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巡る幸色

  何時のまにか私の一番好きな季節、秋は姿を消し、初雪が降って独特なあの冬の匂いが強くなっていた。

  今年の秋ははやかった。唯一風情に触れたと思えるのはアパートの近くの公園の銀杏並木を見たことだけだった。普通、落ちた銀杏を絨毯に見立てて写真を撮ったり、踏んで音を楽しんだりするだろう。そんな余裕も私には無かった。食欲の秋、芸術の秋、読書の秋と、時間と心 _______ 共に余裕のある人々は云う。秋に着ようと楽しみにしていたピスタチオカラーのワンピースをさらりと羽織るような洒落た時間も無かったから、冬に白のタートルネックとロングスカートを重ね着するとしよう。


  来年の1月には国立大学受験を迎える。きっとそのせいで時間にも心にも余裕がなかったのだ。知り合いには推薦を終えた人もいて、それほど努力をしなかった私は羨むことしか出来なかった。しかも私は高校から一人暮らしを始め、家事なども1人でやりくりしなければならなかった。そりゃあ余裕もない。そんな状態で教室で推薦合格を果たした人達が明るい未来を語っているのを聞いてしまうと本当に狂いそうだった。狂ってしまわないように、今はイヤホンで耳を塞ぐ。私の機嫌を取れるのはあのワンピースを着て、カフェのカウンター席でモカを飲みながら静かに過ごす自分だけだった。あぁ、ワンピースを1枚で着れる季節が恋しい。今の何よりも。


  また知らぬ間に時は経ち、ワンピースには淡色のカーディガンが似合う季節になった。合格通知が届き、苦しかった分の涙が溢れた。今はご褒美にちょっとだけ背伸びしたスーツを購入しようかな、と妄想に耽っている。2,3ヶ月前にお世話になったカフェではすっかり常連客扱いを受けるようになり、知り合いの店員は「おめでとう」とお祝いまでしてくれてモカは半額になった。「引っ越すの?」と聞かれたが、生憎私はこの街を気に入ってしまっている。もちろんここのカフェも。夜になれば星がはっきりと見えるように何も無いと言われれば何も無いが、それがまた地味な私にはぴったりで安心をくれていた。「あと4年はここにいますよ」と明るい声で答えた。カーディガンを椅子の背もたれに掛ける。もう少ししたら違う色のワンピースを出そう。


  ワンピースは白になっていた。麻は風をよく通してくれるからとても涼しかった。部屋の掃除をした時に祖母がくれた金魚の風鈴が出てきたから、それをベランダに吊るした。陽射しが体を垂直に刺す中、歩いて大学に行くのは気が向かなかったが、いざ始まってみると蝉時雨が降る道をこのワンピースで歩くのは悪くないと思った。休講の時間があると1人であのカフェに行く。ドアを開けた瞬間に吹く涼しい風が好き。私の姿を見てにっこりと目を細めてくれる店員はいつもの席に案内してくれた。「いつものでいい?」と聞いてくれるが、前に教えてくれた夏に出る新作…

そうだ、ブルーサイダー。

それを頼もうとしてメニューのページを捲った。「このブルーサイダーにします」と言うと、店員もその話を覚えていてくれたのか「発売の前から教えたのは秘密よ?」と愛くるしい悪戯な顔をした。はい、と笑って返事をした。待ち時間に明日は何を着ようかと悩むのが私の日課である。秋物、そろそろだろうか。


  秋が来た。私の1番好きな季節。あのピスタチオカラーのワンピースをハンガーにかけて3ヶ月分のシワを伸ばした。やっぱりいつ見ても綺麗だ。この色、この形が好き。突然、去年の秋を思い出した。泣きたくても泣けなかった自分。余裕が無かった自分。あの時は大変だったかもしれないけれど、今となれば1年前の自分は可愛く思えて、偲ばざるを得なかった。朝に見る公園の銀杏並木は今年も綺麗で、毎朝心地良い風に揺られ、日照りを受ける木々を写真に残した。


  あのワンピースが秋に着たかった。その季節が巡ってきた。今年の秋は去年の私には想像がつかないものにしてあげよう。
  過去の私が、巡るほど幸せになれるように。 ______

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