの?」
と、校長先生も私たちの緊急事態をすぐには受け入れられない様子で驚いている。私も最初はそう思った。でも、慣れることでどうにかなるような特性ではない。それがここへ来てよくわかったのである。クラスの子どもたちから話しかけられても、すぐに話せないことで無視されていると誤解されてしまった息子は、そもそも特性上、外で話すことが困難なことだったのである。それをがんばって自分で話せるようになってほしいと、担任の先生に言われ、無理をしてがんばった息子は体が動かなくなってしまった。がんばったらどうにかなることではなく、むしろ逆効果となり、精神的にも身体的にも、いつも緊張し、無理をしてしまっていたのである。これからは、息子の特性を私もさらに理解し、周りにも伝え、理解してくれる人が少しずつ増えていくように色々調べ、動いていかなければならない。息子が安心できる生まれ育ってきた東京に戻り、もとの地域で安心感を取り戻し、夜も眠れるように。医療機関に引き続き通い、周囲に理解者を見つけ、支援場所を早急に探していこうと思った。一見困っていないようにも見える息子は、私以外の家族にも慣れてきたら、どうにかなると思われがちだった。その「慣れてくる」という言葉によって、私も息子の困り感を気にかけながら、うやむやにしてきてしまった。校長先生に息子の特性が、すぐには理解できないことも承知していた。母である私でさえ、今まであいまいな状態で、この特性をしっかり認識できていなかったのだ。「スペクトラム」という言葉自体もあいまいで、捉えにくい症状名であり、もどかしい思いを抱えていた。さらに、息子が合わせ持つ場面緘黙という特性も、名前は聞いたことがあっても、根本的にどのような特性なのか、私もまだまだ知る必要がある。だんだん時間が経つうちに、慣れてくるというのは、適切なサポートがあった上での話であり、外からの適切なサポートがなく、息子本人の自然な成長とともに、どうにかなるものではない。そうすると、この先も今までのように困っていることを後回しにされ、息子は無理をし続け、困り続けるのではないだろうか、と想像した。この特性を息子の母である私は、このまま見過ごすことはできなかった。
同じように目には見えない特性でも、特定の食物アレルギーの人に、その食べ物を食べさせてはいけないということは、多くの人が理解しやすく、体に入らないように取り除くことができる。同じように目に見えない生まれ持った精神的な特性は、一人一人に合った支援を考える必要があり、同じ特性名でも、同じ特性をみんなが持っているわけでもない。成長とともに慣れてきたら、消えるということでもない。息子の心にアレルギー反応が出て、体が動けなくなっていることも精神的に危険な状態なのである。そのことを訴えても、食物アレルギーほど注目されず、対応も後回しにされてしまう。精神的な特性にも緊急事態となる危険性が潜んでいることを私は息子の体の異変の様子を見てよくわかった。特定の家族内では話すことができても、外に出ると話すことができなくなる場面緘黙。なぜそのようなことが起きるのかということまで、多くの人は知らない。息子の生まれ持った脳の状態が、心のアレルギー反応を引き起こし、体を動けなくしてしまっている。それを目の当たりにした私は、このまま慣れてくるまで様子を見ている場合ではないと思った。アレルギー反応の改善には、まず、そのアレルギーを引き起こしている原因となっている環境をすぐに離れ、本人が安心できる環境に早急に身を移す必要がある。息子の外見とその印象が一見大丈夫そうに見えても、実は息子の内心は、大丈夫ではなかったことが積み重なり、こうして息子の不眠や体が動かなくなるなどの異変を引き起こしている。その異変を家の中で目の当たりにしたのは私だけであり、外に伝えても、私の心配のし過ぎたと言われてしまうと、自分だけがいつも間違っていることを言っているように思ってしまっていた。でも、今回は間違いではなく、担当医の先生にも言われたように、特性上の事実であることがはっきりとわかった。息子の生まれ持った特性が引き起こしている体の緊急事態が、周りの人にもわかりにくいということが、本当に困ることであった。支援が必要な子どもを支援している私にも理解者や支援場所が必要だった。
「だれよりも一番残念に思っているのは私であり、支援員の仕事もこれからも続けたかったのですが、今、この子を救える人は、どうやらここには私しかいないようなので、東京に戻ります。本当に申し訳ありません!」
と、我なすことは我のみぞ知る、という思いで、うやむやにせず、きっぱりとお伝えした。しばらく沈黙の間があった。
「······それを言われたら、ご家庭の判断のことなので、こちらとしてはそれを承諾するしかないですね。うーん、残念です。わかりました」
と、校長先生は、本当に残念そうな顔で承諾し、がっかりされた様子であった。見ている私もさらにがっかりした気持ちになった。
「はい、本当にすみません······」
と言った後、ザザーンと悲しみの大波が私を襲い、一瞬で海の中に沈んでいくような気持ちになった。校長室を出た後の私の記憶はない。そのときの私は、東京で願って来た長野県のへの移住生活や、取り組んできた仕事が運んできた村の小学校の支援員の先生という仕事を続ける道がここで絶たれたことを実感し、人類の母の一人であることが、人生で最も悲しく思った瞬間だった。目の前の息子を救うことは、自分の進みたかった人生と引き換えに、手放す勇気がいる決断だった。それに伴い大きな悲しみと無念の気持ちが一瞬で心全体に広がった。まるで海で溺れかけていた息子を救った母である私は、その後静かに海の中に沈んで行くように、じわじわとゆっくり底へと沈んでいく。息子の「母」としてできることをした私は、その直後、母ではない「私」にとって、最も悲しい日となった。
「別れのコラージュ」ノート - 下窪俊哉
『アフリカ』vol.36(2024年7月号)を出したばかりだ。そこに書き手としての私は「別れのコラージュ」という短篇小説を寄せた。400字×約35枚、以前の作品を思い出すと、「十分遅れてくる女」(1999年)や「音のコレクション」(2006年)と並べて読んでみたくなる、どちらも似たような長さで、なんらかの"不在"を書いた小説と言えそうだ。「別れのコラージュ」は再会を書いた小説のようでいて、不在の時間を"コラージュ"した小説のように思える。
「十分遅れてくる女」は、意識して小説を仕上げた最初の作品ではなかったか。20歳の頃に書いた。その作品がなければ、私の人生は全く違うものになったはずだ。「音のコレクション」はその7年後、それまでの総括というか、紆余曲折を経た後、再起を図って企画した『アフリカ』に向けて書いた。あの作品がなければ、書き続けることが出来なかったと思える苦心作だった。さて、「別れのコラージュ」はどうなるだろうか。
(以下の「ノート」は、「別れのコラージュ」を読んでから読む方が、もしかしたら面白いかもしれません)
4月のWSマガジンに載せた「H駅の印象」は、2006年に書いていたらしい断片を発掘してきて、書き直した。H駅というのは、おそらく広島駅のことだろうが、それを読んで当時の広島駅を思い出したかというと、思い出せなかった。現実の駅はあくまでもモデルであり、書かれていたことの大半は創作だろうと思う。そこに、今年の3月に約20年ぶりに再訪した広島駅を重ねて、書いてみたいと思った。再開発によって全く違う街になってしまうという暴力性を、誰かに訴えたいというのではない。実際の場所を歩き回っても、かつての風景は想起されなかったが、小説のなかでなら、それが可能になるのではないか。現実の駅から離れて、フィクションの駅へ向かう。何か思い出すきっかけはないものだろうか。試してみたくなった。
まずはそのことが、書こうとしている短篇小説の着想になった。しかしそれだけでは書き始められない。
B5ノートの3ページにわたって、「別れのコラージュ」(というタイトルになった小説)にかんするメモが書かれている。数ヶ月前の自分が書いたノートだが、すでに忘れかけていることもあるので、それを見ながら書いてみよう。
20年たつといろんなことを忘れていて、記憶は断片的になる
断片はその都度、自分のなかで整理されて、違うつながりを求めているように感じられる。最近の私は、忘れていることを発見する面白さに取り憑かれており、小説のなかでそのことについて書いておきたかった。それを、どのようにして書けばよいのかはわからなかったが、どうしても書きたかった。なぜかというと、そこには、小説でないと書けないことがあると感じるからだ。
2001年に書いた少し長め(約120枚)の小説「いつも通りにたたずんで」に出てくる恋人たちが、その後別れて、20年を経て再会するとしたらどうなるだろうというアイデアは、どこから出てきたのだったか。
1年後には、まだ生々しい
あることをきっかけに関係がつづく
20年後の再会
どんな出来事であれ、"その後"が小説になるといまの私は感じている。あらゆる時間は、過ぎてゆく。その後、その出来事がその人のなかでどのように生き続けるか、あるいは生き続けないのか、ということに私はとても興味があるのである。
(時間は自由に使える、小説のなかでは)
三人称の語り手と言える西本芳夫は、2001年には書き手の自分に近い存在として登場していたはずだが、20数年後に彼がどうなっているだろうか、と考える。2024年現在の自分を起点に想像するのではなく、あくまでも2001年を起点にして、彼はどのような人生を歩んできたのだろうと思うと、程よく仕事をして適当な年齢で結婚して子供がいて健康で幸せな人生を送っているというふうには全く考えられない。働くことにも困難を抱え、結婚はしていないか、しても離婚したかもしれないというような気がするし、おそらく子供はいない。書き手の現在とは、ちょっと違うが、実際にそうなっても全く不思議ではなかったと感じられるのである。つまり書くのは自分のことではない。芳夫の若き日の恋人だった柴田秋子も、女性として同時代を生きてきた。彼らの現在が、次第に見えてきた。
(旅、だれかの日常の隣を、通り過ぎてゆく)
旅の時間、日常から切り離された時間だからこそ、感じられること、見出されることがあるだろうと思った。またその街に暮らす人であっても、他の場所で縁のあった人の訪問を受けると、その時間だけは非日常に傾く。
20年という時間の流れ、忘却 のなかにうかび上がる風景
私にとって小説とは、まずは風景であり、そこに聞こえてくる声である。では、アクションは? と、最近はそんなふうに考えている。だからそのふたつ(+1)があれば、何でも小説になる。
書き始める前には、その何かを探す。
風景を書き、そのなかにうごめくひとの姿を書きたい。彼はたまたま彼であるだけで、彼女はたまたま彼女であるだけで、違う誰かであってもおかしくない。私たちは皆、ここにひとりしかいない貴重な存在であると同時に、無数にいるなかのひとりにすぎないとも言える。ある空間を描けば、そこにいるのはひとりではない。もちろん読者も、そこへ入ってゆける。
彼らの行き来する、通り過ぎてゆく、その空間を書きたい。それが私の小(さな)説になる。
そして彼は、彼女は、私は、あなたは、ここ、という場面でどのような行動に出るのだろう。
タイトルは今回、書き始める直前に決まった。「別れのコラージュ」というのは大滝詠一さんの楽曲の、ボツになったらしいタイトルをいただいた。その話をいつ、どこで知ったのか、どうしても思い出せないのだが、ラジオで聞いたのだろうか、最終的には「スピーチ・バルーン」というタイトルになった歌だ。と、そこで、せっかくなので、と思い、「スピーチ・バルーン」や大滝さんの他の歌からもことばを少し引用して(切り取って)、文中に潜ませてみた。コラージュなら、他にもいろいろとやってみようと思って、ついには過去の自作からの引用も飛び出したりして、それは楽しい執筆の時間になった。
いまの自分が、ひとりで書いているのではない。過去の自分を含めた仲間をたくさん得て、今度はもっと長い小説に、とりかかろうとしている。
定点観測やめた - Huddle
庭が「わたしは常に変化しか求めてないし間違いないけど、もちろんそうはみえないように振る舞っているよ」といいながらトウモロコシをくれた。天ぷらにするのがいちばんおいしいのはわかっているのに圧力鍋で茹でたり生でたべたり、ついいろんな表情を試してしまうこの季節のトウモロコシのとれたてのおいしさといったらなかった。週末は庭でにょきにょき伸び放題になっていたグランドカバーのクラピアを芝刈り機でカタカタ摘み取った。芝刈り機の名は「ナイスバーディーモア」だ。手つかずの荒れ地が瞬時に爽やかカントリークラブに変わる。変わった。長らくフェアウェイで枯れつづけていた栗の木はとうとう根元から切り倒した。かつてはいくつも実をつけたが、何が気に入らないのか、ここ数年ちっとも栗が育たなくなり、春にはどの葉も茶色く枯れてしまった。枯れてしまったものはもうもとには戻らない。モズたちに気に入られた木で、細い枝にはよくカエルが突き刺さっていた。生きたカエルも、この栗の葉のうえで休んでいるのをみかけることが多かった。そんなカエルを狙ってアオダイショウが巻きついていることもあった。近所の畑にある大きな栗の木はいまちょうど花盛りで、あさの散歩で通るたびに、のどの奥まで匂った。なのに、うちの栗は今年も咲かなかった。乾いて縮んだ茶色の葉がさびしかった。そもそも植えた場所が失敗で、水やりのたびにホースがひっかかって邪魔になってもいた。もはや切り倒されるべき栗としてそこにあった。のこぎりの刃をあてると厚い表皮がぼろぼろと崩れた。のこぎりに幹が擦れる音が響くとき、低い空ではヒバリが高音で鳴きつづけていて、ときどき思い出したようにキジの叫ぶ声が届いた。庭で羽化したツマグロヒョウモンが二匹なかよくもつれあいながら踊っている。この日も花ざかりのセイヨウニンジンボクが大人気で、早朝からジャコウアゲハやモンシロチョウ、クマバチが競うように花に口づけしている。栗の木には蝶がいるのをみたことがない。のこぎりの演技はあっけなかった。残された小さな切り株がみどりの地表にわずかに顔を出していてつまづきやすそうだが、いずれクラピアの葉に埋もれるだろう。だんだんと陽射しがきつく気温の上昇は激しく、毎朝の散歩も危険にさえなりつつある。なにもなかった場所ではヒメジョオンが「売地」の看板をとうとう飲み込んでしまった。主を失った庭の植物がきれいさっぱり片づけられた家のまえで、打たれた枝のあいだからモグラの子どもが這い出してきてアスファルトに力尽きていた。その眼があまりに小さく、死んでしまってからも眩しそうにしているのだった。大好きな散歩がつらくなってきた。あさでさえこんなにつらいのに、おひるに歩けるわけがない。もうシーズンオフとしよう。こんなの暑すぎる。図書館が閉まる月曜日のランチタイムに実施する公園での定点観測をやめた。
巻末の独り言 - 晴海三太郎
● おーい、暑すぎるぞー! と文句を言いたくなる夏がやってきましたが、今月もWSマガジンをお届けします。● 初登場の木村洋平さんは「エシカルSTORY」で環境や人権、伝統や未来について発信している編集者であり、哲学や詩を書いている作家でもあります。SNSを通して以前からゆるやかな交流がありました。WSマガジンへようこそ!● この場への参加方法は簡単で、まずは読むこと、次に書くこと(書いたら編集人宛にメールか何かで送ってください)、再び読むこと、たまに話すこと。全てに参加しなくても、どれかひとつでもOK、日常の場に身を置いたまま参加できるワークショップです。● 書くのも、読むのも、いつでもご自由に。現在のところ毎月9日が原稿の〆切、10日(共に日本時間)リリースを予定しています。お問い合わせやご感想などはアフリカキカクまで。● では、よい夏を!(また来月)
道草の家のWSマガジン vol.20(2024年7月号)
2024年7月10日発行
表紙画と挿絵 - 矢口文
ことば - RT/犬飼愛生/木村洋平/下窪俊哉/スズキヒロミ/橘ぱぷか/田村虎之亮/なつめ/Huddle/晴海三太郎/Maripeace
工房 - 道草の家のワークショップ
寄合 - アフリカン・ナイト
読書 - 暇人の会
放送 - UNIの新・地獄ラジオ
案内 - 道草指南処
手網 - 珈琲焙煎舎
喫茶 - うすらい
準備 - 底なし沼委員会
進行 - ダラダラ社
雑用 - 貧乏暇ダラケ倶楽部
心配 - 鳥越苦労グループ
謎掛 - ドラムとかけて、悪いことをする、とときます。その心は?
音楽 - 寝息オーケストラ
出前 - やさしく冷やして屋
配達 - 星屑運送
休憩 - マルとタスとロナとタツの部屋
会計 - 千秋楽
差入 - 粋に泡盛を飲む会
企画 & 編集 - 下窪俊哉
制作 - 晴海三太郎
提供 - アフリカキカク/道草の家・ことのは山房
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