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道草の家のWSマガジン - 2024年5月号


帰り道花見 - 片山絢也

 川沿いに桜がずっと続いている。近くの行政管轄の施設の敷地には、また別の種類の桜が植えられていて、もっと色味が濃い。どちらの桜もライトアップされて、滲んだ光になっている。自宅方向に歩いていくと、敷地を通り抜ける花見を終えた人たちとすれ違う。そのときに起きる風は、甘い香りがする。また、少し空気が揺らいでいるようにも見える。時々、川と緑の匂いにかき消される。
 その人たちは、年代も人数もばらばらだが、姿が木々の陰になって、それぞれ別の深い感情があるように見える。学生らしき人の大きな声を聞くと、その年代のときの親しかった人たちのことを思い出し、今も自分はそのときと何も変わっていないかもしれない、と思う。自分と同じ年代、上の年代の人たちの声を聞くと、今、遠くにいる人たちのことを思い、どうしているだろうかと思う。すれ違った人たちは、川沿いの桜を見ながら、自分とは反対方向の駅に向かっている。
 敷地の横を通り過ぎてすぐ、橋の下に着く。橋台の石のらせん階段を上っていき、橋の上に出た。風が強くなって、人より車の存在が大きくなり、やっぱり下から行けばよかったと少し思うが、戻るほどでもないと思う。風に当たると、体にまとわりついた感情がほどかれて、熱と一緒に離れていく感じがする。
 橋を渡って川の反対側に行き、川沿いの公園への階段を下りる。人通りもほとんどなくなり、静かになる。よく通る道、見慣れた景色になり、桜も滲んでいるように見えなくなり、少し酔ったような気分も醒めていく。でも、完全に醒めるわけではなく、桜の香りはむしろ静かに鮮明に感じる。さっきはお酒の匂いが混じっていたのかもしれない、とも思う。
 三十分ぐらい歩いて、体もぽかぽかしていて、仕事の気分はほとんど抜けていて、何を買って帰ろうかとかぼんやり考えては風に少しかき消されて、でもまた歩いているうちにより落ち着いた気分になり、自然に自分の輪郭を取り戻していく感じがする。


犬飼愛生の「そんなことありますか?」⑰

そこのけそこのけ、あたしが通る。ドジとハプニングの神に愛された詩人のそんな日常。

「タノミゴト」
 突然、LINE電話が鳴った。中学、大学と一緒だったAからだ。え、LINEの文章で連絡が来るならまだしも、突然の電話はちょっとびっくりする。最近はめったに電話なんてしないのだから。そのあと、すぐにLINEに文章が送られてきた。「あおちゃん、Aだよ。ちょっとタノミゴトがあるねん。急にごめん」。え、地元の関西弁に混じるこのカタカナ表記はなに? なにか変な雰囲気を感じ取った私はとりあえず文章で連絡をとろうと「頼み事って何?いま電話できないからLINEで送って」と返信した。すると、文章でこう返ってきた。「そっか、説明が難しいからまた電話するよ。いつならいい?」······怪しすぎる。なんで文章で送れないのか? もしかしたらよく聞く「LINEの乗っ取り」にあっているんじゃないのか? いや、乗っ取りの場合、相手は文章しか送ってこずに、コンビニで電子カードを買わせてそのカードの番号を伝えさせるとかの詐欺だったな。じゃ、文章に残したくない頼み事って? 借金か? まさか話題の違法カジノ? 巨額賭博? それかホス狂になったのか? シャンパンタワーで姫コール! または宗教の勧誘? マインドコントロールか。断ったら地獄に落ちる系のやつか。もしくはねずみ講くらいしか思いつかない。そもそも、Aとはもう10年以上会っていないはずだ。SNSでもつながっていないのに、どうして私に連絡してきたんだろう。怪しい、怪しすぎる。
 私は逡巡したのちに、京都の地元の友達にさぐりを入れてみることにした。それはなぜか。
 時は私の大学時代にさかのぼる。今回のAのように疎遠になっていた高校時代の友達から連絡があり、会いたいと言われた。ちょっと怪しんだ私は「お金貸してとか、宗教とかなら会わないよ?」と電話で釘をさした。「ちがうよー! ただ会いたいだけだって!」と友達は笑ったけれど、待ち合わせ場所に行くと知らない人が二人ついてきていて、がっつり宗教の勧誘だった。電車代返せ。ムカついた私は彼らの教義の矛盾点を突きまくってから絶交した。
 まずは男友達Xに聞いてみることに。Ⅹは「変な噂は聞いてないで。案外アイツのことやし、たわいもないことかもよ! そう簡単に人の道を外したりしないやろ!」と明るい返事。ほんまかよ。純粋無垢なⅩが心配になる。パパ活で頂き女子に頂かれちゃったりしてないよね? と逆に心配になる。続いて地元で暮らしているⅯちゃんに連絡。「確かにちょっと怖いよね。変な噂とかは知らないな。でも私なら勧誘系なら無理だよって言ったうえで、明日の何時なら電話できるよって返すかな。ところでいま私、ギリシャに住んでいるよ」との返事。こっちのほうがぶったまげた。京都にいるんじゃないんや。ギリシャなんや。とぉ······。思わずギリシャをGoogle MAPで調べる。とぉ······。Aに連絡するか否か。天使がささやく「やめときなさいよ。きっと嫌な目に遭うわ。すっごく怪しい感じじゃない。絶対変だから電話はしない!」。一方で悪魔がささやく「けっけっけ。ここで電話しない手はないだろう? なーに迷ってんだよ、お前は常にハプニングに見舞われる人生なんだよ! ほーらほら、欲しいんだろ? 電話しろよ」。ああ神様! 悪魔に魂を売ったこの愚かな詩人めをお許しください······!
 おそるおそるAに電話してみた。結果はAが勤務する会社のキャッチコピーに関する相談だった。「ホンマはお金払わないといけないような相談なんやけどな······ごめんな。そんな予算ないねん。それで······」と低姿勢な相談。な、なんだ。そ、そんなことか。動揺が隠せない。「なんでLINEでひとこと、内容を言ってくれへんかったん?」関西弁に戻った私がAに聞くと、「話したほうが早いやん」。至極シンプルな答え。私の中の天使と悪魔が脳内で戦ったうえに、友達を巻き込んでの考えすぎのからまわりだった。またやってしまった。さて、今月もご唱和ください。「本当にドジとハプニングの神は私を愛している」。


春-5月 - のりまき放送

傘を開く。ビニール傘だがちょっと高めのもの。コンビニの傘立てに置く度、「誰かに持っていかれたら嫌だな」とケチ臭いことを考えてしまう。雨が降っていなかったら自転車でパパッと床屋まで行けるが、歩きなので少し早めに家を出た。歩きながら髪型をどうしようか逡巡する。「坊主は?」と頭に浮かぶ。坊主はさっぱりして好きだが、奥さんからは「止めておきなよ」と言われたことがある。短くしてしまえば薄くなった頭頂部のことを思い悩まなくて良い。信号が点滅し始めたので立ち止まる。黒色の路面。雨水が排水溝に流れていく。今やるべきことだけに集中したい。それも坊主にしたい理由か。
店内へ入るとすぐに席に通された。いつも担当してくれる人ではなく、店主が髪を切ってくれた。自分より二回りぐらい年上の店主に何と伝えたら良いかわからず、「短めでお願いします」とだけ伝えた。後頭部にバリカンの刃があてられる。黒い塊がぼとりとケープの上に落ちた。そっと肩を動かしたら、スルッと床に落ちていった。さようなら、髪の毛。ひんやりとしたバリカンの刃が気持ち良い。
床屋の後、駅前へ向かった。まだ母の日の贈り物を注文できずにいた。商業施設に入り、母の日用に並べられた品物を物色する。実際に目で見て選ぶほうが良いなと思う。ゼリーを選んでレジに持っていく。「配送表を後ろで······」と長机を指で示される。住所を記入している時、実家の郵便番号が全く思い出せなかった。少し焦った。配送依頼を終えて外に出て、奥さんにも何か贈ったほうが良いだろうと気がつく。家の近所でケーキを買おうか? きっと娘も食べたがるだろう。


麻績日記「異変」 - なつめ

 息子の様子がおかしい。この村へ移り住んで2か月ぐらい過ぎた頃、だんだん息子の体に異変が現れ始めた。環境がガラリと変わったことによるのもなのか、夜に眠れなくなり、夜中に頻繁にトイレに行くようになった。今までの東京での生活で、このような異変症状が出たことはなかった。環境も人間関係もガラリと変わり、その変化に戸惑っているのは私も同じであったが、息子の体に異変が起きることになることまでは、予想できていなかった。まだ小学4年生(当時)であり、大人の私とは変化してきた経験値が違う。真面目な息子は、毎日学校に行っていたが、早くこの学校に慣れようとがんばり、知らず知らず心と体に負担が積み重なってしまったようだった。私も周りの先生方もだんだん慣れてくるだろうと思っていたが、息子に対する認識が甘かったことを思い知った。感覚に過敏さがある息子の場合、単純にだんだん環境に慣れるだろうということではなく、環境の変化そのものが厳しい特性があるのかもしれない。息子の体に今まで経験したことがなかった緊急事態が起きているのかもしれないということを、私はそばで感じていた。
 ある日、毎朝一緒に当校していたクラスの子から、息子に話しかけても毎回、返答や反応がなかったことで息子が「無視している」と思われてしまった。担任の先生に、詳しい様子を聞いてみると、話しかけてもいつも言葉が返ってこず、お互いに気まずくなっている、ということを聞いた。息子にとっては突然話しかけられると戸惑い、すぐには答えられず、どのように言ったらいいのかを考えていたようであった。答えるタイミングを逃し、話しかけることができず、誤解されたままで、気持ちが通じないことが何回も続いた。そしてある日を境に、避けられるようになり、今まで一緒に登校していた子たちとは一緒に当校しなくなった。一人で学校へ行き、一人で帰って来る息子。学校ではだれとも話せないため、帰って来てから、私とずっと話していた。息子は泣かなったが、静かに心の中で傷ついているようだった。外に出せない息子の気持ちを思うとせつなくなってくる。この村で、毎日の息子の話し相手は、私だけだった。家に帰ってくると、息子はいつも黙々と絵を描いていた。絵を描くことで気持ちを落ち着かせているようでもあった。学校でだれとも話せない息子と積極的に関わってくれる人が、なかなかできなかった。息子は、もともと他人と話すことが得意ではないということが、この村へ来たことで、さらに顕わになっていった。幼いときから家族以外の人と話すことが、もともとむずかしかったが、東京の学校では約3年以上コロナ禍が続き、話さなくても、困るということが起きなかった。最初は人見知りによるものだと周りにも言われていたこともあり、私は気にかけながら様子を見ていた。ここへ移住してからの息子の不眠と夜の頻尿の異変症状によって、これは人見知りだけでは済まされないことのように思えてならなかった。特別支援教室の先生に息子のことを相談し、スクールカウンセラーの先生が来る日に相談させてもらえることになった。今までの経緯を話した私は、「一度、医療機関で診てもらったほうがいい」と言われ、長野県内の病院を紹介していただいた。早速電話して問い合わせしてみたが、予約が取れるのはせいぜい半年後になるという返事だった。半年も待っていたら、この子はどうなってしまうのだろうと、どうにかしなければと焦り、近隣の市街地にある相談機関を探し、色々な場所に電話をしたが、早めに息子とつながることができそうな相談機関はなかなか見つからなかった。
 私の支援員の仕事や人間関係は、だんだん慣れてきた頃だった。それとは反対に息子はますます精神的にも体調的にも、元気がなくなり、「東京に帰りたい」と毎日のように言うようになっていった。話しかけられてもすぐに話せない息子は、クラスにも馴染めず、距離を置かれた様子で、それからも友人ができなかった。この村の小学校は、村に一つだけだったため、幼い時からみんなが幼なじみのように育ってきた環境であった。その中に、東京から一人転入してきた息子にはとても馴染みにくい環境だったことを思い知った。コロナ禍が続き、長年一緒に遊ぶ友達が東京でもできなかった息子だか、成長とともになんとかなっていくのだろうと思っていた私の認識が甘かった。これは、ただの人見知りではない。息子が生まれながらに持っている特性がやはり関係しているものかもしれないと思い、特別支援教室の先生に再び相談した。幼少期の頃、言葉の遅れを保健所から指摘され、療育に通ったことがある過去の経緯を思い出し、そのときの資料を再確認した。東京の小学校で小学一年生の後半、コロナ禍と休校が続き、そもそも人と関わることが少なかったため、コミュニケーションに困るできごとが起きなかったことも、気が付けなかった原因の一つであった。そのため、家族以外の人と話すことができない息子の緘黙症状は、この村へ来てこんなにも顕わになったことで良くも悪くもはっきりとわかったのであった。東京で育ち、住み慣れた環境で、毎日眠れていた息子が、ここへ来て環境も関わる人たちも大きく変化したことにより、不眠と夜の頻尿が続く日々。聴覚過敏だけでなく、色々な変化や刺激に対しても敏感だという特性を軽視してはならない、そう思った。息子は見た目では、困っていることがわかりにくく、加害行為をするわけでもないため、外からは困っていることがわかりにくい。先生だけだなく、私もその困り感に気が付けなかったのだ。一人で静かに困っている息子の気持ちを思うと、早急に何かできることはないだろうかと、元々住んでいた東京の相談機関にも電話をしていた。この村にはそのような相談がすぐできる場所が近くにないということも、行き詰まりを感じ始めていた。息子と同じ小学校に支援員として勤務していた私は、今まで判然としなかった息子の特性をこのタイミングで認識する必要があったために、ここへ導かれたのだろうか。
 ある日、学校内で休み時間の息子の様子をたまたま見た日があった。息子のクラスが体育の授業の前の休み時間に、体育館で遊んでいた。クラスの子どもたちは、息子の周りで鬼ごっこなどをして、にぎやかに遊んでいた。その中で、だれとも関われていない息子は、体育館の真ん中の一人で佇み、話しかけれることもなく、体が固まった状態で静かに立っていた。その姿は廊下側から見ても目立つものだった。私は、あの体育館の真ん中で、一人で固まって静かに立っている姿を見て、家と外での息子の様子が全然違うことがはっきりとわかった。だれにも気にされず、クラスの中で放っておかれているような状態で立っている息子の姿。鉄棒の授業のときにも、動きが硬いと担任の先生にも指摘されたことがあったが、この固まっている姿は見逃してはならないサインだと私は確信した。帰宅後、なぜ体育館の真ん中で、一人で立っていたのかを息子に聞いてみると、無意識で固まっていたという。一度幼少期に診てもらった東京の専門の医療機関に再度診てもらおうと、私は決心した。環境も人間関係も大きく変わり、そもそも外で話すことがむずかしかった息子にとって、緊張や危機感が大きくなり、その緊急事態として体に異変が現れたのだった。以前にもそのように固まっていた息子の姿を、元夫との生活の中で見たことがあったことを思い出した。そのときの息子は野球の練習試合に大きな恐怖と危機感を感じ、当日の朝に動けなくなった。私は、念願叶った長野県の移住生活と、ようやく自分の存在を肯定できるように感じ始めた支援員の仕事に出会えたが、息子の異変によって良くも悪くも何か運命的なできごとのようなこの事実を突きつけられ、葛藤していた。


挿絵・矢口文「不思議な集まり」(色上質紙)


ベラルーシに行って帰ってから - 田村虎之亮

2021年
3月 それまで一緒に暮らしていた女性と道を違えて1人になった。それと同時にロシア語の勉強を始めた。ロシアや旧ソ連のスナップ写真を発表すればどこかの賞に引っかかるかもしれないという根拠の無い考えから。写真学校も5年目になっていたが特に目立った成果をあげることが出来ていなかったのでこのテーマに賭けることにした。

8月 ロシアへ行くビザ、航空券を取り寄せた。

10月 旧ソ連のどこかに留学をするために仲介業者のところに行った。候補はリトアニア、ベラルーシ、ウクライナ。
ロシア語だけで暮らせるベラルーシに決まった。

2022年
1月 祖父が亡くなった。ロシアの話をすることができないまま。

2月 戦争が始まってしまった。航空券は全てキャンセルされ、ビザはただの紙切れになってしまった。ベラルーシは戦争になっていないので、とりあえずベラルーシだけ行くことにした。

4月 ベラルーシへ行った。首都ミンスクの街の雰囲気は地元の広島とよく似ている。2つの比較した作品を作ると面白いかもしれない。
本で勉強したロシア語はほとんど役に立たなかった。

10月 高田馬場で東京では最後の展示を行った。

11月 東京の家を引き払って広島に戻った。留学は翌年の1月から11月まで。

12月 広島とベラルーシの街の比較展をやった。反響は大きく、毎日新聞の地元欄にも掲載された。

2023年
1月 元旦の飛行機でまずエストニアへ。そこからバスを乗り継いでラトビア、リトアニアと撮影しながらベラルーシへ向かった。家は寮、2人の韓国人と相部屋。ケバブを3人で食べに行った。

5月 暮らしに慣れてきた5月の終わり、珍しく土曜日に講義が入った。ついでなので寮の最寄りではなく2駅先の駅まで撮影しながら歩いた。それで乗った地下鉄は次の駅に着いた後動かなくなった。Twitterで検索すると1人だけこの件についてツイートしている人がいた。日本語を勉強しているベラルーシ人、同じ大学、こんな偶然はあるだろうか。とは言っても特に用が無く、相手も女性なので簡単に会う気になれなかった。

7月 半年かけてベラルーシ全ての州都を訪れた。通りで食べたオムレツが美味しかった。

10月 詩の朗読会というイベントがあったのでそれに参加する。マヤコフスキーの遺書を読んだらロシアから来た日本語を勉強している女の子が褒めてくれた。連絡先を教えて欲しいと言うのでアドレスを教える。彼女はたまに自室の窓からの写真を送ってくれるが、私はそれが気に入っていて携帯の待ち受けにしている。
翌日、東海大学から日本人の女の子がやって来た。それで5月に知り合った女性に彼女のアドレスを教えた。同じ日本人でも、多分俺より役に立つだろうと思ったから。女性の名前はЛиза(リザ)。苗字は今も分からない。
東海大学の女の子から日本語クラスの存在と学生のアドレスを教えてもらう。以来、帰国まで毎週一緒に講義を受けることになった。
この週の週末、ロシアとの国境の街へ行った。プロ野球のクライマックスシリーズの行方が気になるのでラジオをかけながら。
結果は贔屓にしている広島カープの勝ち。
その翌週、もう1人東海大学から日本人の女の子が来た。それから私たちは3人で動くことが増えてきた。

11月 東海大学の日本人と一緒にЛизаと彼女の友人Дзіяна(ディアナ)に会うことが出来た。帰国まで二週間を切っていたのでギリギリだった。東海大学の2人がいなければ会うことはなかっただろう。終盤は東海大学の2人か、或いはЛизаとДзіянаと過ごすことが多かった。出国の日は4人に見送ってもらった。この日、通っていた大学とは別の大学の日本人の先生、松本さんから「自分は辞めるから跡を継いで日本語講師にならないか」と誘われた。急な話だったので実家に持ち帰ることにした。
ベラルーシの物価は日本と対して変わらないが隣のリトアニアはユーロを使っているので日本の倍の物価だった。ベラルーシに居た時の感覚で買い物をすると手持ちが一気に減ってしまう。

12月 ワルシャワ経由で晴れて帰国することが出来た。帰国後まず銚子に立ち寄り、久しぶりの湯船と寿司を堪能した。ベラルーシにも寿司はあるけど巻き寿司なので「本物」の寿司は久しぶりだった。
帰国すぐに展示の準備に取り掛かり、2ヶ所同時開催という初の試みもやった。広島のGallery718と本と自由にて。展覧会は大成功だった。日本語講師の話は家族も快諾してくれたので、松本さんを仲介役にして交渉を勧めてもらった。クリスマスにЛизаから良いお年をと言うメールが来た。友人からわざわざそんなことを言われ事はなかったのでとても嬉しかった。

2024年
1月 日本語講師の話は進まないまま年が明けた。
やがて母がスピーカーを譲り受け、経営している立ち呑み屋に設置した。忌野清志郎と大瀧詠一、松任谷由実といった70-80年代の音楽がずっと流れるようになった。その過程で私は大瀧詠一のいくつかの曲が気に入った。風立ちぬ、ガラス壜の中の船、など。
月末、松本さんから連絡があった。既にベラルーシに住んでいる日本人に内定したという。
もうベラルーシに行く気でいた私は酷く落胆した。佐野元春のロックンロールナイトと大瀧詠一の風立ちぬをずっと聴いていた。
母が音楽のバリエーションを増やしたらしい。THE YELLOW MONKEYが流れるようになった。そして私はイエモンのファンになってしまった。JAM、BURN、天国旅行など
1月の半ば、近所にサンリオショップが出来たことと、丁度クロミが大好きな男友達が帰省したので一緒に行こうと誘ったら「彼女と行くから無理」と振られてしまった。それでその事をTwitterに愚痴ったら「今好きなアニメとのコラボがあるから行きたい」とДзіянаがメンションしたが、それはアニメイトだったし、コラボは2月からだった。それで私は2月の初旬にアニメイトに初めて行ってコラボ商品の棚の写真を送った。

2月 日本語講師の件は残念だったけど、かといって他にやりたいこともなかった私はただ途方に暮れていた。それでも東京の写真学校の人達に挨拶に行きたかったし、下旬に広島での展示も決まっていたので、展示の準備を進めるしかなかった。
2月の下旬に東京に行き、東京でお世話になった人達への挨拶を済ませた時、Дзіянаからお使いを頼まれた。件のサンリオのグッズを買ってきて欲しいとの事で、私が送った棚の写真の欲しい商品にマーキングがしてあった。
丁度広島の展示の会期中の事だったので、昼休みを使ってアニメイトに行って、売り場の写真を見せながら確認を取り合い、結果サンリオとのコラボに限らず彼女の好きなアニメのほとんどのグッズを購入した。お金はベラルーシの私の口座に振り込まれた。途中、ЛизаからBUCK-TICKのグッズを買ってきて欲しいと言われ、私はBUCK-TICK通販の会員になった。THE YELLOW MONKEYを聴き出した頃に合わせてBUCK-TICKも聴いていたので抵抗はなかった。気がつけば、私は実家の店で昼を食べた後、アニメイト、サンリオショップ、ゲーセンのサンリオコーナー、ガチャガチャのサンリオコーナー、ドンキホーテを見て回り、新商品が出れば2人に写真を送る習慣が身についてしまった。Дзіянаはシナモン、Лизаはクロミが好きらしい。私もシナモンが好きだけど、私の好きとは多分かなり度合いが違う。

3月 ラーメン屋で展示して欲しいというオファーがあったのでそれに応じたもののこの展示は見事に転けてしまった。12月から断続的に続けていたのが良くなかったのかもしれない。在廊中暇だったのでスピーカーでベラルーシ人の友達の好きな音楽をずっと聴いた。藤井風や女王蜂が好きらしい。
BUCK-TICKとTHE YELLOW MONKEYの初期のアルバムは展示期間中にほとんど聴いた。
中旬、東京の新宿にあるギャラリーで展示をしたくて作品を持ち込む。そこで自分の作品についてプレゼンしたのだが、今思えばあれは本心ではなかったのかもしれない。とはいえ、ベラルーシで撮った作品、私の脳はいつの間にかベラルーシという空間に犯され、説明的な写真になっていると言われた。良い写真はどこで撮ってもいい写真だし、君の写真はベラルーシがなんとかしてくれると思っていると言われた。その通りだった。
仕事の話も展示の話も上手くいかない中で、ポーランドにいる知人の知人から展示のオファーを貰った。場所は図書館。
月末にДзіянаとЛизаにお使いの品物を送った。

4月 福島に画家の知人が居る。彼を訪ねるためにまた旅に出た。彼と話をしている時が1番楽しいかもしれない。作品に対する考え方を言い合える人がいるのはきっと素敵なことだと思う。
Дзіянаから自分の実家に招待する旨のメッセージが届く。私がДзіянаの部屋で寝て、Дзіянаが空いている部屋で寝ると言っているが、普通逆だろう。それから、もっと長くいてもいいけど私が居ないと言うので、いなくていい、と返すと、別の空き部屋を借りてもいいから住んだら? と返ってきた。彼女の実家はミンスクではなくボブルイスク、州で言えばマギリョーフ。ミンスクにいる知人が持っているマンションを借りるつもりでいたが、彼女のアパートを借りることにした。持ち主は彼女の祖母だが。今、ビザの申請を大使館にしている。
ベラルーシでの仕事の話が無くなって途方に暮れていた時、たまたまДзіянаとЛизаの2人がお使いを頼んでくれたおかげで生きるモチベーションが戻った。お使いに応えた結果、住むところの面倒まで見て貰えた。こんなことになるとは思っていなかったので、この2人には頭が上がらない。



高野山とふもとジャパンコーヒーフェスティバル(前編) - RT

ある日南海電車に乗っていたらポスターが貼ってあった。和歌山県の紀北あたりで、各駅停車に乗りながら橋本〜高野山、9つの駅のあちこちに出店しているお店のコーヒーを飲みに行くイベント。

テーマがあって、今回は「ミャンマーのコーヒー」だという。
最近コーヒー豆を煎ることは出来ていないけどコーヒーを好きな気持ちは変わっていなくて、このイベントに行ってみたい。でも体力的に行けるかな。毎日寝込んでいたのが2日に1日くらいになってきており、家族に話して、当日の朝行くかどうか決めようとなった。

イベントの朝、すっきりと目覚めた。朝御飯を食べて、九度山町まで車で連れていってもらった。
道の駅に車を停めさせてもらって、お茶を買った。
そこからイベント受付の九度山駅まで10分ほど歩いていく。柿の葉寿司のお店があった。お庭を見ながら食べることも出来ると書いてあって、お昼ここで食べようか。コーヒー屋さんでサンドイッチとかあるかもしれへんし、まず行ってみようか。と食べることばっかり考えている。今日の気分は上々なようだ。道の脇に川が流れているので覗いてみる。きれいやなと声を上げる。空気もきれいで息が楽だ。まだイベント会場にたどり着いていないのに来てよかったと思っていた。

受付でパンフレットとコーヒーチケット、当日限定の乗り放題切符を買った。
チケットは3枚セットで、2か所は好きなところを選べて1ヶ所はガラガラを回して行くお店の名前が出てくる運命のチケットというものだった。たまたま主人もわたしも同じ駅のお店が当たった。

九度山の駅舎は時代劇をカラフルにしたような飾り付けがしてあった。長いベンチに腰掛けて電車を待つ。もう旅行している気分になる。おむすび屋さんがあって行列が出来ていた。食べてみたいけどまず先に進もうと思った。

電車は対面のボックス席と、その横に2人がけの座席があって、車両が少し旧式なのと風景のおかげなのか、とても懐かしい感じがした。
外国人の人が何人か乗っていた。高野山に行くのだろう。日本の文化に興味を持ってくれることが嬉しくて、どうぞ良い旅をと思う。
各駅停車と間違えて乗ってしまった電車は極楽橋まで停まらないようで、電車の旅を楽しんで、戻りながらコーヒーを飲もうかと言うことになった。
ガタンゴトン電車は山を上っていく。トンネルをひとつ抜けるごとに家が少なくなっていく気がする。濃薄の緑。藤の花の紫。山桜。目に入る全てが優しく心を撫でてくれるように感じる。
極楽橋に着いた。
駅の名前になっている赤い橋が見える。
もうホームに戻りの電車が停まっていたので、改札を出ずに駅舎から橋と桜の写真を撮った。また今度来てここの駅で降りてあの橋を渡ってみよう。今度は娘も連れてこよう。

一駅だけ乗って紀伊神谷の駅で降りた。無人の駅で、線路の横はもう山林だった。ウグイスが鳴いている。駅に咲く椿の赤と苔の緑がきれいでまた写真を撮った。こんなにきれいなのにわたしの撮る写真にはそのきれいさが写りきらなくてもどかしく感じた。

山道を歩いていく。元学校だったところが主な会場になっているようで、そこを目指した。
途中にイベントの看板があって、森に男の人が座っていて、珈琲屋さんかな? と小声で話したけど、キャンプしながら瞑想している人のようにも見えて、声をかけられず通りすぎた。ここからどうやら急激な坂を上っていくようだ。しんどい。しんどい。と言いながら笑った。途中にお稲荷様のお社があって、ご挨拶をした。
そこからはお稲荷様が背中を押してくれるみたいに山道を上り終える事が出来て、平屋建ての学校跡に着いた。

そこでもコーヒーを出しておられたのだけどその先のお地蔵様のところに出店しているお店に行きたくて、懐かしい教室や音楽室を見学させてもらって、お地蔵様に向かうことにした。
主人が「こっちや」と言ったけど学校の壁にかかっている地図を見たら反対のように思えて、地図の通りに歩いていった。いくつかお家があって、空き家になっているところも多くて、かつてここにいた子供たちのことを想像しながら歩いた。歩けば歩くほどどんどんなにも無くなっていって、さすがにGoogleマップを見てみよう、圏外でなくてよかった、最初から見ればよかった。お地蔵様は主人の言ってた方向にあるようだった。しゅんとなってちょっとふくれて黙々と来た道を戻る。お腹が空いたから学校のところでお昼を食べることにしてタケノコご飯のおにぎりと豚汁のセットと山菜の天ぷらを買って校庭の見えるベンチに座って食べた。
山菜の天ぷら200円と看板に書いてあったけどお店のおじさんが、250円かな? と言ったのでなんかわからないけど払おうとしたら主人が看板を見に戻って、山菜の天ぷら200円と書いてありますよと言った。そしたらやっぱり200円だった。

お昼ごはんを美味しくいただいて元気が出たので今度は間違わず歩いていった。
お地蔵様に着いたらたくさんの人がいて、ハイキングのグループのようだった。しばらく待とうと思ってまずお地蔵様にお参りしていたら、電車の時間が迫っているので珈琲キャンセルしていいですか? と言ってみんな去っていった。チケットを木のお皿に入れて2 杯お願いした。

店主さんが不思議な感じの人で、パンフレットのお店紹介のところに外国人の写真があり、てっきりミャンマーの人だと思っていたらその写真は現地のコーヒー農園の人だそうで、御本人は若い日本人だった。
焙煎したコーヒー豆を販売して生計を立てておられること、何度かこのイベントに出店しておられることなどを聞いた。
漠然とコーヒーというよりテーマがある方がお客さんが多い気がします。今回はミャンマーのコーヒー。飲んだことありますか? とおっしゃったので、一度飲んだことがあります。ミャンマーは今国内が不安定な中でコーヒーを栽培しておられるのですね。と話したら少し間が開いて、店主さんがミャンマーの農園に行った時も人が殺された話を聞いた、とおっしゃった。
殺された人はなんにも悪いことしてなくて、ただ軍事政権に反対しただけで。と言ったら、また少し考えて、なにも悪いことをしていない、政府に反対して、それを隠せない人。と、おっしゃった。隠せない、という言葉がいまでも心に残って離れない。うまく隠したら生きて行くことができるのかもしれない。けどそれはとても苦しいことだろう。隠しながらしなやかに生きる人もいるのだろうか。

その時もうひとりお客さんが来てその話は終わって、店主さんは手回しのミルでゴリゴリと豆を挽いている、まだまだコーヒーが出てくるには時間がありそうだ。静かなゆっくりとした時間が流れる。途中でキャンセルした人達はさぞ焦ってはったんやろなと思ってちょっと面白かった。

来たお客さんもハイキングの人で、長く歩いて来られたようで、ここの山は空気が違う、河内長野の辺りで空気が変わるとおっしゃった。高野山に主人の祖父母のお墓があるので身近に感じて慣れてしまっているけどやはりここは聖地なのだと思った。

その人はイベントのことを知らなかったみたいで、店主さんがイベントの参加料が1800円でコーヒーチケットが3枚ついていると説明していて、その人はここで飲めたらいいだけのようだったので、良かったら私達が2枚買い取りましょうか? と声をかけた。1800割る3でと1枚いくらか計算しようとしたら主人が、追加チケットは3枚1200円やからそれを買えばいいんやと言った。そうか。パンフレットは要らないんだったら私達が追加チケットを買って、1枚お譲りすればいいんだ。でも店主さんはあんまり運営のことに詳しくなくてチケットを持ち合わせていないようで、じゃあさっき木の皿に入れたチケット2枚をもらったらいいんちゃうん? と主人が言って、それはややこしくなるだろうと思ったけど、少し経って「そうです。ご主人のおっしゃるとおりこの2枚を取ってくれたらいいんだ。」と店主さんが言われたので、いいですか? ほんとにややこしくなりませんか? と言って1200円を渡してハイキングの人から400円もらってお皿からチケットをもらった。

山菜の天ぷらのことにしろ、わたしは主人のこういう抜け目のない、絶対損したくないところがちょっと嫌で、でも実際主人がしっかりしていなかったらうちの家族は今まで生きてこられなかっただろう。
その割にすぐ騙されるところもあって、先日娘が首が凝ると言ったときに通販で2個組の枕買ったでと言うから楽しみにして、忘れた頃に届いた頚椎なんとか枕は確かに首のラインに沿うように特徴的な形をしていたけど、一個3500円するようには見えなくて、チャックが付いていたからカバー洗えるんや、良かったーと言って開けたら中に綿がそのまま入っていて、このチャックの意味なんなん? 見れば見るほど怪しい感じで、会社のクチコミを見たらなんか詐欺っぽかった。まあわたしはその枕にタオルをかけて愛用している。娘は高過ぎてしんどいと言って使っていない。

コーヒーの話に戻る。店主さんは3つの器を温めていた。抹茶碗もあって、まるでお茶のお手前みたいだ。そう思ったら時間がかかって当然だ。
私達のは何処かの陶芸家さんの作られた夫婦茶碗だそうで、メモしておくのを忘れたのでどこかわからない。コーヒーはすぐ飲める丁度いい温かさで、深煎りだけどあまり苦くない。コクだけがある。イベントの1杯目に素晴らしい味のコーヒーをいただいた。満足した気持ちで御馳走さまとベンチから立った。店主さんが、またまた。と送り出してくれて、ほんとうにまたどこかで会えるような気がしてくる。
この山のどこかの森でライブがあるらしいと聞いて、瞑想しているような人のところだと直感した。次はそこを目指す。

(続く)


かなしみのかたまり - 橘ぱぷか

初めての妊娠。妊娠後期は止まらない体重増加とのたたかいだった。グラフを見れば、なにかの間違いかと思うほどの大胆な角度をつけて、日々ぎゅんぎゅんに右上がりしていく。
そんなに食べていないのになぜ? と焦った。もはや空気中にカロリーが含まれているのではないかとさえ思った。

それでも私は、妊娠中だし仕方がないよねー、と、開き直ることにした。なにしろやっと食べるよろこびを取り戻しのだ。食べ物はおろか水すら飲むことができなかった悪阻期間。生きるために持続点滴をし、気持ち悪すぎてスマホすら触れずに壁を見つめ、息を吸って吐くだけで精一杯だった毎日。今は悪阻前の食事量に戻っただけだし、壮絶なあの日々を思えばこれぐらいの増加、当然ゆるされるでしょう、そう思っていた。

ところがどっこい息子の時お世話になった産院は体重管理に厳しいタイプの病院だった。このたびの急速な増加を受けて担当医から猛烈に叱られ、「風呂から上がったらもう水を飲むな!」「豆腐にも醤油をかけるな!」とアスリートばりの指示を受けた私は、ふらふらと診察室を出た。待合の椅子に座る。ポロポロと涙が出てくる。
看護師さんにやさしくフォローされながら、静かにマタニティビクスの予約をする。くやしくて悲しい。できる限りのことはやってやろうと思った。
そしてそれから4ヶ月後、無事にハイパーキュートな息子を出産した。

昔から体型についてのネガティブなことをとやかく言われるのも、誰かに向けて言っている人を目にするのも嫌だった。わたし自身、ふだんから増えたり減ったりと変化が激しいほうだというのは自覚している。でも毎日必死に生きていく中でこのかたちになったのだから、誰にもなんにも言わないでほしい。いやなできごとを受けてそのストレスで太る人もいれば、ご飯が喉を通らずに痩せていく人もいる。同じように過ごしていても、なにもしなくてもなにかをしても、その体型から逃れられない人もいる。努力すればすべてのことがなんとかなるだなんて、傲慢だと思う。

そんなふうに考えている。考えているけれど息子のあとに娘を産んでから2年。戻りかけては再び増え始めた体重と、体型の変化をうっすらと気にしながら過ごしていた。
先日、いつものようにスーパーで買い物をしているときに、身体の真ん中を駆け抜けていく衝撃があった。帰り道、静かにチョコザップへと足を向けた。


特売のパック片手に立ち尽くすこのかたまりが0.5kg


夢と海と路地と、会話の断片 - 下窪俊哉

 秋子のシャツに咲いているオレンジ色の花が色を変えて揺れるのを西本は見て、そのリズムに合わせるようにした。そこに居合わせた人たちに笑いが沸き上がると自然に、輪が崩れて、バラバラになった。
 ──夢ではないかしらこの場面は。
 ──だとしたら思い切ったことができるね。
 ──何それ、変なことは考えないように。
 ──変なことって何、きみを海につき落とすとか······
 ──そんなことを考えてるの、怖い人······
 ──変なことの例で、いま考えたんだよ。
 ──まずそれを考えるの、変な人······ あ、でもヨシは昔から変な人だったね。
 ──自分ではよくわからない。いたって普通の平凡な人だと思っているから。
 ──それはもう絶対にちがう。ヨシのような人には会ったことないから。私にとっては大切な人だったし、いまでもそうね。
 ──その人に、きみは突然別れを告げに来たんだよ。覚えてる。
 秋子の目が急に大きくなり、迫ってくるようだった。海から少し離れた路地をふたりは歩いていた。どこへどう行くというアテは、秋子にはあるのだろうが、ついて来ているだけの西本にはわからない。
 ──もちろん覚えてる。どんな話をして別れたのかはもうボンヤリしているけれど。
 ──それはぼくも同じだ。
 ──私はあなたからたまに連絡の来るのが不思議でならなかった。あんなに一方的に、ひどいことをしてしまったのに。
 ──だって、二十年後に会う約束をしていたようだから、連絡先を知らせて、知っておかないと、その約束を果たせないじゃない。
 ──それ、覚えてたの······
 ──もちろん忘れていた。
 ──じゃあわからないことね。
 ──理由が消えて、行為だけ残って続いていたっていうことじゃないかな。
 ──なぜ連絡しているのかもわからず······ 何かよくわからないものが時々送られてくるんだわ。
 ──だまし絵みたいな絵ハガキとか。
 ──何も書いてないんだもの。一体なに······ って思うじゃない。
 路地からまた海へ抜ける。ほっそりとした客船が、海の向こうで静止しているように見えた。それが最初、西本にはクジラの尾びれのように見えた。この海に迷いこんできたクジラが、頭のなかでゆっくり泳ぎ出すのを感じた。
 ──偶然見つけたものを、あ、これを送ればいいんだ、って直感で思うんだよ。
 ──でもその相手が、どうしていつまでも私なんだろう。
 ──それは、やっぱり、と西本は区切るようにした。
 ──············
 ──ぼくにとっても大切な人だからでしょ。
 ──いいえ、私は嫌われて当然だったはず。
 ──嫌ってないよ、覚えている限りでは。
 ──忘れたところで嫌われてる可能性もあるのか。
 ──よくわからないね。別れたいけど、別れたくないっていう妙な感じだったのは覚えているけど。

 

読むのやめた - Huddle

庭のバラが次つぎとひらきはじめています。昨年はあまり元気のなかったピエール・ド・ロンサールがたくさんつぼみをつけていてうれしい。剪定と誘引がうまくいったのでしょうか。まいあさ庭に出るのがたのしみになっています。

本を読むのをやめました。今年度は町内会長の仕事を引き受けてしまったおかげで、余暇の時間がすべて回覧板づくりで削られていくためです。それでも日々読みたいものはたくさんあるので、代わりに耳で聴いています。いちばん時間を割けるのが通勤の車のなか。もちろん本は読めないので、これまではポッドキャストを聴いたり、ビデオストリーミングの音だけを楽しんでいたのですが、メインが本の朗読に置きかわりつつあります。ほかにも、ウサギのためにシロツメクサを摘みにゆくあさの散歩をしながらオーディオブックを聴く、あるいは切っても切ってもすぐ伸びる庭木の剪定のときに聴くなど、これまで本が読めなかったシーンで小説やエッセイに触れられるのはおもいのほかよい体験だと感じています。これならページをめくる動作が歩数にカウントされて困ることもありません。

問題は、オーディオブックのラインナップに読みたい本がぜんぜんないことです。この手のサービスではAmazonが提供するAudibleがよさそうとのことで利用を開始しましたが、なにしろ大江健三郎の本が見つかりません。文体がAudibleに向かないのでしょうか。いまは梨木香歩の『歌わないキビタキ 山庭の自然誌』を聴いています。これは八ケ岳での山小屋暮らしを綴った『炉辺の風おと』の続編ですが、『炉辺』のほうはまだAudibleになっておらず、梨木香歩でさえ2冊しかラインナップにないようなのです。オーディオブックというのはエンタテインメント作品に特化したアプローチだということなのかもしれません。

そこで、Audible以外の方法を試してみることにしました。Amazon Kindleで買った電子書籍をスマートフォンに読み上げてもらえばよさそうです。しかし、わたしの電話(Google Pixel)はThe Other OSを搭載しているせいか、Kindleアプリに読み上げ機能がみつかりません。たしか、いぜん使っていたiPhoneにはあったような気がするのですが······ ネット検索すると「ユーザー補助機能のTalkBackを使えばいける」とのことで試してみたところ、電話がまともに操作できなくなり、これは副作用がすぎる、とおもいKindleはあきらめました。

The Other OS(Androidのことです)にはGoogle Play ブックスというKindleっぽいアプリがあったことを思い出して起動してみたところ、こちらにはちゃんと読み上げ機能があるではありませんか。しかも購入している電子書籍の中に大江健三郎の『M/Tと森のフシギの物語』があった(すっかり忘れていた)ので、さっそく読み上げ機能を試してみました。実在する人間が朗読するAudibleとちがい、感情を持たないタイプの非実在女性の声でかなりクセが強いですが、文脈を無視したでたらめな漢字の読み方が頻発すること(いちいちおもしろくなってしまう)をのぞけばふつうに聴けるレベルだなと思いました。『M/T』では主要登場人物の「壊す人」がつねに鉤括弧で挟まれているのですが、機械音声がこの鉤括弧のあとで必ずひと呼吸おくので、「壊す人」の登場(発語)のあとで必ず時間が止まったような零コンマ秒の静寂が訪れ、とにかく「壊す人」が際立つ、というおもしろさもありました。聴きつづけていると、大江健三郎にはむしろこちらのニュートラルな機械音声のほうが合っているのではないかとさえ思えてきます。少なくとも、野沢雅子が朗読してしまうといったミスマッチは避けられていると確信します。ちなみに、Google Play ブックスにもちゃんとオーディオブックが用意されているのですが、Audible以上にラインナップがさびしいです。

iPhoneの方には関係なさそうな話を延々と申し訳ございません。KindleアプリでiPhoneが読み上げてくれるカフカの『城』(原田義人訳)もけっこうよかった記憶があるので、ぜひ試してみてください。いまならもっと精度があがっているはず。

Audibleにラインナップが増える未来ももちろん歓迎しますが、ひとつの作品に対してひとつの朗読しかないので、好きな作品でも「この声は合わないな」といったミスマッチがあると、とたんにかなしい気がしてしまいます。このさき機械音声がもっと進化して、好きな本を、好きな声優さんの声を選んで聴けるようになる日がくるといいなとおもいました。期待しています。


表紙画・矢口文「集まった日」(雑紙(封筒の内側)、色上質紙)


巻末の独り言 - 晴海三太郎

● 今月もWSマガジンをお届けします。暑かったり、涼しかったりをくり返している春と夏の中間のような季節ですが、のりまき放送さんによると5月はまだ「春」なのだとか。● 今月は初登場の方がふたり、いらっしゃいます。ひとりは『アフリカ』初期の書き手の常連だった片山絢也さん、本当に久しぶりに書いてみたものだそうです。もうひとり、田村虎之亮さんは写真家で、SNSを通して連絡がありました。おふたりとも、WSマガジンへようこそ!● このWSマガジン、参加方法は簡単で、まずは読むこと、次に書くこと(書いたら編集人宛にメールか何かで送ってください)、再び読むこと、たまに話すこと。全てに参加しなくても、どれかひとつでもOK、日常の場に身を置いたまま参加できるワークショップです。● 書くのも、読むのも、いつでもご自由に。現在のところ毎月9日が原稿の〆切、10日(共に日本時間)リリースを予定しています。お問い合わせやご感想などはアフリカキカクまで。● では、また来月!


道草の家のWSマガジン vol.18(2024年5月号)
2024年5月10日発行

表紙画と挿絵 - 矢口文

ことば - RT/犬飼愛生/片山絢也/下窪俊哉/橘ぱぷか/田村虎之亮/なつめ/のりまき放送/Huddle/晴海三太郎

工房 - 道草の家のワークショップ
寄合 - 終日運休部
読書 - 何でもよむ会
放送 - UNIの新・地獄ラジオ
案内 - 道草指南処
手網 - 珈琲焙煎舎
喫茶 - うすらい
準備 - 底なし沼委員会
進行 - ダラダラ社
雑用 - 貧乏暇ダラケ倶楽部
心配 - 鳥越苦労グループ
謎々 - 逆さにすると楽器になるアルファベットは、なーに?
音楽 - あなたの寝息
出前 - 残飯整理研究会
配達 - 竹馬便
休憩 - マルとタスとロナとタツの部屋
会計 - 千秋楽
差入 - 粋に泡盛を飲む会

企画 & 編集 - 下窪俊哉
制作 - 晴海三太郎

提供 - アフリカキカク/道草の家・ことのは山房


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