見出し画像

『瞳をとじて』 まなざしの行方、奇跡と宇宙のコントロール

編集技師のマックスが言うには、「ドライヤー以降、映画に奇跡は存在しない」と。どこかで聞いた言葉だなと思い、記憶を手繰り寄せると、同じようなことをジャン=リュック・ゴダールが言っていた。
『ゴダールの映画史 第七章 宇宙のコントロール』に「ヒッチコックとドライヤーだけが奇跡を映画にできた作家たちだ」というくだりがある。
画面に映るのはアルフレッド・ヒッチコックの『間違えられた男』の最終盤にして最も印象的なシーン。「奇跡」を映画にすることができるなんてすっかり忘れていた。

ビクトル・エリセが『マルメロの陽光』以来の長編映画に戻ってくると聞いて期待が抑えきれなかったが、『ミツバチのささやき』や『エル・スール』に感動したようには感動できないかもしれないとも疑った。上映時間も3時間近いことだし、しかしエリセはゴダールの如く自分に課すように上映時間を二桁の枠内に収めるような監督ではないことは知っていた。最初の二本が必然かつ偶然に100分以内に収まっているだけだ。なにせ『エル・スール』は二部作構想なのだから、もし第二部が実現していたらやっぱり3時間ぐらいにはなっただろう。

それで、なぜ「奇跡」の話になるかというと、『瞳をとじて』というビクトル・エリセ約30年ぶりの長編映画がどこへ向かっていくのか固唾をのんで見守っているうちに、上記の台詞がでてきたからである。
このシークエンスの直前に、失踪した父フリオと再会したアナが闇に溶け込み「私はアナ(Soy Ana)」と独り言つ恐るべきシーンがあった。既に映画はクライマックスへと向かいつつあることを確信したが、その瞬間に3時間近い上映時間の意味が諒解されたのである。
映画の闇と映画館の闇が溶けあって、ひとつの時間が形成されつつあるのを感じた。アンリ・ベルクソン的な持続の概念といってよいだろう。様々な持続が、より大きな持続のなかを流れている。映画の持続と映画館の持続の統合、さらにそこを越えたもっと大きな持続。宇宙である。宇宙のコントロールとはすなわち巨大な持続のコントロールということなのだろう。
アレクサンダー大王やカエサル、ナポレオン、ヒトラーが成し遂げられなかった「宇宙のコントロール」という言い方をゴダールはする。ヒッチコックはそれを成し遂げたと。
だが、エリセ自身はヒッチコックのように宇宙のコントロールを図っているのではない。「奇跡」はドライヤー以降存在しないのだ。だが、それならば映画はどこへ向かおうとしているのか。

ビクトル・エリセの重要な主題として「まなざし」というものが挙げられる。『ミツバチのささやき』や『エル・スール』のまなざし、つまりアナやエストレリャのまなざし。まなざしとは目と目から発せられる視線であるが、アナやエストレリャがまなざしているものが何かというのを一概に断じることはできない。
というよりも何か特定の対象を見ているのではなく、そこに何があるのか分からず、一生懸命に見ようとしているようだ。無垢なる瞳と言っていい。
『ミツバチのささやき』から『マルメロの陽光』に至る物語は何かをまなざし、感応し、行動する一連の共通項が存在する。観客もまたエリセの登場人物が見ているものを見ようとする。

A・ヒッチコック『サイコ』より
ヒッチコックの「まなざし」とエリセの「まなざし」は両極のようでさえある

ところが『瞳をとじて』ではまず20年前にミゲルとフリオが撮影していた映画が『別れのまなざし』であることからわかるように、「まなざし」をメタ化している。瞳を投げかけるのはアナでもエストレリャでもアントニオ・ロペスでもない。
半世紀越しにアナ・トレントがアナ役で出演し、ミゲルの隣で暮らす夫婦に女の子が生まれたらエストレリャと名付けようかという話し合いが繰り出されるあたり、アナとエストレリャを意識的に捉えなおす意志を感じる。
そしてクライマックスがやってくる。

海辺の施設で記憶をなくしたフリオが働いているという情報を聞きつけ、ミゲルやアナがやってくる。ミゲルはマックスに頼み込んで、もはや上映されることはない『別れのまなざし』を廃館になった映画館で上映する。
ドライヤー云々のくだりはマックスが上映準備をしながらミゲルに語る言葉だ。映画の上映が始まり、登場人物たちはスクリーンをまなざす。かつて『ミツバチのささやき』でフランケンシュタインの怪物に大きな黒目を輝かせたアナもスクリーンを見上げる。
我々、『瞳をとじて』の観客たちも登場人物たちと『別れのまなざし』を見届ける。ミゲルがなぜ『別れのまなざし』を上映するのか。スクリーンで動く俳優としてのフリオを見せることによってフリオの記憶を復活させようと試みているのか。もしそんなことができたら、それこそが「奇跡」なのだ。カール・TH・ドライヤーのように「復活の奇跡」が描かれるのだろうか。
『別れのまなざし』も終盤に差し掛かり、劇中のフリオに娘を探すよう依頼した男が娘に見守られながら亡くなる。そしてフリオとその娘はスクリーンのこちら側をまなざす。それが長い間続く。
20年前の彼らに登場人物たちも観客たちも見つめ返されている。何かが起こりそうな予感がする。長い長いそのシーンが続いて、フリオは目に涙を浮かべ、そして瞳をとじるーーー

無垢なる瞳でなにかをまなざしていた登場人物たちを描き続けたエリセが、そのまなざしにさらされた人を描くのが『瞳をとじて』だ。
その時、「奇跡」は起こるのだろうか。起こったかもしれないし、起こらなかったかもしれない。エリセはそれを描かない。ただ瞳をとじるだけ。
"CLOSE YOUR EYES"と投げかけられる"YOUR"とはまなざしを受け止める側のことだろう。映画はしかしドライヤー以来の「奇跡」の直前にまで近づいている。
だが奇跡の瞬間を描くことは映画の本旨ではない。まなざしを投げかけ、そして受け止め、瞳をとじる。宇宙のコントロールのためではなく、その瞬間のための170分である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?