あの町の隠れ家

  少し離れた薄暗い小道を行った先、まるで忙しい日常から隠れているようなカフェを見つけた。

 撮影も、会話も禁止。菓子と珈琲とお酒を楽しむ場所。だからこの手記はお店を出て記憶を辿りながら書いている。聞こえるのは店主が豆を挽く音、グラスがぶつかる繊細な音。店内は深夜1時を思うような暖かい光と影。私の目の前には辛口のジンジャーエール。錆びた不格好な瓶に、ドライフラワー。

  記憶を辿りながらといいながら、私は意外にも慌てている。あのショコラテリーヌの感動を忘れたくなくて。お酒が強くきいた、しっとりした濃いテリーヌだった。口に近づけただけで、アルコールを感じた。全て食べ終わった頃には、体が火照る感覚もあるほどで、雰囲気のせいもあるのか、仄に眠たくなってきていた。

  この場所は急いではいけない。いつもの日常を忘れなくてはいけない。あの人のことも、私を急かすあの事も。今は今の五感への緩やかな刺激を抱きしめるように受容する。全て忘れて、今は眠たくなる感覚に身を委ねるしかないのだ。炭酸がグラスから弾ける音も聞いて、やかんからお湯が注がれる音も聞いて。熱くなる自身の喉と、隙間から吹く秋風を感じて。

  17:29
  金木犀の香りが漂う帰路をそれはそれはゆっくり歩いている。半月と群青に染まりかけの西の橙。家に着いたら、母にメールでミネストローネの味付けを聞こうと思う。

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